第3話 数えていますよ、ちゃんと
その日、膳が運ばれてくる前に、白い手袋の人が厨房から出てきた。
背は高くない。白髪の混じった髪をきちんと分けて、手には何も持っていない。
その人は大食堂に入ると、並べられた皿の前に立ち、順に手をかざしていった。触れはしない。皿の上、指三本ぶんほどの高さで、掌をゆっくりと動かす。湯気の立ち方を見ているようにも、匂いを確かめているようにも見えた。
五つ目まで終えると、ベルガーさんに向かって小さく顎を引いた。
「結構です」
それで膳が動きはじめる。
「侍医の先生でございます」
ベルガーさんが、わたくしの手を布で拭いながら言った。
「儀の前に膳をあらためるのが、宗務院の定めでございます。この二十年、一度も欠かしておられませぬ」
二十年。
わたくしが生まれる前から、この方はこの屋敷で同じことをしている。
その人がこちらへ来た。爪が短く切り揃えられていて、指の関節に皺がない。医者の手だと思った。
「はじめまして、ではありませんね。着任の日に一度、脈を診ております。覚えておられないでしょう」
「申し訳ありません」
「謝ることではありません。あの日はお疲れでしたから」
声が低くて、ゆっくりしている。急かされている感じがしない。
「顔色が良い。今日はよく眠れましたか」
「はい」
「結構」
それから先生は、わたくしの手を取った。断りもなく取ったのに、無作法に感じなかった。掌を上に向けさせ、指の腹を一本ずつ押していく。
「痺れは」
「ございません」
「爪の色が少し薄い。もっとも、この時期はどなたもそうです。日が短くなりますから」
手が離された。
「月に一度、診させていただきます。務めを続けてよいかどうかを、わたしが宗務院に書いて出す決まりでしてね。書けと言われれば書きます。書けないと思えば、書きません」
その人は満足そうに一度うなずいて、壁際へ下がった。
晩餐が始まった。
一皿目。豆を潰した温かいもの。舌の上でざらついて、飲み下すのに少し力がいる。三十を数える。何も起きない。
二皿目。鴨の肉。皮の部分が厚い。三十。何も起きない。
三皿目。汁物。表面に膜が張っていた。少し冷めている。
三十を数えた。
何も起きない。
四皿目、五皿目と続けて、いつもどおりに終わった。
「毒味、終わりましてございます」
閣下が匙を取られる。金属が皿に当たる音。わたくしは立ち上がって、一礼して、大食堂を出た。
廊下は冷えていた。
壁の石に指を這わせながら歩く。使用人棟までは、蝋燭を三本数えるあいだ。
二本目の下を通り過ぎたあたりで、光の縁が滲んだ。
蝋燭の芯が乱れたのだと思った。目を細めて、もう一度見る。滲みは消えない。広がっていく。
足を止めた。
壁に手をつく。石が冷たいはずなのに、手のひらの下に何も感じない。
音が遠い。厨房の物音が、水の底から聞こえてくるような具合になっている。
まだ歩ける、と思った。
部屋まではあと三十歩ほどだ。数えれば着く。務めの席でいつもそうしているように、数えれば済む。
一。二。三。
四歩目で、壁が横にずれた。ずれたのは壁ではなく自分のほうだと気づいたときには、もう肩が石に当たっていた。
喉の奥が狭い。息を吸っているのに、入ってこない。
どの皿だろう、と考えた。豆か、鴨か、膜の張った汁物か。考えても分かるはずがないのに、それでも順に思い返していた。
膝が抜けた。
床に肩から落ちたのは分かった。頬に石の冷たさが当たって、それだけが妙にはっきりしている。
誰かが走ってくる。
布と汗の匂いがして、太い腕が肩の下に入った。持ち上げられる。揺れる。天井の梁が一本ずつ流れていく。
そこで途切れた。
目を開けると、天井が低かった。
薬草を干した匂いと、酢の匂いが混ざっている。寝かされているのは寝台ではなく、幅の狭い長椅子だった。
横に、白髪の混じった頭があった。
「よく耐えましたね」
先生は、わたくしの手首から指を離した。
「三皿目のあとから数えて、半刻とすこし。倒れたのが廊下でよかった。石の上でしたから、体を冷やせました」
「……何が、入っていたのですか」
自分の声が掠れていた。
先生は薬箱の蓋を閉めて、それからこちらを見た。
「分かりません」
言葉に、ためらいがなかった。
「毒を見分ける手立ては、この国にはありません。煮ても、水に溶かしても、色は変わらない。医者にできるのは、倒れた方の様子を見て、次にどうするかを決めることだけです」
「では、わたくしが倒れなければ」
「入っていなかったことになります」
それだけです、と先生は言った。慰めるでも謝るでもない、事実を置く言い方だった。
「すぐに効くものなら、やりようはあります。吐かせて、炭を飲ませて、乳を流し込む。それで助かる方は助かる」
「今夜は、なさいませんでしたね」
「ええ。倒れられたのが半刻あとでしたから」
先生は薬箱の留め金を指で撫でた。
「遅れて効くものには、手がありません。吐かせても、もう胃にはない。血に回ってしまえば、こちらから取り出す道はないのです」
では、と訊きかけて、やめた。
訊いたところで、答えは同じだろう。分かりません、と。
枕元の卓に、綴じた帳面が伏せてある。厚い。革の背が擦れて、指の当たるところだけ色が変わっていた。
「あと三日、休みましょう」
先生が言った。
「三日でございますか」
「三日です。ご家族には、こちらから書きます。俸給は減りません、家令に言っておきますから」
そこまで言って、先生は少し身を屈めた。
「あなたは今夜、一度死にかけました。それを知っているのは、わたしとあなただけです。ほかの誰も数えません」
喉の奥が動いた。声にならなかった。
「数えていますよ、ちゃんと。わたしは忘れません」
薬草の匂いのなかで、その言葉だけが、やけに暖かかった。
部屋へ戻されたのは真夜中を過ぎてからだった。
寝台に横になって、いつもの手順を踏もうとした。指を一本ずつ折る。
人差し指と中指の先が、うまく曲がったかどうか分からない。目で見れば曲がっている。触っている感覚だけがない。
もう一度やってみた。同じだった。
じきに引きますよ、と先生は言った。よくあることです、とも。
よくあること。誰にとって、よくあることなのだろう。この屋敷で毒を飲むのは、わたくしひとりのはずなのに。
寝返りを打って、痺れているほうの手を枕の下に入れた。温めれば戻るかもしれない。そう思ったのは、根拠があってのことではない。
薪置き場から、壁越しに何かが崩れる音がした。積み直す音が続く。誰かが夜中に薪を運んでいる。
闇の中で、自分の指を見ていた。
あとで人づてに聞いたことだが、あの夜わたくしを廊下から運んだのは、厨房の料理人だったという。




