第2話 席が空いたと聞いた日
二日おいて、また晩餐が来た。
皿は五つ。羊ではなく鶏になっていたが、順序も、待つ数も、椅子の高さも同じだった。一皿目を飲み下し、三十を数える。何も起きない。二皿目へ移る。
同じことが、同じようにできてしまう。
三か月前は、匙を持つ手が震えて、二皿目の途中で一度こぼした。今はこぼさない。上達した、ということになるのだろう。何に上達したのかは、考えないことにしている。
五皿目を終えると、ベルガーさんが机の脇で帳面を開いた。
鵞ペンの先が紙を擦る音が、蝋燭の弾ける音に混ざる。あの帳面には、何を食べさせたか、誰が務めたか、その日に変わったことはなかったかが書きつけられる。家のための記録で、宗務院に出すものではないと聞いた。
一度だけ、頁を横から見たことがある。日付があり、皿の数があり、その隣に細い欄があった。欄の上には「代毒者」と刷ってあって、その下にベルガーさんは十七と書いていた。
名を書く欄は、そもそも印刷されていない。
「毒味、終わりましてございます」
閣下が匙を取られた。
部屋へ戻る道すがら、鵞ペンの音がまだ耳の裏に残っていた。
三か月前、ミューレン子爵家の応接には、雨漏りの染みが三つあった。
父は寝ついていて、母がそれを客に見せまいと、椅子の位置を変えていた。座り直した宗務院の使者は、染みの真下に頭が来ることに気づかないふりをしてくださった。
「レーンフェルト大公家の代毒者に、欠員が出ます」
使者はそう言った。出ました、ではなく、出ます、と。
俸給の額を聞いたとき、母が息を吸う音がした。うちの借財の利息を、月ごとに上回る。務めのさなかに身罷った場合は恩給が加わるとも、使者は同じ調子で読み上げた。
妹のソフィが、扉の隙間からこちらを見ていた。十三になる。あの子の縁組の話は、去年から三度流れている。家の借財を先に知られるからだ。
わたくしは受けると答えた。母は止めなかった。止められる立場になかった。
使者は書付をもう一枚めくって、条件を読み上げた。
「任期のあいだ、名は宗務院がお預かりします」
母が顔を上げた。「預かる、と申しますと」
「名簿に記し、封をいたします。任期が満ちるか、務めのさなかに身罷られた場合、封を解いて家へお返しします」
名を持つ者は人である。人は判断する。判断する者は皿を選び、口を控え、器たりえない。だから代毒者は名を置いて席に就く。使者はそう説いた。教義の言葉なのだろう、抑揚が読み上げのそれになっていた。
母は何か言いかけて、やめた。染みの下の椅子で、指を組み直しただけだった。
面通しのために城館へ上がったのは、それから数日後のことだ。
礼拝堂の控えの間で待たされているあいだ、扉が開いて、一人の娘が入ってきた。
二十歳を少し過ぎたくらいに見えた。頬がこけて、袖から出た手首が細い。盆を持つ手が、はっきりと震えていた。
それが十六人目だと、あとで知った。
娘は盆を卓に置いて、こちらを見た。それから、少し首を傾げるようにして訊いた。
「あなた、名前は」
わたくしはレナ・ミューレンと名乗った。
娘は何も言わなかった。うなずきもしなかった。ただ、聞いた言葉を口の中で転がすように、唇がわずかに動いた。
それだけで、話は終わった。娘は盆を持って出ていった。
妙な人だと思った。任期のあいだは名を持たないと決まっているのだから、訊いても仕方がないだろうに。
十日後、その人が死んだという報せが来た。
三日後に、宗務院から迎えの馬車が着いた。
任命は、城館の礼拝堂で行われた。
祭壇の前に台が据えられ、その上に厚い帳面が開かれていた。革の背が擦り切れて、角が丸くなっている。役人が羽根ペンを差し出す。
「こちらへ、お名前を」
わたくしは書いた。レナ・ミューレン、と。
インクが乾くのを待つあいだ、誰も口をきかなかった。乾くと役人は紙をあらため、頁を閉じ、蝋を垂らして紐に押しつけた。蝋の匂いが立ちのぼって、すぐに消えた。
「以後、そのお名前は封じられます」
役人はそう言って、帳面を布に包んだ。
最後にわたくしの名を声に出したのは、その人だった。読み上げるためではなく、書式を確かめるためだったが。
馬車の座席は硬くて、揺れるたびに背骨に響いた。窓の外を、刈り取りの終わった畑が流れていく。
そのとき、わたくしが何を思ったかを書いておく。
――席が空いた、と思った。
人が一人死んだのに、まず胸に浮かんだのはその形の言葉だった。これで利息が払える。ソフィの縁組が進むかもしれない。父に薬が買える。
あの人の顔も、そのときにはもう思い出せなかった。手首が細かったことだけを覚えていた。
部屋に戻ると、卓に手紙が載っていた。
ソフィの字だ。線が細くて、行が右下がりになる癖がある。
俸給が届いたこと。父の咳が少し落ち着いたこと。母が屋根を直させたこと。それから最後に、姉様はご無事ですか、と一行だけ。
便箋を膝に置いて、しばらく指で角を折っていた。
無事です、と書けばいい。書けば、あの子は安心する。
筆を取って、書いた。無事です。よく眠れています。食事も足りています。
三行のうち、本当なのは最後の一行だけだった。食事は、たしかに足りている。誰よりも足りている。
差出人の名は書かない。書けば封を開けた者に咎められる。だからいつも、宛名だけ書いて、末尾は空けておく。ソフィはそれを、姉の癖だと思っているらしい。
燭台の火が短くなっている。芯を切ろうとして、指先が上手く挟めずに二度すべった。
辞めることはできる。宗務院に申し出れば、任期の途中でも解かれる。ただし恩給は出ないし、俸給も止まる。止まれば利息が払えず、払えなければ家が畳まれ、畳まれればソフィは売られる。
だから辞めない。それは選んでいることではなく、道がそれしかないというだけのことだ。
寝る前に、いつもの手順を踏んだ。指を十本折る。舌を上顎に押しつける。水を一口。
何も起きない。
寝台に横になって、天井の梁を見上げた。
あなた、名前は。
あの人は、なぜあんなことを訊いたのだろう。
名を持たないのは、あの人も同じだったのに。
寝返りを打つと、藁が鳴った。
そういえば、と思い出す。
迎えの馬車の中で、御者に訊いたことがあった。前の方は何で亡くなったのですか、と。
身体が弱かったのだと、御者は答えた。長く務められる質ではなかったと、先生がおっしゃっていた、と。
先生。
この屋敷の侍医のことだろう。
まだ、お会いしたことがない。




