第1話 わたくしには、毒の味が分からない
銀の匙を口へ運ぶ。
舌に載せたものを、噛まずに飲み下した。喉を通っていく重さだけを確かめて、匙を皿の縁に戻す。
一皿目。羊の肉を煮込んだもの。熱い。舌の付け根に脂が残る。
あとは待つ。
胸のうちで三十まで数えるあいだ、指先が痺れないか、喉の奥が狭くならないか、額に汗が浮かないかを確かめる。何も起きなければ、次の皿へ移ってよい。
二十八、二十九、三十。
二皿目に手を伸ばした。
わたくしには、毒の味が分からない。
入っていたかどうかを知るのは、いつも飲み込んだあとだ。倒れれば入っていた。倒れなければ入っていなかった。判じる道はそれだけで、ほかにない。
大食堂の蝋燭は、片側に六本ずつ。冬が近づけば七本になると聞いている。
長机の上座に、レーンフェルト大公閣下が座っておられる。二十七になられるという。わたくしの席はその斜め後ろ、壁際に据えられた小さな卓で、椅子は背もたれがない。長く座るための椅子ではないからだ。
閣下は、わたくしが五つの皿を食べ終えるまで匙を取られない。
三か月のあいだ、あの方は一度もこちらを見たことがない。
手袋も、一度も外されない。晩餐のあいだじゅう、黒い革が指を覆っている。貴族の作法にそんな決まりはないと、厨房の下働きが話しているのを聞いた。
膳が運ばれてくる前、家令のベルガーさんがわたくしの両手をあらためる。爪の内側まで見て、それから布で拭う。器が穢れてはならないという理由だが、あの手つきは、道具を検めるときのそれによく似ていた。
給仕がわたくしの前に皿を置く。置くとき、彼らはけっして目を合わせない。名のない者と目を合わせるのは不吉なのだと、これも下働きの話で知った。
三皿目。根菜を潰した冷たいもの。舌にざらつきが残る。
四皿目。麦の粥。喉に張りついて、飲み下すのに時間がかかる。
五皿目。焼いた小魚。骨が細くて上顎を刺した。血の気配が口の中に広がる。それでも吐き出せない。吐き出せば代毒は成らず、成らなければ閣下は食べられない。
三十を数える。
着任して七日目に、一度だけ数を間違えたことがある。二十二で立ち上がってしまった。ベルガーさんは咎めなかったが、わたくしを座らせて、最初から数え直させた。あのとき初めて、この数はわたくしのためではなく、閣下のためにあるのだと分かった。
何も起きない。
ベルガーさんが机の脇から一歩出た。
「毒味、終わりましてございます」
名ではなく、そう呼ばれる。
閣下が匙を取られる。金属が皿に触れる音がして、そこでようやく、わたくしの務めは終わった。
立ち上がるとき、膝が少し重かった。
使用人棟へ戻る廊下は、蝋燭が三本しかない。壁の石が夜のうちに冷えて、指で触れると痛いほどだった。
角を曲がったところで、足音が追いついてきた。
「あの、待ってください」
振り向くと、侍女の娘が息を切らして立っていた。ティナといった。二か月前に入ったばかりで、まだ廊下を走る癖が抜けていない。
「お盆、置いていかれたでしょう。厨房に」
差し出された盆を受け取る。木の縁がまだ湯気で湿っていた。
「ありがとうございます」
「いえ、あの」
ティナは盆を渡したあとも、その場を動かなかった。両手を前で組んで、それから解いて、また組む。
「訊いてもいいですか」
「なんでしょう」
「あの、お名前、なんてお呼びすれば」
廊下の蝋燭が一本、芯を落として揺れた。
「代毒者に、名はございません」
「え」
「任期のあいだは、宗務院の名簿に封じられます。務めを終える日に、家へ返されます」
ティナは口を半分開けたまま、しばらく黙っていた。
「じゃあ、今は」
「ございません」
「毒味さま、ですか」
言ってしまってから、自分でひどく困った顔をした。
「変ですよね。変ですよ、絶対。人に向かって毒味さまって」
答えようがなくて、わたくしは盆を持ち直した。
この娘は、代毒者に話しかけてはならないことをまだ知らない。誰も教えていないのだろう。そのうち誰かが教える。教えられれば、二度と話しかけてこなくなる。
ティナはまだ何か言いたそうにしていたが、やがて廊下の先を指した。
「あの、じゃあ、また明日」
走っていく足音が、石の壁に反射して、遠くなっていく。
また明日、と誰かに言われたのは、三か月ぶりだった。
部屋は使用人棟のいちばん端にある。厨房の裏手で、壁一枚向こうが薪置き場になっているせいか、いつも煙の匂いが薄く残っていた。
卓の上に、わたくしのための夕食が置かれている。麦の粥と、干した果物が少し。
匙を取って、粥に差し入れた。
持ち上げる。口元まで運ぶ。
そこで手が止まった。
喉が締まる。飲み込む前から、身体がそれを拒んでいる。
毎晩、五つの皿を食べている。この屋敷の誰よりも多くの種類を口にしている。それなのに、自分のために出されたものは、三か月のあいだ一度も喉を通っていない。
務めの席では食べられる。数えるべきものがあるからだ。三十を数え、指先を確かめ、次の皿へ移る。手順がある。
ここには手順がない。ただ食べるだけの一口を、どう飲み込めばいいのか分からない。
匙を皿に戻した。
冷えていく粥を見ているうちに、指の爪が目に入った。桃色が薄い。血の気が抜けて、爪の縁だけが白く浮いている。
寝る前に、いつもの手順を踏む。
両手を目の高さに上げて、指を一本ずつ折る。十本。全部曲がる。
舌を上顎に押しつける。痺れはない。
水を一口含んで、飲み下してみる。詰まらない。
毒は、遅れて来ることがある。晩餐から半刻して倒れた者がいると、厨房の下働きが話していた。誰のことかは言わなかった。
だからわたくしは、眠る前にもう一度だけ数える。
寝台に腰を下ろすと、藁が沈んで軋んだ。
この部屋には、わたくしの前に誰かがいた。その前にも、そのまた前にも。寝台の脚のあたりだけ床板の色が濃いのは、誰かが長いこと同じ場所に足を下ろしていたからだろう。
名簿に記されているのは、代毒者(一)から代毒者(十六)まで。
わたくしは、十七人目にあたる。
十六人が、どこへ行ったのかは知らない。
訊いてはいけないことになっている。代毒者は問いを持たぬように、と着任の日に言われた。
膝の上で、両手を重ねた。
わたくしの名は、務めを終える日に返される。宗務院の名簿の封が切られて、そのとき初めて、誰かが声に出して読んでくれる。
だから。
それまでは、死なない。
蝋燭を吹き消すと、薪の匂いが濃くなった。
闇の中で、まだ舌の付け根に、あの脂の感触が残っている気がした。
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【後書き】
※ハッピーエンド確約です。安心してお読みください。




