第29話 いやです
三日、何も起きなかった。
先生はいつもどおり診察の刻に姿を見せ、いつもどおり脈を取り、いつもどおり膳の上に手をかざした。顔色が良い、とおっしゃった。よく眠れましたか、と。
わたくしは、はいと答えた。
三日、何も起きないというのは、こういう感じなのかと思った。
何かが起きるより、ずっと長かった。
四日目の晩、膳に皿が九つ出た。
ヨナスさんが盆を持ったまま、大食堂の入口で立ち止まっていた。
「俺は八つしか作ってねえ」
声が低かった。
ベルガーさんが卓を確かめる。指が皿を一つずつ数えていく。八つまで数えて、九つ目で止まった。
その皿は、他のものと器が違った。厨房の白い器ではなく、縁に細い金の線が入っている。
「献立にございません」
そこへ、先生が入ってこられた。
「わたしが用意いたしました」
いつもの声だった。急いでもいない。弁解でもない。
「回復期でいらっしゃいますから。滋養のあるものを、と思いまして」
誰も、何も言えなかった。
侍医が代毒者の滋養を気遣うのは、職務の範囲である。二十年、この方はそれをしてきた。倒れた娘に薬を煎じ、粥を運ばせ、七日の休みを与えてきた。
止める理由が、公式には一つもない。
わたくしは、その皿を見た。
温かかった。湯気が上がっている。
何の変哲もない、汁の濃い一皿だった。
匂いは、分からない。
三か月と少し前から、わたくしには何も届かない。届いたところで、毒に匂いはない。この国の誰にも見分けられない。
見分けられないから、この皿はただの滋養の一皿だ。
誰にも、そうでないとは言えない。
ヨナスさんが盆を置いた。置いてから、動かなかった。
この人は二十二年、この屋敷の飯を作ってきた。十七人ぶん作って、十四人ぶんの葬式に出た。分からないから、ずっと薄味にしてきた。
その人の作らなかった皿が、いま、卓の上にある。
閣下が入ってこられた。
卓を見て、九つ目で目が止まった。それから先生を見て、また皿を見た。
儀が始まった。
ベルガーさんが一歩、机の脇へ出る。
閣下が匙を取られた。三十九晩、続けてこられたことだ。
その手が、九つ目の皿へ伸びた。
「閣下」
先生の声だった。
穏やかだった。咎める調子ではない。
「その皿は、代毒者のためのものでございます。閣下の膳ではございません」
閣下の手が止まった。
正しい。
滋養の皿は代毒者用として出されている。大公が食べる筋合いのものではない。膳の順序も、器も、供する相手も、全部そうなっている。
この方が三十九晩続けてきた唯一の手が、正しい手続きで塞がれた。
「──下げろ」
閣下がそうおっしゃった。
「なりませぬ」
ベルガーさんだった。
「代毒者に供された皿を下げれば、代毒は成りませぬ。成らねば閣下は召し上がれませぬ。そして、この者が皿を選んだことになります」
同じ言葉を、わたくしは秋に聞いた。
あの日から、何も変わっていない。
閣下が、部屋の隅を見られた。
ハイデさんが壁際に立っていた。
「記録官として申し上げます」
ハイデさんの声は、いつもどおり平らだった。
「わたしには、儀を止める権限がございません」
全員が正しかった。
全員が正しくて、誰も動けなかった。
ずっと、そうだった。
ベルガーさんは四十年、正しいことを言い続けて、十六人を見送った。
先生は二十年、正しい手続きで膳を検め続けた。
閣下は六年、正しく照会を出して、二度断られた。
ハイデさんは、正しい書式にないものを記載できない。
わたくしは三か月と少し、正しく三十を数えてきた。
誰も間違っていない。
間違っていないまま、十四人が帰らなかった。
わたくしは、九つ目の皿を見ていた。
この皿を食べなければ、儀は終わらない。
終わらなければ、明日も同じことが起きる。明後日も。皿はまた増える。
食べれば、たぶん、終わる。
先生がこちらを見られた。
目が合った。三か月と少しのあいだに、何度も合った目だ。診察のたびに、この人はわたくしの瞼を押し上げて、覗き込んできた。
そして、こうおっしゃった。
「数えていますよ、ちゃんと。わたしは忘れません」
四度目だった。
一度目は、倒れた夜。この人だけが自分を数えてくれるのだと思った。
二度目は、儀が破られた日。同じように聞こえた。
三度目は、綴じ帳を見た日。数えているものの意味が変わった。
四度目の今、それは、挨拶に聞こえた。
別れるときの。
わたくしは、椅子から立ち上がった。
大食堂の音が消えた。
代毒者は立ち上がらない。座って、供された順に、一口ずつ食べる。それが儀だ。三か月と少し、わたくしは一度も立たなかった。数を間違えたときも、匙を落としたときも、座ったまま数え直した。
卓の上の九つを、端から見た。
根菜。干した肉。麦の粥。汁。塩漬けの魚。豆。麺麭。乾かした果物。
そして、縁に金の線の入った器。
わたくしは手を伸ばした。
順番を無視して。供された順ではなく。
「なりませぬ!」
ベルガーさんが叫んだ。
四十年、この人がこんな声を出したのを、たぶん誰も聞いたことがない。
「皿をお選びになれば、判じたことになります! 判ずる者は器たりえませぬ! それは務めを──」
わたくしは言った。
「いやです」
自分の声だった。
三か月と少し、この屋敷で、わたくしが言ったのは「はい」と「大丈夫です」と「申し訳ありません」だけだった。
いいえを言えなかった。断ることを覚える前に、断れない立場になったからだ。
いやです、と言った。
ベルガーさんの口が開いたまま止まった。
三か月前、ミリアさんが死んだと聞いて、わたくしは席が空いたと思った。
一瞬、喜んだ。人が一人死んで、それで家の利息が払えると思った。
あの喜びを、わたくしはずっと持って歩いてきた。持って歩いて、そのたびに、自分は助けられていい人間ではないと思ってきた。
いまは、違う。
空いた席には、必ず誰かが座る。
わたくしがここで倒れれば、十八人目が来る。名を捨てて、この部屋に入って、あの床板の上で眠る。面通しの日に誰かとすれ違って、名前は、と訊くかもしれない。
喜んだのはわたくしだ。
だから、次の誰かに、この席を渡さない。
これは償いではない。
わたくしが、初めて自分で選んだことだ。
「──待て」
閣下が手を伸ばされた。
卓を回って来られる。速い。だが、上座からここまでは、卓の長さぶんある。
先生は動かれなかった。
止めもせず、下がりもせず、ただ、こちらを見ておられた。
その顔に、驚きはなかった。
わたくしは、皿を持ち上げた。
思ったより軽かった。
温かい。まだ、湯気が立っている。
わたくしは、生まれて初めて、自分で選んだものを口に運んだ。




