第30話 毒味ではない一口
手首を掴まれた。
素手だった。
温かい。指が、手首の内側の骨に食い込んでいる。痛いほどの力だった。
わたくしは顔を上げた。
閣下の右手が、わたくしの手首を握っておられた。
黒い革は、卓の上に落ちていた。いつ外されたのかは分からない。たぶん、走ってくるあいだに、外そうと思って外したのではないだろう。
皿が、卓に戻された。
わたくしの唇には、まだ何も触れていなかった。
誰も、食べなかった。
壁際で、椅子が鳴った。
ハイデさんが立ち上がっていた。
書類挟みを胸に抱えて、卓のほうへ歩いてくる。歩きながら、九つ目の皿を指した。
「グレーヴェ先生」
先生が、こちらを向かれた。
「滋養のあるお料理だと、おっしゃいましたね」
「申しました」
「では」
ハイデさんは、皿を先生のほうへ滑らせた。
「あなたが召し上がってください」
大食堂が、静かになった。
薪が爆ぜる音がした。蝋燭の芯が一つ、折れた。
ハイデさんは書類挟みを開いて、羽根ペンを取り出した。
「記録官として、この場を記載いたします」
紙を卓に置く。
「あなたが召し上がれば、『侍医が自ら滋養の皿を検めた』と書きます。二十年、あなたが膳を検めてこられたことと、何一つ矛盾いたしません」
羽根ペンの先が、紙に触れた。
「召し上がらなければ、そのまま書きます」
先生は、動かれなかった。
その手は、体の脇に下りたままだった。爪の短い、関節に皺のない、二十年ぶんのあの手が。
「先生」
ベルガーさんが呼んだ。
ヨナスさんが息を呑んだ。
先生は、手を伸ばされなかった。
わたくしは、その手を見ていた。
誰かが受けねばならない、とこの人は言った。
置かれるほうにも一つの命がある、それは勘定に入っていない、とも言った。この人は儀が正しいとは思っていないと、はっきり口にした。
嘘は一つもなかった。
全部、本気だったのだと思う。
それでも、この人は手を伸ばさない。
ハイデさんが羽根ペンを走らせた。
「──記載しました」
先生の肩が、そこで初めて落ちた。
崩れたのではなかった。倒れも、叫びも、言い訳もしなかった。
ただ、姿勢が少し変わっただけだ。
そして、こうおっしゃった。
「誰かが受けねばならないのです」
声は、いつもと同じだった。
「それは決まりです。わたしが作ったのではない。二百年前に、三家の当主が死んで、国が七年割れた。あのあとに決まったことです」
閣下が何かを言われようとした。ハイデさんが手で制した。
「十三人」
先生は、卓の上の何も見ていなかった。
「わたしは、一人も忘れておりません。全員、名前で覚えております」
わたくしは口を開いた。
「代毒者に、名前はございません」
先生が、こちらを見られた。
「任命される前には、ありました」
息が止まった。
名簿に封じられる前の名を、この人は知っている。侍医は代毒者の身元を宗務院から受け取る。当然だ。当然のことに、今まで気づかなかった。
この二十年、この屋敷で、わたくしたちの名を知っていたのは、この人だけだった。
知っていて、一度も呼ばなかった。
そのとき、閣下が口を開かれた。
「──エルサ」
先生の動きが、止まった。
止まった、というより、そこで何かが切れた。
閣下は、まだわたくしの手首を握っておられた。握ったまま、先生のほうを見ておられる。
「私は、あの人の顔を覚えている」
声が低い。
「十一のときだ。菓子を分けてくれた。厨房から持ち出したものを、半分に割って、こっちが大きいほうだと言って渡してきた」
ベルガーさんが、目を閉じた。
三人目のことは、あとで申し上げます、とあの人は言った。あとで、と言ったきり、言わなかった。
「私の前で倒れた。私が手を握った。素手だった」
閣下の手に、力がこもった。
「あの人は何か言おうとして、言えずに死んだ」
そして。
「名前は、知らなかった」
蝋燭が揺れた。
「今、初めて呼んだ」
先生は、何も言われなかった。
言葉が出てこないという顔ではなかった。出そうとして、途中で形にならないという顔だった。
三か月と少し、わたくしはこの人の言葉を聞いてきた。この人が言葉に詰まったのを見るのは、初めてだった。
やがて、先生は懐に手を入れられた。
出てきたのは、薄い紙の束だった。
変色して、縁が波打っている。紐で丁寧に括ってある。
侍医室の棚の、いちばん端にあったものだ。埃の積もっていなかった、あの束だ。
先生は、それを卓に置かれた。
「四十七枚ございます」
紐を解かれなかった。解かなくても、何であるかは分かった。
「毎月、書きました。この者は務めを続けられる、と。四十七回」
束の上に、指が置かれた。
「四十八回目を書く前に、あの子は死にました」
誰も、動かなかった。
「わたしの署名でございます」
先生は、初めて顔を上げられた。
「二十年、捨てられませんでした」
儀の停止は、その夜のうちに手続きが取られた。
ハイデさんが書式を整え、ベルガーさんが記録を添え、閣下が署名された。峠が開き次第、本院へ送られる。
先生は身柄を預けられた。抵抗はされなかった。連れて行かれるとき、一度だけ立ち止まって、卓の上の四十七枚を見ておられた。
十八人目は、来ない。
三日後、礼拝堂に呼ばれた。
祭壇の前に台が据えられて、その上に厚い帳面が置いてあった。革の背が擦り切れて、角が丸くなっている。
三か月と少し前、わたくしが自分の名を書いた帳面だ。
ハイデさんが、蝋の封に刃を入れた。
乾いた音がして、赤い塊が二つに割れた。
布がほどかれ、頁が開かれる。
「読み上げます」
わたくしのほかに、閣下と、ベルガーさんと、ヨナスさんと、ティナがいた。
「代毒者、一。アンナ・ヴェルト」
ベルガーさんが目を閉じた。
「代毒者、二。ヒルデ・ローゼン」
「代毒者、三。エルサ・グレーヴェ」
閣下の肩が、わずかに動いた。
読み上げは、長く続いた。
一人ずつ、間を置いて、ハイデさんは名を読んだ。急がなかった。
四人目のところで、ベルガーさんが小さく口を動かした。赤毛の娘の名だった。
十六人目。
「ミリア・レント」
ヨナスさんが、口の中で言った。
「ミリア」
二十二年で、初めてだった。
そして。
「代毒者、十七」
ハイデさんが、顔を上げた。
「レナ・ミューレン」
ティナが、小さく声を上げた。
「あ」
それから、両手で口を押さえて、それでも言った。
「レナさん」
わたくしは、返事をした。
「──はい」
三か月と少しぶりに、名前に返事をした。
雪が解けたのは、四月の終わりだった。
庭に卓が出された。石畳の上に布を敷いて、その上に。
風が温かい。中庭の井戸の縁に、去年の雪の跡はもうない。
卓の上に、皿が二つ。わたくしと、閣下のぶんだ。
代毒者はいない。
誰も先に食べない。
閣下は、手袋をしておられなかった。
あれから一度も、しておられない。日に焼けていない手の甲に、細い筋が浮いている。指が長い。二十七の男の手だった。
「レナ」
名前を呼ばれた。
三か月と少しのあいだ、この人はわたくしを呼べなかった。呼べば、わたくしが咎められた。
いまは、呼べる。
「はい」
閣下は、匙を取って、それから置かれた。言葉の前に、いつもそうされる。
そして、たった一言、おっしゃった。
「愛している」
わたくしは、何も答えられなかった。
答えられないまま、匙を取った。
誰のためでもない一口だった。
運んで、口に入れて、舌に載せる。
喉を通っていく重さを、数えなかった。
三十を数えなかった。数えなくてよかった。
温かい。
そして。
おいしい、と思った。
── 完 ──
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【後書き】
最後までお読みくださり、ありがとうございました。




