↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
毒味役に、毒の味は分かりません ~倒れて初めて分かるのです。なのに閣下は、わたくしより先に召し上がる~  作者: ヲワ・おわり


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
30/30

第30話 毒味ではない一口

 手首を掴まれた。


 素手だった。


 温かい。指が、手首の内側の骨に食い込んでいる。痛いほどの力だった。


 わたくしは顔を上げた。


 閣下の右手が、わたくしの手首を握っておられた。

 黒い革は、卓の上に落ちていた。いつ外されたのかは分からない。たぶん、走ってくるあいだに、外そうと思って外したのではないだろう。


 皿が、卓に戻された。

 わたくしの唇には、まだ何も触れていなかった。


 誰も、食べなかった。



 壁際で、椅子が鳴った。


 ハイデさんが立ち上がっていた。


 書類挟みを胸に抱えて、卓のほうへ歩いてくる。歩きながら、九つ目の皿を指した。


「グレーヴェ先生」


 先生が、こちらを向かれた。


「滋養のあるお料理だと、おっしゃいましたね」


「申しました」


「では」


 ハイデさんは、皿を先生のほうへ滑らせた。


「あなたが召し上がってください」



 大食堂が、静かになった。


 薪が爆ぜる音がした。蝋燭の芯が一つ、折れた。


 ハイデさんは書類挟みを開いて、羽根ペンを取り出した。


「記録官として、この場を記載いたします」


 紙を卓に置く。


「あなたが召し上がれば、『侍医が自ら滋養の皿を検めた』と書きます。二十年、あなたが膳を検めてこられたことと、何一つ矛盾いたしません」


 羽根ペンの先が、紙に触れた。


「召し上がらなければ、そのまま書きます」


 先生は、動かれなかった。


 その手は、体の脇に下りたままだった。爪の短い、関節に皺のない、二十年ぶんのあの手が。


「先生」


 ベルガーさんが呼んだ。


 ヨナスさんが息を呑んだ。


 先生は、手を伸ばされなかった。



 わたくしは、その手を見ていた。


 誰かが受けねばならない、とこの人は言った。

 置かれるほうにも一つの命がある、それは勘定に入っていない、とも言った。この人は儀が正しいとは思っていないと、はっきり口にした。


 嘘は一つもなかった。

 全部、本気だったのだと思う。


 それでも、この人は手を伸ばさない。


 ハイデさんが羽根ペンを走らせた。


「──記載しました」



 先生の肩が、そこで初めて落ちた。


 崩れたのではなかった。倒れも、叫びも、言い訳もしなかった。

 ただ、姿勢が少し変わっただけだ。


 そして、こうおっしゃった。


「誰かが受けねばならないのです」


 声は、いつもと同じだった。


「それは決まりです。わたしが作ったのではない。二百年前に、三家の当主が死んで、国が七年割れた。あのあとに決まったことです」


 閣下が何かを言われようとした。ハイデさんが手で制した。


「十三人」


 先生は、卓の上の何も見ていなかった。


「わたしは、一人も忘れておりません。全員、名前で覚えております」


 わたくしは口を開いた。


「代毒者に、名前はございません」


 先生が、こちらを見られた。


「任命される前には、ありました」


 息が止まった。


 名簿に封じられる前の名を、この人は知っている。侍医は代毒者の身元を宗務院から受け取る。当然だ。当然のことに、今まで気づかなかった。


 この二十年、この屋敷で、わたくしたちの名を知っていたのは、この人だけだった。


 知っていて、一度も呼ばなかった。



 そのとき、閣下が口を開かれた。



「──エルサ」



 先生の動きが、止まった。


 止まった、というより、そこで何かが切れた。


 閣下は、まだわたくしの手首を握っておられた。握ったまま、先生のほうを見ておられる。


「私は、あの人の顔を覚えている」


 声が低い。


「十一のときだ。菓子を分けてくれた。厨房から持ち出したものを、半分に割って、こっちが大きいほうだと言って渡してきた」


 ベルガーさんが、目を閉じた。


 三人目のことは、あとで申し上げます、とあの人は言った。あとで、と言ったきり、言わなかった。


「私の前で倒れた。私が手を握った。素手だった」


 閣下の手に、力がこもった。


「あの人は何か言おうとして、言えずに死んだ」


 そして。


「名前は、知らなかった」


 蝋燭が揺れた。


「今、初めて呼んだ」



 先生は、何も言われなかった。


 言葉が出てこないという顔ではなかった。出そうとして、途中で形にならないという顔だった。

 三か月と少し、わたくしはこの人の言葉を聞いてきた。この人が言葉に詰まったのを見るのは、初めてだった。


 やがて、先生は懐に手を入れられた。


 出てきたのは、薄い紙の束だった。


 変色して、縁が波打っている。紐で丁寧に括ってある。

 侍医室の棚の、いちばん端にあったものだ。埃の積もっていなかった、あの束だ。


 先生は、それを卓に置かれた。


「四十七枚ございます」


 紐を解かれなかった。解かなくても、何であるかは分かった。


「毎月、書きました。この者は務めを続けられる、と。四十七回」


 束の上に、指が置かれた。


「四十八回目を書く前に、あの子は死にました」


 誰も、動かなかった。


「わたしの署名でございます」


 先生は、初めて顔を上げられた。


「二十年、捨てられませんでした」



 儀の停止は、その夜のうちに手続きが取られた。


 ハイデさんが書式を整え、ベルガーさんが記録を添え、閣下が署名された。峠が開き次第、本院へ送られる。

 先生は身柄を預けられた。抵抗はされなかった。連れて行かれるとき、一度だけ立ち止まって、卓の上の四十七枚を見ておられた。


 十八人目は、来ない。



 三日後、礼拝堂に呼ばれた。


 祭壇の前に台が据えられて、その上に厚い帳面が置いてあった。革の背が擦り切れて、角が丸くなっている。

 三か月と少し前、わたくしが自分の名を書いた帳面だ。


 ハイデさんが、蝋の封に刃を入れた。


 乾いた音がして、赤い塊が二つに割れた。


 布がほどかれ、頁が開かれる。


「読み上げます」


 わたくしのほかに、閣下と、ベルガーさんと、ヨナスさんと、ティナがいた。


「代毒者、一。アンナ・ヴェルト」


 ベルガーさんが目を閉じた。


「代毒者、二。ヒルデ・ローゼン」


「代毒者、三。エルサ・グレーヴェ」


 閣下の肩が、わずかに動いた。


 読み上げは、長く続いた。

 一人ずつ、間を置いて、ハイデさんは名を読んだ。急がなかった。


 四人目のところで、ベルガーさんが小さく口を動かした。赤毛の娘の名だった。


 十六人目。


「ミリア・レント」


 ヨナスさんが、口の中で言った。


「ミリア」


 二十二年で、初めてだった。


 そして。


「代毒者、十七」


 ハイデさんが、顔を上げた。


「レナ・ミューレン」


 ティナが、小さく声を上げた。


「あ」


 それから、両手で口を押さえて、それでも言った。


「レナさん」


 わたくしは、返事をした。


「──はい」


 三か月と少しぶりに、名前に返事をした。



 雪が解けたのは、四月の終わりだった。


 庭に卓が出された。石畳の上に布を敷いて、その上に。

 風が温かい。中庭の井戸の縁に、去年の雪の跡はもうない。


 卓の上に、皿が二つ。わたくしと、閣下のぶんだ。


 代毒者はいない。

 誰も先に食べない。


 閣下は、手袋をしておられなかった。


 あれから一度も、しておられない。日に焼けていない手の甲に、細い筋が浮いている。指が長い。二十七の男の手だった。


「レナ」


 名前を呼ばれた。


 三か月と少しのあいだ、この人はわたくしを呼べなかった。呼べば、わたくしが咎められた。

 いまは、呼べる。


「はい」


 閣下は、匙を取って、それから置かれた。言葉の前に、いつもそうされる。


 そして、たった一言、おっしゃった。


「愛している」


 わたくしは、何も答えられなかった。

 答えられないまま、匙を取った。


 誰のためでもない一口だった。


 運んで、口に入れて、舌に載せる。

 喉を通っていく重さを、数えなかった。


 三十を数えなかった。数えなくてよかった。


 温かい。


 そして。



 おいしい、と思った。



 ── 完 ──



────────────

【後書き】

最後までお読みくださり、ありがとうございました。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。