第28話 起こることを、先に書ける者
三日目の夜、書斎の扉に閂がかかった。
中にいるのは四人だけだった。ハイデさん。閣下。ベルガーさん。そしてわたくし。
ヨナスさんもティナも呼ばれなかった。
ハイデさんが最初に言った。
「この話を聞いた方は、危険になります。それでもよろしければ」
誰も出ていかなかった。
卓の上に、紙の束が置かれた。
「原本は動かせません。写しです」
ハイデさんは束を開いた。
「三日かけて、要点だけ書き取りました。原本は棚に戻してあります」
閣下が椅子を引かれた。ベルガーさんは立ったままだった。
「まず、一つ目」
ハイデさんは紙を一枚、卓の中央へ滑らせた。
数字が並んでいた。三分の一匙。二分の一匙。四分の一匙。
「分量が書いてあります」
わたくしは頷いた。それは知っている。
「医者の記録に投与量を書くのは、当然のことです」
ハイデさんは続けた。
「自分が処方した薬なら。──ですが」
紙の左端を指した。
「この数字は、処方の欄ではありません。症状の欄に書かれています」
閣下の目が動いた。
「そして、この帳面のどこにも、それを処方したという記載がありません。二十年ぶん、一度も」
ハイデさんは指を離した。
「薬なら、必ず処方の欄に書きます。何を、どれだけ、いつ与えたか。書かねば次に診る者が困りますから。この方は、他の薬については全部書いておられます。煎じ薬も、湿布も、量まで」
「その数字だけが」
「症状の欄にあります。二十年、一度も処方の欄に移っていません」
書き間違いなら、二十年のうちに一度は正しい欄に書くはずだ。
一度も間違えていないということは、その数字を薬だと思っていないということになる。
「医者は、自分が出していない薬の量を知りません」
書斎が静かになった。
閣下が、低い声で言われた。
「知っているのは」
「入れた者だけです」
わたくしは卓の縁を掴んでいた。
これで終わりだと思った。
ハイデさんが、首を横に振った。
「これだけでは弱い」
顔を上げた。
「解釈の余地があります。倒れた方に何が入っていたかを、医者が推し量って書いた──そう言われれば、それまでです。症状から量を推定するのは、医術としてあり得ないことではありません」
「では」
「二つ目が要ります」
ハイデさんは、別の紙を六枚、卓に並べた。
「二十年、一日も抜けがありません」
最初にそう言った。
「それが、この方の誇りなのでしょう。書式が揃い、字が揃い、日付が落ちていない。本院の書庫で手本にされている理由です」
六枚の写しを、順に指していく。
「ですから、書き損じが目立ちます」
ベルガーさんが一歩、卓に近づいた。
「この六箇所では、症状の記載が、食事の記載より前の行にあります」
わたくしは紙を見た。
日付があって、その下に行が並んでいる。たしかに、症状を書いた行のほうが上にある。食事の記載は、その下だ。
「それは……書き間違いでは」
言ってから、当たり前のことを言ったと思った。
「そうです」
ハイデさんは即座に頷いた。
「書き間違いです」
そして、こう続けた。
「問題は、なぜその間違いが起きたか、です」
暖炉の火が、薪を割る音を立てた。
「人は、見たものを書き写すときに、こういう間違いをしません」
ハイデさんの声には、抑揚がなかった。
「見たものは、起きた順に頭に入っています。食事があり、その後に症状がある。順序が入れ替わることはありません」
一枚の紙を持ち上げた。
「こういう間違いが起きるのは、別の紙から清書するときだけです」
わたくしは息を吸った。
「この方は、手元の別の帳面から、この綴じ帳へ書き写しています。二十年、そうしてきた。だから字が揃い、日付が落ちない」
紙が卓に戻された。
「そして、その別の帳面には──」
ハイデさんは、そこで一度だけ言葉を切った。
「食事の前に、これから起きることが書いてあった」
誰も動かなかった。
医者は、見たものを書く。
起こることを先に書けるのは、起こす者だけである。
閣下が椅子から立ち上がられた。
立ち上がって、何も言われずに、窓の側へ歩かれた。手袋をした手が、窓枠にかかった。
ベルガーさんは、卓の紙を見ていた。
六枚のうち一枚を指して、日付を読み上げた。
「この日は、十五人目でございます」
声が掠れていた。
「私が、閣下の調べをお止めした年でございます」
「本院に報告できるか」
閣下が窓のほうを向いたまま訊かれた。
「できます」
ハイデさんは書類挟みを閉じた。
「ただし、わたしが本院に戻ってからです」
「峠は」
「あと五日は動けません。雪です」
五日。
ハイデさんは書類挟みの留め金をかけた。かけてから、初めて声の調子を変えた。
「一つ、申し上げます」
わたくしたちは彼女を見た。
「わたしがこの三日、侍医室に入っていたことを、あの方はご存じです」
ベルガーさんの顔から色が引いた。
「隠しておりません。隠せば、閲覧が不正になります。掃除の日に入り、記録官として閲覧し、女中と家令が立ち会った。すべて手続きどおりです」
手続きどおりだから、隠せない。
つまり、あの人は、自分の綴じ帳が読まれたことを知っている。
閣下が振り返られた。
「今夜の晩餐は、中止だ」
ベルガーさんが、静かに言った。
「閣下。それは、なりませぬ」
わたくしは家令を見た。
この人は、今日、味方になった。四十年の帳面を床に並べて、書けなかったことを話して、掃除の日を教えてくださった。
その人が、いま、儀を止めるなと言っている。
「膳を出さねば、儀は行われませぬ。行われねば、代毒者の務めが果たされておらぬことになります。報告が上がれば、本院は儀をさらに厳格にいたします」
「知っている」
「皿が増えます。九つになります」
閣下が黙られた。
「そして、それは今夜のことではございませぬ。今夜膳を出さなければ、宗務院は明日の朝には知りますまい。──けれど、この屋敷の者は、今夜のうちに知ります」
ベルガーさんは、閣下から目を逸らさなかった。
「儀を止めた理由を、誰かが必ず訊きます。訊かれれば、答えねばなりませぬ」
閣下は、動かれなかった。
「一晩、隠せるのでございます」
ベルガーさんの声が、少しだけ低くなった。
「儀を行えば、今夜は何も変わっておらぬように見えます。あの方には、こちらが何を掴んだか分かりませぬ」
「膳は出る」
「出ます」
「彼女が、食べる」
「食べます」
ベルガーさんは、そこで初めてわたくしのほうを見た。
「──それが、この四十年、私が申し上げ続けてきたことでございます」
この人は、自分を許していない。
許していないから、正しいことを言い続けている。
部屋へ戻る廊下は、冷えていた。
証拠は揃った。
本院に届くのは、五日後。
そして今夜も、明日も、その次も、晩餐がある。
儀は、止められない。
あの人は、見られたことを知っている。
あの人には、あと五日ある。
いいえ。
あの人に必要なのは、五日ではない。
一晩だけだ。




