↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
毒味役に、毒の味は分かりません ~倒れて初めて分かるのです。なのに閣下は、わたくしより先に召し上がる~  作者: ヲワ・おわり


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
27/30

第27話 線は、日付だった

 掃除の日の朝、侍医室の扉は開いていた。


 女中が二人、床を拭いている。桶の水が動く音がする。窓が開けてあって、冷えた空気が廊下まで流れてきた。

 先生は麓の村へ下りておられる。掃除の日は往診と決めておられて、それも二十年変わらない。


 わたくしは扉の外に立っていた。中へは入らなかった。


 入ったのは、ハイデさんとベルガーさんだった。


「掃除の日でございます」

 ベルガーさんが女中に言った。

「私は立ち会いの職務がございます」


 建前だ。家令が掃除に立ち会う決まりなど聞いたことがない。四十年ここにいる人が言えば、誰も疑わない。


 ハイデさんは棚の前に立った。


「宗務院の記録官は、宗務院に属する侍医の記録を閲覧する権限を持ちます」

 誰にともなく、そう言った。

「わたしが取ります。触れないでください」


 わたくしは扉の外にいた。

 触れれば、盗みになる。盗んだ記録は、記録として立たない。



 ハイデさんは綴じ帳を開いて、読み始めた。


 速かった。

 頁をめくる指が止まらない。目が上から下へ落ちて、次の頁へ移る。三頁を数えるほどの間に、一年ぶんが過ぎていく。


 しばらくして、手が止まった。


「この帳面は、よく書けています」


 皮肉ではなかった。ハイデさんは皮肉を言う人ではない。


「二十年、抜けが一日もありません。書式も揃っています。──医者の記録として、優秀です」


 わたくしは扉の外で聞いていた。


 優秀。

 褒め言葉が、こんなに嫌に響くことがあるとは思わなかった。


 あの綴じ帳は、二十年ぶんのわたくしたちだ。脈の速さと、瞼の色と、指の痺れた本数と、倒れるまでにかかった時間が、一日も欠けずに書いてある。

 書いた人は、書式を守り、字を揃え、日付を落とさなかった。


 女中が桶の水を替えに出てきた。すれ違うとき、目は合わなかった。



 昼、書斎に三つが並べられた。


 厨房の献立記録。二十二年ぶん。ヨナスさんが運んできて、卓の端に置いた。

 家令の交代記録。四十年ぶん。ベルガーさんが積んだ。

 そして、床下の包み。三十六と、字のある一枚。


 閣下は窓の側に立っておられた。手袋をしたまま、腕を組んで。


 ハイデさんは椅子に座って、包みを一つずつ手に取った。


 包み紙を広げて、光にかざす。


「この線は」

「分かりません」

 わたくしは答えた。

「数えました。一本、三本、五本、七本、十一、十四、二十三、二十九。規則がございません」

「三十一を越えるものは」

「ございません」


 ハイデさんの手が、そこで止まった。


 それから、献立記録を引き寄せた。


「この帳面には、日付が入っていますね」

「はい」

「代毒者が休んだ日には印が」

「×でございます」


 ハイデさんは、包み紙を一枚ずつ卓に並べ始めた。

 線の少ないものから順に。一本。三本。五本。


 並べ終えて、献立記録の頁を繰った。


 繰る手が、だんだん速くなった。


 そして、止まった。



「日付です」


 顔を上げずに、そう言われた。


「線の本数は、その月の何日目かを示しています」


 わたくしは卓に手をついた。


「一本の包みは、月の一日。三本は三日。二十九本は二十九日」

 ハイデさんは献立記録の頁を指した。

「この月の三日、代毒者が休んでいます。──三本の線の包みと、一致します」


 次の頁。


「この月の七日。休み。七本の包みと一致」


 次。次。


 三十六のうち、三十四が一致した。残る二つは、休みの前日だった。


「二つは合いません」

 ハイデさんは、その二枚を脇へ寄せた。

「合わないほうが自然です。全部が合えば、誰かが作ったものだと疑われます」


 合わない二枚は、たぶん、倒れる前に取っておいたものだ。

 いつもと違う気がした、と思った日があったのかもしれない。思っても、当たっているかどうかは分からない。分からないまま、念のために残した。


 二年で、そういう日が二度あった。

 二度とも、翌日に倒れている。


 ハイデさんは、包み紙をそっと元の位置に戻した。


「この方は、自分が倒れた日に食べたものを、取っておいたのです」


 書斎が静かになった。


 ヨナスさんが、口を押さえた。押さえた手が、そのまま顔を覆った。


 わたくしは並んだ包みを見ていた。


 三十六。二年ぶん。二十日に一度。


 ミリアさんは、毒の味が分からなかった。分かるはずがない。誰にも分からない。

 分からないまま、倒れた日に、その日の皿の一口ぶんを吐き出して、乾かして、紙に包んで、日付の線を刻んで、床下に隠した。


 何のためかは、たぶん、あの人にも分かっていなかった。

 役に立つと思ってやったのではないだろう。証拠になるとも思っていなかったはずだ。


 ただ、残したかったのだ。


 誰も数えてくれないから、自分で数えた。


 この人には、書く欄がなかった。

 家令の帳面にも、侍医の綴じ帳にも、宗務院の名簿にも、この人の名を書く場所はない。証言もできない。訴えることもできない。


 できたのは、口の中のものを吐き出して、紙に包んで、爪で線を刻むことだけだった。

 インクもない。羽根ペンもない。あるのは反故紙と、自分の爪だけだ。


 それでも二年、続けた。



「これは記録です」


 ハイデさんが言った。


「記載できます」


 わたくしは、その言葉を二度、頭の中で繰り返した。


 昨日、わたくしの見たものは、なかったことになると言われた。

 今日、ミリアさんの残したものは、記録になった。


 違いは、物であるかどうかだ。

 名のない者の言葉は残らない。名のない者の残した物は残る。


 あの人は、たぶん、それを知らずにやった。

 知らずにやって、二年ぶんを残した。



 夕方になった。


 わたくしは訊いた。


「これで、足りますか」


 ハイデさんは書類挟みを閉じた。


「足りません」


 迷いのない答えだった。


「これで分かるのは、特定の料理の日に代毒者が倒れたという相関だけです。毒が入っていたことも、誰が入れたことも、証明できません」

「では」

「三つ目が要ります」


 ハイデさんは立ち上がって、窓のほうを見た。閣下がそこに立っておられる。


「あの帳面には、分量が書いてあると伺いました」

「はい」

「明日、もう一度見ます」


 そして、こう続けられた。


「今日は目が疲れました」



 部屋へ戻る廊下で、わたくしは足を止めた。


 あの人は、嘘をついた。


 三日、旅装のまま記録を読み続けた人だ。朝から夕方まで綴じ帳を繰って、一度も休まなかった人だ。

 その人が、目が疲れたと言った。


 あの人は、何かを見つけた。


 見つけて、この屋敷の中で口にするのが危ないことだと判じた。

 だから、明日に延ばした。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。