第27話 線は、日付だった
掃除の日の朝、侍医室の扉は開いていた。
女中が二人、床を拭いている。桶の水が動く音がする。窓が開けてあって、冷えた空気が廊下まで流れてきた。
先生は麓の村へ下りておられる。掃除の日は往診と決めておられて、それも二十年変わらない。
わたくしは扉の外に立っていた。中へは入らなかった。
入ったのは、ハイデさんとベルガーさんだった。
「掃除の日でございます」
ベルガーさんが女中に言った。
「私は立ち会いの職務がございます」
建前だ。家令が掃除に立ち会う決まりなど聞いたことがない。四十年ここにいる人が言えば、誰も疑わない。
ハイデさんは棚の前に立った。
「宗務院の記録官は、宗務院に属する侍医の記録を閲覧する権限を持ちます」
誰にともなく、そう言った。
「わたしが取ります。触れないでください」
わたくしは扉の外にいた。
触れれば、盗みになる。盗んだ記録は、記録として立たない。
ハイデさんは綴じ帳を開いて、読み始めた。
速かった。
頁をめくる指が止まらない。目が上から下へ落ちて、次の頁へ移る。三頁を数えるほどの間に、一年ぶんが過ぎていく。
しばらくして、手が止まった。
「この帳面は、よく書けています」
皮肉ではなかった。ハイデさんは皮肉を言う人ではない。
「二十年、抜けが一日もありません。書式も揃っています。──医者の記録として、優秀です」
わたくしは扉の外で聞いていた。
優秀。
褒め言葉が、こんなに嫌に響くことがあるとは思わなかった。
あの綴じ帳は、二十年ぶんのわたくしたちだ。脈の速さと、瞼の色と、指の痺れた本数と、倒れるまでにかかった時間が、一日も欠けずに書いてある。
書いた人は、書式を守り、字を揃え、日付を落とさなかった。
女中が桶の水を替えに出てきた。すれ違うとき、目は合わなかった。
昼、書斎に三つが並べられた。
厨房の献立記録。二十二年ぶん。ヨナスさんが運んできて、卓の端に置いた。
家令の交代記録。四十年ぶん。ベルガーさんが積んだ。
そして、床下の包み。三十六と、字のある一枚。
閣下は窓の側に立っておられた。手袋をしたまま、腕を組んで。
ハイデさんは椅子に座って、包みを一つずつ手に取った。
包み紙を広げて、光にかざす。
「この線は」
「分かりません」
わたくしは答えた。
「数えました。一本、三本、五本、七本、十一、十四、二十三、二十九。規則がございません」
「三十一を越えるものは」
「ございません」
ハイデさんの手が、そこで止まった。
それから、献立記録を引き寄せた。
「この帳面には、日付が入っていますね」
「はい」
「代毒者が休んだ日には印が」
「×でございます」
ハイデさんは、包み紙を一枚ずつ卓に並べ始めた。
線の少ないものから順に。一本。三本。五本。
並べ終えて、献立記録の頁を繰った。
繰る手が、だんだん速くなった。
そして、止まった。
「日付です」
顔を上げずに、そう言われた。
「線の本数は、その月の何日目かを示しています」
わたくしは卓に手をついた。
「一本の包みは、月の一日。三本は三日。二十九本は二十九日」
ハイデさんは献立記録の頁を指した。
「この月の三日、代毒者が休んでいます。──三本の線の包みと、一致します」
次の頁。
「この月の七日。休み。七本の包みと一致」
次。次。
三十六のうち、三十四が一致した。残る二つは、休みの前日だった。
「二つは合いません」
ハイデさんは、その二枚を脇へ寄せた。
「合わないほうが自然です。全部が合えば、誰かが作ったものだと疑われます」
合わない二枚は、たぶん、倒れる前に取っておいたものだ。
いつもと違う気がした、と思った日があったのかもしれない。思っても、当たっているかどうかは分からない。分からないまま、念のために残した。
二年で、そういう日が二度あった。
二度とも、翌日に倒れている。
ハイデさんは、包み紙をそっと元の位置に戻した。
「この方は、自分が倒れた日に食べたものを、取っておいたのです」
書斎が静かになった。
ヨナスさんが、口を押さえた。押さえた手が、そのまま顔を覆った。
わたくしは並んだ包みを見ていた。
三十六。二年ぶん。二十日に一度。
ミリアさんは、毒の味が分からなかった。分かるはずがない。誰にも分からない。
分からないまま、倒れた日に、その日の皿の一口ぶんを吐き出して、乾かして、紙に包んで、日付の線を刻んで、床下に隠した。
何のためかは、たぶん、あの人にも分かっていなかった。
役に立つと思ってやったのではないだろう。証拠になるとも思っていなかったはずだ。
ただ、残したかったのだ。
誰も数えてくれないから、自分で数えた。
この人には、書く欄がなかった。
家令の帳面にも、侍医の綴じ帳にも、宗務院の名簿にも、この人の名を書く場所はない。証言もできない。訴えることもできない。
できたのは、口の中のものを吐き出して、紙に包んで、爪で線を刻むことだけだった。
インクもない。羽根ペンもない。あるのは反故紙と、自分の爪だけだ。
それでも二年、続けた。
「これは記録です」
ハイデさんが言った。
「記載できます」
わたくしは、その言葉を二度、頭の中で繰り返した。
昨日、わたくしの見たものは、なかったことになると言われた。
今日、ミリアさんの残したものは、記録になった。
違いは、物であるかどうかだ。
名のない者の言葉は残らない。名のない者の残した物は残る。
あの人は、たぶん、それを知らずにやった。
知らずにやって、二年ぶんを残した。
夕方になった。
わたくしは訊いた。
「これで、足りますか」
ハイデさんは書類挟みを閉じた。
「足りません」
迷いのない答えだった。
「これで分かるのは、特定の料理の日に代毒者が倒れたという相関だけです。毒が入っていたことも、誰が入れたことも、証明できません」
「では」
「三つ目が要ります」
ハイデさんは立ち上がって、窓のほうを見た。閣下がそこに立っておられる。
「あの帳面には、分量が書いてあると伺いました」
「はい」
「明日、もう一度見ます」
そして、こう続けられた。
「今日は目が疲れました」
部屋へ戻る廊下で、わたくしは足を止めた。
あの人は、嘘をついた。
三日、旅装のまま記録を読み続けた人だ。朝から夕方まで綴じ帳を繰って、一度も休まなかった人だ。
その人が、目が疲れたと言った。
あの人は、何かを見つけた。
見つけて、この屋敷の中で口にするのが危ないことだと判じた。
だから、明日に延ばした。




