第26話 なかったことになります
広間に、黒い外套の女が立っていた。
着いたのは三日前だが、その日は書類を受け取っただけで下がった。宗務院の手続きでは、まず記録を受領し、あらためて日を決めて照合に入ることになっているという。
三日目の朝、正式な面会の場が持たれた。
その人は、旅装のままだった。外套の裾に雪の跡が残っている。手に、革の書類挟みを抱えていた。
「記録官のハイデと申します」
挨拶が短かった。頭を下げる角度も浅い。
「記録の照合に参りました。それ以外の用件は承りません」
閣下が照会の件を確かめられた。
「書状は、一通しか届いておりません」
ハイデさんは書類挟みを開いた。
「南回りの一通は、まだ峠の向こうでしょう。あるいは、届かないかもしれません。どちらでも、照会は受理されました。ですので参りました」
それだけです、という言い方だった。
閣下が何かを言われようとした。
ハイデさんが先に続けた。
「先に申し上げます。わたしは監督官ではありません」
閣下が口を閉じられた。
「罰する権限はございません。儀を止める権限もございません。人を捕らえることも、屋敷の者を処分することもできません」
ベルガーさんの肩が、少し落ちた。
「わたしができるのは、記録を照合し、不整合があれば本院に報告することだけです」
閣下が短く答えられた。
「十分だ」
その一言に、落胆がなかった。
六年、この方は二度照会を出して、二度とも動かなかった。今度も監督官は来ない。来たのは、記録を照らし合わせる役人が一人だけだ。
期待していなければ、失望もしない。
この方は、そういうふうに六年を過ごしてこられたのだと思った。
ハイデさんが顔を上げた。
「一つ、伺います。この屋敷の侍医は」
「グレーヴェだ」
「グレーヴェ先生でしたら、本院で存じ上げております」
書類挟みの紙を繰る手が止まらない。
「二十年、一度も報告が遅れたことのない方です。本院の書庫では、書式の手本にされております」
ベルガーさんが、こちらを見た。
午後、わたくしはハイデさんに呼ばれた。
客室は狭かった。卓が一つ、椅子が二つ。窓の外は雪だ。
書類挟みが卓の上に開いてある。中の紙は、端が一枚ずつ揃えてあった。
「お掛けください」
座った。
「あなたが現在の代毒者ですね」
「はい」
「では、伺います」
わたくしは話した。
二度目だから、順序は乱れなかった。診察録に分量が書かれていたこと。症状の欄にあって、処方の欄にないこと。前の方たちの頁にも同じ数字が並んでいること。厨房の献立記録で休みの間隔が規則正しいこと。床下から出てきた包みのこと。
三つ目まで話したところで、ハイデさんが手を上げた。
「お待ちください」
止まった。
「あなたのお名前は」
喉が動いた。
「……代毒者でございます」
ハイデさんは、書類挟みを閉じた。
速かった。話の途中でも、ためらいなく。
「では、今伺ったことは記録できません」
「なぜでございますか」
「宗務院の記録は、名のある者の申し立てのみを記載します。名のない方の言葉は、発言者を特定できないため、証言として成立しません」
同じことを、家令室でも聞いた。
「これはわたしの判断ではありません。書式の問題です」
わたくしは膝の上で手を握った。十本とも握れる。握れることが、今は嫌だった。
「では、わたくしが見たものは、どうなるのですか」
ハイデさんは、まっすぐこちらを見た。
「なかったことになります」
声に、何も乗っていなかった。
悪意も、同情も、ためらいもない。窓の外で雪が降っているのと同じ調子で、そう言われた。
わたくしは、何も言えなかった。
なかったことになる。
わたくしが三か月と少しかけて見たもの。数えたもの。飲み込んだもの。
ミリアさんが二年かけて残したもの。三十六の包み。爪で刻んだ線。震える字の一行。
全部、なかったことになる。
あの人が名前を訊いてまわっていた理由が、いま分かった気がした。
名前がなければ、いたことにならない。いたことにならなければ、死んでも減らない。
しばらくして、ハイデさんが書類挟みを卓に置いた。
置いてから、目を伏せた。
「……わたしも、そう思います」
顔を上げた。
ハイデさんは、もう次の紙を見ていた。目を伏せたのは一度きりで、そこには戻らなかった。
わたくしは立ち上がって、礼をした。
扉のほうへ歩いた。
「お待ちください」
振り向いた。
「証言は受理できません。ですが、記録は記録です」
ハイデさんは紙を一枚、卓の上で滑らせた。
「あなたが見たものは記載できません。けれど、物として存在するものなら、わたしが自分の目で見た分には記載できます」
息が止まった。
わたくしが「見た」と言えば、それは名のない者の証言になる。
ハイデさんが自分で見れば、それは記録官の確認になる。
「見せれば、よいのですね」
「そうです」
ハイデさんは指を三本立てた。
「三つ、揃えてください。照合には、最低三つの独立した記録が要ります。一つでは主観、二つでは偶然と言われます」
指が一本ずつ折られていく。
「一つ。何がいつ供されたか」
厨房の献立記録だ。
「二つ。誰がいつ倒れたか」
家令の帳面と、床下の包み。
「三つ」
最後の指が残った。
「もし、投与の記録が存在するなら、それです」
「そんなものを、残す人がおりましょうか」
訊いてから、自分で答えが分かった。
「残します」
ハイデさんは指を下ろした。
「量を測っている者は、必ず書きます。書かなければ測った意味がない。──もっとも、これは一般論です」
わたくしは椅子の背を掴んでいた。
三つとも、この屋敷の中にある。
二つは、もう手の届くところに。
三つ目は、明日、開く。
部屋に戻って、扉を閉めた。
寝る前の手順を踏んだ。十本。舌。水。何も起きない。
何も起きないことが、今はいちばん恐ろしい。
寝台に腰を下ろした。
名前を、また訊かれた。
三か月と少しで、名前を訊かれたのは三度目だ。
一度目はティナで、答えられなかった。
二度目はベルガーさんで、答えられなかった。
三度目はハイデさんで、答えられなかった。
訊く人はいる。答えられないだけだ。
三か月と少し前、この屋敷に来た日には、誰も訊かなかった。訊く必要がなかった。名のない者に名を訊く者はいない。
訊く人が三人に増えたのは、たぶん、わたくしが何かを変えたからではない。三人とも、たまたま、そういう人だっただけだ。
膝の上で、指を組んだ。
献立の記録は、厨房にある。
交代の記録は、家令室にある。
そして、投与の記録は。
明日は、掃除の日だ。




