↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
毒味役に、毒の味は分かりません ~倒れて初めて分かるのです。なのに閣下は、わたくしより先に召し上がる~  作者: ヲワ・おわり


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
25/30

第25話 書かなくてよいことだけ

 家令室の扉が、開いていた。


 いつも閉まっている扉だ。窓が小さい部屋なので、扉を開けておく理由がない。冬なら、なおさら。


 中を覗いて、足が止まった。


 床に、帳面が並べてあった。


 棚から出したものを、年ごとに、床の上に。壁際から窓のほうへ向かって、二列。四十年ぶんが、そこに広げてある。

 ベルガーさんは、その真ん中に膝をついて、一冊を開いていた。


 顔を上げずに、こう言われた。


「お待ちしておりました」



 わたくしは扉のところに立っていた。


「先日、私は記録に書けぬと申しました」

 ベルガーさんは頁を繰りながら続けられた。

「あれは本当でございます。名のない方の言葉は、書式が受け付けませぬ」


「はい」


「けれど」


 そこで、頁をめくる手が止まった。


「書かなくてよいものなら、お見せできます」


 顔を上げられた。


「これは、宗務院の書式ではございません。家令が家のためにつける帳面でございます。誰に見せてよいかを決めるのは、私でございます」


 証言にはならない。

 照らし合わせる材料には、なる。


 わたくしは膝をついた。



 開かれた頁に、番号が並んでいた。


 代毒者(一)。着任の日。退任の日。そのあいだの休んだ日。

 代毒者(二)。同じ形。

 代毒者(三)。


 名前の欄は、ない。刷られていないのだから、空欄ですらない。


 わたくしは十六人ぶんを見た。

 閣下のおっしゃった数と合った。この十六年で十三人。それより前に三人。そのうち二人は、退任の日に印がついている。名を返されて帰った人だ。


 数が合う。合うことが、恐ろしかった。



 ベルガーさんは、帳面を閉じた。


 閉じてから、床に並べたほうへ手を伸ばして、一冊も開かずに、こうおっしゃった。


「一人目は、私が来た年に亡くなりました。まだ下働きでしたので、遠くから見ただけでございます。二人目は、務めを終えて帰られました。三人目は──」


 そこで、一度だけ間が空いた。


「三人目のことは、あとで申し上げます」


 ベルガーさんは、次の列へ目を移された。


「四人目は、赤毛の娘でございました」


 わたくしは顔を上げた。


「よく歌っておりました。厨房の裏で、洗い物をしながら。歌ってはならぬと申しましたら、口を閉じて、それきり二年、歌いませんでした」


 ベルガーさんは帳面を見ていない。

 床に並べた列を、端から端まで見ておられる。


「五人目は、足が悪うございました。階段の上り下りに、人の倍かかる。儀に遅れることが二度ございましたので、大食堂に近い部屋へ移させました」


 次の列へ、目が動いた。


「六人目は、字が書けました。子爵家の出でしたので。ご家族への手紙を、月に二度」


 七人目。八人目。


 声は淡々としていた。詰まらなかった。思い出そうとして間が空くこともなかった。


 九人目。十人目。十一人目。


 どの人にも、癖があり、好きな皿があり、苦手な皿があり、笑ったことがあり、泣いたことがあった。

 十二人目は寒がりで、暖炉の近くを歩く癖があった。十三人目は左利きで、匙を右に持ち替えるのに三月かかった。


 十四人目。十五人目。


 十五人目のところで、わたくしは口を挟んだ。

「その方は、三年前に」

「三年前でございます」

 ベルガーさんは、そこだけ少し遅れて答えられた。

「閣下が、お調べになろうとなさった年でございます」

「ベルガーさんが、お止めになったと伺いました」

「止めました」


 それ以上は言われなかった。言い訳をしないというのは、この人の癖だ。


 十六人目。


「あの方は、最後の半年、口をきかれなくなりました。挨拶をなさらない。私が申し上げても、うなずくだけで」


 ベルガーさんは、そこで一度だけ、息を吸われた。


「夜中に、廊下で見たことがございます。這っておられました。声を出さずに」


 わたくしは膝の上で手を握った。今日は、十本とも握れる。


「お助けにならなかったのですか」


「助けました」

 ベルガーさんは即答された。

「部屋へお運びして、先生をお呼びしました。それが私の職務でございます」


 職務。


「その夜のことを、私は帳面に書きました。日付と、休みの日数を」


 顔がこちらを向いた。


「それだけでございます。書く欄が、それだけでございますから」



 わたくしは、何も言えなかった。


 この人は、十六人の顔を覚えている。歌を覚えている。足の運びを覚えている。左利きだったことを覚えている。

 四十年、一人も忘れていない。


 名前だけがない。


 ずっと、この人を制度の側の人だと思っていた。

 両手をあらためて布で拭う手つきは、道具を検めるそれに似ていた。「儀は儀でございます」と言い、「なりませぬ」と言い、皿が増えることを淡々と告げた。

 冷たいのだと思っていた。


 冷たいのではなかった。

 この人は、覚えることしか許されていなかった。書けば作り話になる。庇えば職を失う。残っているのが、覚えることだけだった。


 ベルガーさんは、床の帳面を一冊ずつ拾って、棚へ戻し始めた。


「私は、名前の欄に何も書けませんでした。四十年、一度も」


 背中が言った。


「ですから、書かなくてよいことだけ、覚えることにいたしました」


 わたくしは、床に膝をついたまま動けなかった。

 目の奥が熱くなって、それを見られる前に、頭を下げた。


 ベルガーさんは振り向かなかった。



 棚があらかた埋まったころ、こう言われた。


「侍医室は、宗務院の管轄でございます。私は鍵を持ちませぬ」


 手が止まらないまま、続いた。


「けれど、掃除の日だけは、開いております」


 わたくしは顔を上げた。


「三日に一度でございます。女中が二人入って、床と窓を拭きます。そのあいだ、扉は開いたままでございます」


「先生は」

「往診でございます。掃除の日は、麓の村へ下りられます。二十年、そう決めておられます」


 最後の一冊が棚に収まった。


「次は、明後日でございます」


 ベルガーさんは、羽根ペンの先を布で拭って、机に置かれた。


「──私は、何も申しておりません」



 部屋へ戻る廊下で、雪が屋根から落ちる音がした。


 四十年、名前の欄に何も書けなかった人が。

 書かなくてよいことだけを、全部覚えていた人が。


 今、規則を破ろうとしている。


 破っているのではない。破らずに済む場所を、四十年ぶんの知恵で探して、そこを教えてくださった。掃除の日は、規則である。開いているのは、規則どおりに開いている。



 その日の夕方、門に馬が着いた。


 わたくしは中庭に面した廊下を歩いていて、それを見た。


 馬は一頭。鞍から降りた人が、雪を払っている。黒い外套。旅装のまま。手に、革の書類挟みを抱えていた。


 使いが発ってから、八日目だった。


 十日には、二日足りない。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。