第25話 書かなくてよいことだけ
家令室の扉が、開いていた。
いつも閉まっている扉だ。窓が小さい部屋なので、扉を開けておく理由がない。冬なら、なおさら。
中を覗いて、足が止まった。
床に、帳面が並べてあった。
棚から出したものを、年ごとに、床の上に。壁際から窓のほうへ向かって、二列。四十年ぶんが、そこに広げてある。
ベルガーさんは、その真ん中に膝をついて、一冊を開いていた。
顔を上げずに、こう言われた。
「お待ちしておりました」
わたくしは扉のところに立っていた。
「先日、私は記録に書けぬと申しました」
ベルガーさんは頁を繰りながら続けられた。
「あれは本当でございます。名のない方の言葉は、書式が受け付けませぬ」
「はい」
「けれど」
そこで、頁をめくる手が止まった。
「書かなくてよいものなら、お見せできます」
顔を上げられた。
「これは、宗務院の書式ではございません。家令が家のためにつける帳面でございます。誰に見せてよいかを決めるのは、私でございます」
証言にはならない。
照らし合わせる材料には、なる。
わたくしは膝をついた。
開かれた頁に、番号が並んでいた。
代毒者(一)。着任の日。退任の日。そのあいだの休んだ日。
代毒者(二)。同じ形。
代毒者(三)。
名前の欄は、ない。刷られていないのだから、空欄ですらない。
わたくしは十六人ぶんを見た。
閣下のおっしゃった数と合った。この十六年で十三人。それより前に三人。そのうち二人は、退任の日に印がついている。名を返されて帰った人だ。
数が合う。合うことが、恐ろしかった。
ベルガーさんは、帳面を閉じた。
閉じてから、床に並べたほうへ手を伸ばして、一冊も開かずに、こうおっしゃった。
「一人目は、私が来た年に亡くなりました。まだ下働きでしたので、遠くから見ただけでございます。二人目は、務めを終えて帰られました。三人目は──」
そこで、一度だけ間が空いた。
「三人目のことは、あとで申し上げます」
ベルガーさんは、次の列へ目を移された。
「四人目は、赤毛の娘でございました」
わたくしは顔を上げた。
「よく歌っておりました。厨房の裏で、洗い物をしながら。歌ってはならぬと申しましたら、口を閉じて、それきり二年、歌いませんでした」
ベルガーさんは帳面を見ていない。
床に並べた列を、端から端まで見ておられる。
「五人目は、足が悪うございました。階段の上り下りに、人の倍かかる。儀に遅れることが二度ございましたので、大食堂に近い部屋へ移させました」
次の列へ、目が動いた。
「六人目は、字が書けました。子爵家の出でしたので。ご家族への手紙を、月に二度」
七人目。八人目。
声は淡々としていた。詰まらなかった。思い出そうとして間が空くこともなかった。
九人目。十人目。十一人目。
どの人にも、癖があり、好きな皿があり、苦手な皿があり、笑ったことがあり、泣いたことがあった。
十二人目は寒がりで、暖炉の近くを歩く癖があった。十三人目は左利きで、匙を右に持ち替えるのに三月かかった。
十四人目。十五人目。
十五人目のところで、わたくしは口を挟んだ。
「その方は、三年前に」
「三年前でございます」
ベルガーさんは、そこだけ少し遅れて答えられた。
「閣下が、お調べになろうとなさった年でございます」
「ベルガーさんが、お止めになったと伺いました」
「止めました」
それ以上は言われなかった。言い訳をしないというのは、この人の癖だ。
十六人目。
「あの方は、最後の半年、口をきかれなくなりました。挨拶をなさらない。私が申し上げても、うなずくだけで」
ベルガーさんは、そこで一度だけ、息を吸われた。
「夜中に、廊下で見たことがございます。這っておられました。声を出さずに」
わたくしは膝の上で手を握った。今日は、十本とも握れる。
「お助けにならなかったのですか」
「助けました」
ベルガーさんは即答された。
「部屋へお運びして、先生をお呼びしました。それが私の職務でございます」
職務。
「その夜のことを、私は帳面に書きました。日付と、休みの日数を」
顔がこちらを向いた。
「それだけでございます。書く欄が、それだけでございますから」
わたくしは、何も言えなかった。
この人は、十六人の顔を覚えている。歌を覚えている。足の運びを覚えている。左利きだったことを覚えている。
四十年、一人も忘れていない。
名前だけがない。
ずっと、この人を制度の側の人だと思っていた。
両手をあらためて布で拭う手つきは、道具を検めるそれに似ていた。「儀は儀でございます」と言い、「なりませぬ」と言い、皿が増えることを淡々と告げた。
冷たいのだと思っていた。
冷たいのではなかった。
この人は、覚えることしか許されていなかった。書けば作り話になる。庇えば職を失う。残っているのが、覚えることだけだった。
ベルガーさんは、床の帳面を一冊ずつ拾って、棚へ戻し始めた。
「私は、名前の欄に何も書けませんでした。四十年、一度も」
背中が言った。
「ですから、書かなくてよいことだけ、覚えることにいたしました」
わたくしは、床に膝をついたまま動けなかった。
目の奥が熱くなって、それを見られる前に、頭を下げた。
ベルガーさんは振り向かなかった。
棚があらかた埋まったころ、こう言われた。
「侍医室は、宗務院の管轄でございます。私は鍵を持ちませぬ」
手が止まらないまま、続いた。
「けれど、掃除の日だけは、開いております」
わたくしは顔を上げた。
「三日に一度でございます。女中が二人入って、床と窓を拭きます。そのあいだ、扉は開いたままでございます」
「先生は」
「往診でございます。掃除の日は、麓の村へ下りられます。二十年、そう決めておられます」
最後の一冊が棚に収まった。
「次は、明後日でございます」
ベルガーさんは、羽根ペンの先を布で拭って、机に置かれた。
「──私は、何も申しておりません」
部屋へ戻る廊下で、雪が屋根から落ちる音がした。
四十年、名前の欄に何も書けなかった人が。
書かなくてよいことだけを、全部覚えていた人が。
今、規則を破ろうとしている。
破っているのではない。破らずに済む場所を、四十年ぶんの知恵で探して、そこを教えてくださった。掃除の日は、規則である。開いているのは、規則どおりに開いている。
その日の夕方、門に馬が着いた。
わたくしは中庭に面した廊下を歩いていて、それを見た。
馬は一頭。鞍から降りた人が、雪を払っている。黒い外套。旅装のまま。手に、革の書類挟みを抱えていた。
使いが発ってから、八日目だった。
十日には、二日足りない。




