↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
毒味役に、毒の味は分かりません ~倒れて初めて分かるのです。なのに閣下は、わたくしより先に召し上がる~  作者: ヲワ・おわり


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
24/30

第24話 よく、眠れていますか

 朝、ボタンが留まった。


 一度で。


 喉元の小さなものを摘まんで、穴に入れて、押し込む。それだけの動きが、途中で止まらなかった。

 わたくしは指を見た。それから、もう一度、留めたばかりのボタンを外して、留め直した。


 留まった。


 残りの四つも、爪の側面を使わずに留められた。


 窓の外は雪だった。使いが発ってから四日が過ぎている。返事が来るとすれば、あと六日。



 髪を結ってみた。


 紐が摘まめた。細いものは駄目だったはずだ。三か月と少し前から、掌に巻きつけるやり方に変えていた。

 摘まめる。


 階段を上がった。三十段。

 十八段目で足を止めなかった。二十五段目で、少し息が上がった。それだけだった。


 厨房へ行った。膳の確認をして、樽を一つ動かすのを手伝った。持てた。


 昼のあいだ、わたくしは何度も自分の手を確かめていた。

 確かめるたびに、少しずつ何かが戻っている。


 戻っている、と思ったところで、足が止まった。



 なぜ、今なのだろう。


 三か月と少し、この身体は一方向にしか動かなかった。指が二本、三本。匂い。階段。手首。

 戻ったことは、一度もない。


 薬が変わったわけではない。膳は八つのままだ。休みは月に一度で、次はまだ先だ。

 わたくしは何もしていない。


 わたくしは何もしていないのに、身体が戻り始めている。


 やっていた側が、やめたということだ。


 厨房へ行って、献立記録を借りた。

 ヨナスさんは何も訊かずに渡してくれた。


 自分の頁を、着任の日から順に見た。

 最初の三か月は、○が続いている。三日の×が一度、七日の×が一度。それだけだ。


 前の代毒者の頁と、並べて見た。


 ミリアさんは、最初の一年、二月に一度の三日の休みだった。わたくしはこの三か月で二度。同じ調子だ。

 同じ調子だということは、わたくしはまだ、あの人の一年目にいる。


 二年目の欄で、間隔が詰まっていく。

 わたくしは、そこに入る手前で止められた。


 帳面を閉じた。

 ヨナスさんが、こちらを見ずに言った。

「顔色、良くなったな」

「はい」

「そりゃよかった」


 わたくしは、はいと答えた。ほかに答えようがなかった。



 その晩、膳は八つだった。


 閣下が先に匙を取られる。ベルガーさんが「閣下」と言う。四口目で置かれる。

 わたくしは八つを食べた。三十を、八度。


 何も起きない。


 四日、何も起きていない。


 儀が終わって、立ち上がるとき、卓の下で右手を開いた。

 指を、五本とも伸ばした。


 閣下が、それを見ておられた。


 あの方の顔から、何かが引いた。

 安心ではなかった。安心なら、肩の力が抜ける。あの方の肩は、逆に上がった。


 わたくしたちは同じ結論に達していた。


 止めたということは、次を打つということだ。


 あるいは、照会のことを知られたのかもしれない。使いが二人発ったことは、屋敷の者なら誰でも知っている。行き先までは知らなくても、この時期に王都へ人をやる理由は限られている。


 あるいは、測り終えたのかもしれない。


 どちらでも、意味は一つだった。


 もう、わたくしを測る必要がなくなった。


 三か月と少し、わたくしは自分が死にかけていることを恐れていた。

 今日から、恐れる先が変わる。


 わたくしを測っていたのは、わたくしを殺すためではない。

 測ったものを、どこかで使うためだ。


 使う先は、この屋敷に一つしかない。

 毎晩わたくしの前で、四口だけ召し上がる方だ。



 その夜、侍医室に呼ばれた。


 半月ごとと決められた診察の日だった。


 先生はいつもの順で診てくださった。脈。瞼。舌。それから、手。


 指の腹を一本ずつ押していく。


 押していた手が、途中で止まった。


 もう一度、最初から押し直された。


「──戻っていますね」


 声が、少し高かった。


「痺れが、指先まで下がっています。手首は」

「動きます」

「握ってみてください」


 握った。五本とも、握った感じがした。


「これは」


 先生は、わたくしの手を両手で包まれた。


「よかった」


 その声を、わたくしは覚えている。


「本当に、よかった」


 演技ではなかった。

 わたくしはこの三か月と少し、この人の声を聞いてきた。優しい声も、事務的な声も、諦めた声も聞いた。今の声は、そのどれとも違った。


 この人は、心から喜んでいる。


「このまま行けば、二月ほどで、以前の状態に近づくでしょう」

 先生は手を離して、綴じ帳を開かれた。羽根ペンを取る。

「良い変わり方です。こういうことは、めったにありません」


 めったにない。


 この人は、めったにないことを何度も見てきたはずだ。十六年で十三人。一人ずつ、脈を取り、瞼を押し上げ、指の腹を押して、綴じ帳に書き込んできた。

 その全部を書いた人が、今、わたくしの手を握って喜んでいる。


 嘘だとは思わなかった。

 嘘であってくれたら、まだよかった。


 わたくしは膝の上で手を組んだ。今日は、震えていれば分かってしまう。


 訊いた。


「先生」

「はい」

「わたくしの前の方たちも、良くなったことがございましたか」


 羽根ペンが、止まった。


 ほんの一瞬だった。すぐにまた動き出した。紙を擦る音が続く。


「……ありましたよ。何人か」


「その方たちは、そのあと、どうなりましたか」


 音が止まった。


 止まったまま、続かなかった。


 暖炉の火が、薪を割る音を立てた。乾かした薬草の束が、風で揺れた。


 先生は羽根ペンを置かれた。

 置いてから、こちらを見られた。


 その顔には、何もなかった。怒りも、警戒も、動揺も。


 そして、こうおっしゃった。



「──よく、眠れていますか」



 わたくしは答えた。


「はい」


「結構」


 診察が終わった。

 薬包を渡されて、受け取って、頭を下げて、部屋を出た。



 廊下を歩きながら、震えていた。

 今度は、隠さなくてよかった。誰も見ていない。


 部屋に入って、扉を閉めた。


 寝る前の手順を踏んだ。

 指を折る。十本。全部曲がる。曲がった感じもする。


 三か月と少しぶりに、十本だった。


 舌を上顎に押しつける。痺れはない。

 水を一口。詰まらない。


 何も起きない。


 寝台に腰を下ろした。


 先生は、答えなかった。


 三か月と少し、あの人は一度も答えなかったことがない。分からないことは分からないと言い、できないことはできないと言った。書けないと書いたことがあるかと訊けば、あると答えた。


 一度も、はぐらかされたことがない。


 今日、初めて答えなかった。


 あの人は、嘘をつかない人なのだ。


 だから、答えられなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。