第24話 よく、眠れていますか
朝、ボタンが留まった。
一度で。
喉元の小さなものを摘まんで、穴に入れて、押し込む。それだけの動きが、途中で止まらなかった。
わたくしは指を見た。それから、もう一度、留めたばかりのボタンを外して、留め直した。
留まった。
残りの四つも、爪の側面を使わずに留められた。
窓の外は雪だった。使いが発ってから四日が過ぎている。返事が来るとすれば、あと六日。
髪を結ってみた。
紐が摘まめた。細いものは駄目だったはずだ。三か月と少し前から、掌に巻きつけるやり方に変えていた。
摘まめる。
階段を上がった。三十段。
十八段目で足を止めなかった。二十五段目で、少し息が上がった。それだけだった。
厨房へ行った。膳の確認をして、樽を一つ動かすのを手伝った。持てた。
昼のあいだ、わたくしは何度も自分の手を確かめていた。
確かめるたびに、少しずつ何かが戻っている。
戻っている、と思ったところで、足が止まった。
なぜ、今なのだろう。
三か月と少し、この身体は一方向にしか動かなかった。指が二本、三本。匂い。階段。手首。
戻ったことは、一度もない。
薬が変わったわけではない。膳は八つのままだ。休みは月に一度で、次はまだ先だ。
わたくしは何もしていない。
わたくしは何もしていないのに、身体が戻り始めている。
やっていた側が、やめたということだ。
厨房へ行って、献立記録を借りた。
ヨナスさんは何も訊かずに渡してくれた。
自分の頁を、着任の日から順に見た。
最初の三か月は、○が続いている。三日の×が一度、七日の×が一度。それだけだ。
前の代毒者の頁と、並べて見た。
ミリアさんは、最初の一年、二月に一度の三日の休みだった。わたくしはこの三か月で二度。同じ調子だ。
同じ調子だということは、わたくしはまだ、あの人の一年目にいる。
二年目の欄で、間隔が詰まっていく。
わたくしは、そこに入る手前で止められた。
帳面を閉じた。
ヨナスさんが、こちらを見ずに言った。
「顔色、良くなったな」
「はい」
「そりゃよかった」
わたくしは、はいと答えた。ほかに答えようがなかった。
その晩、膳は八つだった。
閣下が先に匙を取られる。ベルガーさんが「閣下」と言う。四口目で置かれる。
わたくしは八つを食べた。三十を、八度。
何も起きない。
四日、何も起きていない。
儀が終わって、立ち上がるとき、卓の下で右手を開いた。
指を、五本とも伸ばした。
閣下が、それを見ておられた。
あの方の顔から、何かが引いた。
安心ではなかった。安心なら、肩の力が抜ける。あの方の肩は、逆に上がった。
わたくしたちは同じ結論に達していた。
止めたということは、次を打つということだ。
あるいは、照会のことを知られたのかもしれない。使いが二人発ったことは、屋敷の者なら誰でも知っている。行き先までは知らなくても、この時期に王都へ人をやる理由は限られている。
あるいは、測り終えたのかもしれない。
どちらでも、意味は一つだった。
もう、わたくしを測る必要がなくなった。
三か月と少し、わたくしは自分が死にかけていることを恐れていた。
今日から、恐れる先が変わる。
わたくしを測っていたのは、わたくしを殺すためではない。
測ったものを、どこかで使うためだ。
使う先は、この屋敷に一つしかない。
毎晩わたくしの前で、四口だけ召し上がる方だ。
その夜、侍医室に呼ばれた。
半月ごとと決められた診察の日だった。
先生はいつもの順で診てくださった。脈。瞼。舌。それから、手。
指の腹を一本ずつ押していく。
押していた手が、途中で止まった。
もう一度、最初から押し直された。
「──戻っていますね」
声が、少し高かった。
「痺れが、指先まで下がっています。手首は」
「動きます」
「握ってみてください」
握った。五本とも、握った感じがした。
「これは」
先生は、わたくしの手を両手で包まれた。
「よかった」
その声を、わたくしは覚えている。
「本当に、よかった」
演技ではなかった。
わたくしはこの三か月と少し、この人の声を聞いてきた。優しい声も、事務的な声も、諦めた声も聞いた。今の声は、そのどれとも違った。
この人は、心から喜んでいる。
「このまま行けば、二月ほどで、以前の状態に近づくでしょう」
先生は手を離して、綴じ帳を開かれた。羽根ペンを取る。
「良い変わり方です。こういうことは、めったにありません」
めったにない。
この人は、めったにないことを何度も見てきたはずだ。十六年で十三人。一人ずつ、脈を取り、瞼を押し上げ、指の腹を押して、綴じ帳に書き込んできた。
その全部を書いた人が、今、わたくしの手を握って喜んでいる。
嘘だとは思わなかった。
嘘であってくれたら、まだよかった。
わたくしは膝の上で手を組んだ。今日は、震えていれば分かってしまう。
訊いた。
「先生」
「はい」
「わたくしの前の方たちも、良くなったことがございましたか」
羽根ペンが、止まった。
ほんの一瞬だった。すぐにまた動き出した。紙を擦る音が続く。
「……ありましたよ。何人か」
「その方たちは、そのあと、どうなりましたか」
音が止まった。
止まったまま、続かなかった。
暖炉の火が、薪を割る音を立てた。乾かした薬草の束が、風で揺れた。
先生は羽根ペンを置かれた。
置いてから、こちらを見られた。
その顔には、何もなかった。怒りも、警戒も、動揺も。
そして、こうおっしゃった。
「──よく、眠れていますか」
わたくしは答えた。
「はい」
「結構」
診察が終わった。
薬包を渡されて、受け取って、頭を下げて、部屋を出た。
廊下を歩きながら、震えていた。
今度は、隠さなくてよかった。誰も見ていない。
部屋に入って、扉を閉めた。
寝る前の手順を踏んだ。
指を折る。十本。全部曲がる。曲がった感じもする。
三か月と少しぶりに、十本だった。
舌を上顎に押しつける。痺れはない。
水を一口。詰まらない。
何も起きない。
寝台に腰を下ろした。
先生は、答えなかった。
三か月と少し、あの人は一度も答えなかったことがない。分からないことは分からないと言い、できないことはできないと言った。書けないと書いたことがあるかと訊けば、あると答えた。
一度も、はぐらかされたことがない。
今日、初めて答えなかった。
あの人は、嘘をつかない人なのだ。
だから、答えられなかった。




