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毒味役に、毒の味は分かりません ~倒れて初めて分かるのです。なのに閣下は、わたくしより先に召し上がる~  作者: ヲワ・おわり


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第23話 行きに五日、帰りに五日

 書斎の机に、封をした書状が置いてあった。


 その横に、封をしていない同じものが、もう一通。


「二通ございますが」

「一通は届かないかもしれない」


 閣下は蝋を溶かしておられた。匙の上で、赤いものがゆっくり形を失っていく。


 宗務院に属する侍医が、宗務院宛ての書状を止める手立てを持っていないとは限らない。使いの者に金を渡してもいいし、峠で落としたことにしてもいい。冬の道で書状が一通なくなるのは、珍しいことではない。


「別の道から出す。使いを二人、日を分けて」

「はい」


 わたくしは封をしていないほうを覗いた。

 読んでよいものかは分からなかったが、閣下は隠されなかった。


 隠す理由がないのだと、あとで思った。

 わたくしが読んでも、読んだことにならない。名のない者が何を読んだかは、記録に残らない。

 この屋敷で、いちばん安全に秘密を見せられる相手が、わたくしだった。



 書いてあるのは、短いことだった。


 レーンフェルト大公家における代毒者の在任期間および死亡について、宗務院本院に保管の記録との照合を求める。


 それだけだ。


「訴えでは、ないのですね」

「訴えにはできない」


 閣下は蝋を封に落とされた。印を押す。


「誰かが毒を盛っていると書けば、誰が見たのかと訊かれる。見たのはお前だ」

「わたくしには、名が」

「ない」


 だから、人を訴えない。


 数を訴える。


 十六年で十三人が死んだ。それは記録に残っている数字で、誰が見たかを問われない。書式の中にすでにあるものだ。

 書式が受け付けるものだけを、書式に乗せる。


「照合を求めるだけで、動くのでしょうか」

「動かないかもしれない」

 閣下は印を押した封を、指で押さえておられた。

「二度、動かなかった。今度で三度目だ」

「では、なぜ」

「今度は、こちらに数がある」


 わたくしは机の上の書状を見た。


「二度目までは、私が多いと言っただけだ。多いと思うのは主観だと返された」

「今度は」

「厨房の記録がある。家令の帳面がある。本院の名簿がある。三つを並べれば、多いかどうかは私が言うことではなくなる」


 誰かの意見ではなく、紙と紙のあいだのずれになる。

 ずれは、読む人によって変わらない。



 昼、中庭で使いが発った。


 雪が降っていた。馬の背に荷が積まれて、御者が鞍の紐を締め直している。

 閣下とわたくしは、庇の下に立っていた。


「峠は越えられます」

 御者が言った。手綱を握って、空を見上げる。

「ただ、行きに五日、帰りに五日。急がせても、その半分にはなりません」


 十日。


 馬が中庭を出ていった。門をくぐって、坂を下って、雪の中に見えなくなった。


 もう一人の使いは、三日後に別の道から発つ。そちらは南へ回るので、着くのに七日かかるという。届くとすれば、こちらの一通が先だ。

 届かなければ、七日目に望みが残る。望みが残るというのは、七日目までは何も分からないということでもある。


 わたくしは自分の手を見た。

 手首まで来ている。指の付け根から先が、袖の中で他人のもののようになっている。


「十日、耐えろ」


 閣下がそうおっしゃった。


「はい」


 それから、少し間があった。


「──六年、待った」


 閣下は坂のほうを見ておられた。


「あと十日が、いちばん長い」


 この方が弱音のようなものを漏らされたのは、初めてだった。

 漏らしてから、少し困った顔をされた。困った顔をされたのも、初めて見た。


「──言わなかったことにしろ」

「はい」


 わたくしは頭を下げた。下げながら、この方は言わなかったことにするのが上手だと思った。

 言おうとしてやめる。言ってからなかったことにする。聞こえなかったことにする。


 六年、そうやって暮らしてこられたのだろう。



 その晩、膳は八つだった。


 先生が皿の上に手をかざしていく。


 わたくしは、その手を見ていた。

 三か月と少し、毎晩見てきたものだ。指三本ぶんの高さで、掌がゆっくり動く。皿から皿へ。淀みがない。


 二十年、この所作は変わっていないのだろう。

 変わらないから、誰も見ない。見る必要がないと思っている。毎晩起きることは、風景になる。


 八つ目で、顎が引かれた。

「結構です」


 わたくしは、皿の上を通る掌の高さを目で測っていた。指三本ぶん。近くも遠くもならない。

 あの高さなら、袖の内側は皿の上に来る。


 顔を上げたとき、先生と目が合った。


 先生は、微かに口元を動かされた。


「顔色が良い。今日はよく眠れましたか」


 三か月と少し前、初めてお会いした日と、一字も違わなかった。


「はい」


 わたくしはそう答えた。声は震えなかった。震えないものだと、自分でも思っていなかった。


 先生は満足そうに一度うなずいて、壁際へ下がられた。



 閣下が匙を取られた。わたくしより先に。

 ベルガーさんが「閣下」と言う。四口目で置かれる。


 わたくしは一皿目に手を伸ばした。


 三十を、八度。


 数えながら、考えていた。


 この八つのどれかに、入っているかもしれない。入っていないかもしれない。

 わたくしには分からない。分かる手立てはない。


 変わったことが一つだけある。


 三か月と少しのあいだ、わたくしは「毒が入っているかどうか」を数えていた。

 今は、「あの人が今日は入れたかどうか」を数えている。


 同じことのはずだ。同じことなのに、まるで違った。


 毒は、天気ではなかった。降るか降らないかを待つものではなかった。

 誰かが、決めていた。今日は入れる、今日は入れない、量はこれくらいにする、と。


 三か月と少し、わたくしは自分の運を数えていた。

 数えていたのは、運ではなかった。


 六つ目を飲み下したところで、指が滑った。持ち替える。親指と小指で挟んで、掌で支える。

 この持ち方も、いつまでできるだろう。


 八つ目を飲み下して、三十を数えた。

 何も起きない。


「毒味、終わりましてございます」



 部屋に戻って、扉を閉めた。


 寝る前の手順を踏んだ。七本。舌。水。何も起きない。


 寝台に腰を下ろした。


 顔色が良い。今日はよく眠れましたか。


 三か月と少し前、あの言葉は優しさだった。この屋敷で、初めて自分に向けられた気遣いだった。


 今は、点検に聞こえる。


 顔色。睡眠。痺れの位置。歩けるかどうか。

 全部、書き留めるためのものだ。


 十日。


 十日のあいだに、あの人がわたくしに何かをするのなら。


 いや。


 あの人は、たぶん、何もしない。


 半月後に診ると決められた。それまでは、待たれるだろう。

 急いで失敗したことが、一度あるのだから。

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