第22話 六年、疑っていた
書斎の扉を叩くまでに、二日かかった。
代毒者が大公の書斎を訪ねてはならないという決まりはない。決まりがないだけで、そんなことをした者もいない。
ないことをするのは、禁じられていることをするより難しい。
二日目の夜、包みを布に包んで、扉を叩いた。
「入れ」
書斎は暖かかった。暖炉に火が入っていて、机の上に紙が広げてある。閣下は羽根ペンを持ったまま顔を上げられた。
わたくしは扉を閉めて、机の前に立った。
「忘れろ、とおっしゃいました」
「言った」
「忘れられませんでした」
閣下は羽根ペンを置かれた。
わたくしは布をほどいて、机の上に置いた。
紙の包みが三つ。それと、字の書かれた一枚。
閣下は包みの一つを取って、開かれた。乾いた肉の欠片が出てきた。指で摘まんで、しばらく見ておられた。
それから、字のある紙を取られた。
読んでおられるあいだ、暖炉の薪が一度崩れた。
閣下の手が、止まった。
「……これは」
「前の代毒者が、床下に隠しておりました」
「いつ」
「六日前に、開けました」
わたくしは続けた。
「診察録に、分量が書かれておりました」
閣下が顔を上げられた。
「三分の一匙、と。症状の欄に。処方の欄ではございません」
「見たのか」
「開いておりました。先生が薬を取りに出られたときに」
「他には」
「前の方たちの頁にも、同じ数字が並んでおりました。少しずつ違う数で、増えたり減ったり」
閣下は、紙を机に置かれた。
長い沈黙があった。
「──六年、疑っていた」
その声は、いつもより低かった。
「父が死んで、家督を継いだ。二十一のときだ。継いですぐ、代毒者の記録を調べた」
閣下は椅子の背に体を預けられた。
「この十六年で、十三人が死んでいる。多すぎる」
「十三人」
「一人あたり一年と少しだ。務めが重いことを差し引いても、多すぎる」
ヨナスさんの言った数と、少し違った。
十七人ぶん作って、十四人ぶんの葬式に出たと言っていた。二十二年ぶんだ。閣下が数えておられるのは、その後ろの十六年ぶんになる。
「宗務院に照会した。二度」
「返事は」
「侍医の記録に不審な点はない、と」
閣下は机の上で指を組まれた。手袋をしたままだった。
「あの記録は、よくできている。二十年、一日も抜けがない。読んだ者は納得する。……納得した」
「閣下も」
「私も納得しかけた。何度も」
そこで一度、言葉が切れた。
「証拠がない。動けば、消される」
「消される」
「疑っていると知られた者が、何人か辞めた。屋敷を出て、それきりだ」
暖炉の火が、静かに燃えていた。
「三年前に、家令に調べさせようとした」
閣下は火のほうを見ておられた。
「ベルガーは、断った」
「ベルガーさんが」
「調べれば、記録に残る。残れば、宗務院が読む。読まれれば、私が誰を疑っているかが伝わる。あれはそう言った」
正しい。
あの人はいつも正しい。正しいから、四十年、名前の欄を空のままにしてきた。
「もう一つ、断られた理由がある」
「はい」
「調べているあいだに、代毒者が死ぬ。あれはそう言った」
息を吸った。
「そのときの代毒者は」
「十五人目だ」
「その方は」
「三年前に死んだ」
わたくしは訊いた。
「なぜ、先に召し上がるのですか」
閣下がこちらを見られた。
今度は、答えられた。
「私が先に食べれば、盛る側が困る」
言葉が短い。短いのに、意味が広がるのに時間がかかった。
「代毒者が倒れるのは、儀が働いた証だ。誰も疑わない。書類が一枚増えて、それで終わる」
「はい」
「私が先に食べて、私が倒れれば、それは事件になる。宗務院が動く。監督官が来る。調べが入る」
背中が冷えた。
「だから、盛る側には二つしかない。手を止めるか、私を狙うか」
閣下は指を組み直された。
「どちらでもよかった。止まれば、お前が助かる」
わたくしは口を開いた。声が出るまで、少しかかった。
「閣下がお倒れになったら」
「そのときは、証拠になる」
薪が爆ぜた。
わたくしはそこに立ったまま、この方が三十四日のあいだ、毎晩何をしておられたのかを考えていた。
膳が並ぶ。先生が手をかざす。ベルガーさんが一歩出る。
そこで、この方は匙を取られる。
入っているかどうかは分からない。分かる手立てはこの国にない。
分からないまま、毎晩、四口。
わたくしと同じことを、この方はご自分で選んでなさっていた。
わたくしには選べない。この方には選べる。選べる人が、選んで、三十四晩続けた。
わたくしは机の縁を掴んだ。掴んだつもりで、指が三本、掴んでいなかった。
「なぜ、教えてくださらなかったのですか」
「知っている者は、消される」
それだけだった。
三か月と少し、あの方が言えなかったことが、その一言に収まっていた。
「エルサも、たぶん、何かを知っていた」
わたくしは顔を上げた。
「……エルサ」
閣下が口を閉じられた。
出すつもりのなかった名前が出た。そういう閉じ方だった。
「──昔、この家にいた人だ」
それ以上は、何もおっしゃらなかった。
その夜、二人で決めたことは一つだった。
証拠を作る。
閣下は宗務院へ正式に照会を出すとおっしゃった。今度は疑いではなく、記録の照合を求める形で。
「冬は、峠が」
「十日かかる。それでも出す」
「照会が届くまで、十日」
「はい」
「そのあいだも、膳は出る」
「はい」
閣下は何かを言いかけて、やめられた。
言えることが何もないのだと分かった。止められない。減らせない。皿は八つのままで、十日ぶん、八十回の三十を数えることになる。
閣下が立ち上がって、暖炉のほうへ歩かれた。火に手をかざす。手袋をしたまま。
戻ってきて、机の上に手を置かれた。
わたくしの手の、少し手前だった。
届く距離ではない。
届く距離にしていない。
わたくしはその手を見ていた。
部屋に戻って、扉を閉めた。
寝る前の手順を踏む。七本。舌。水。何も起きない。
寝台に腰を下ろして、あの手のことを考えた。
書斎は暖かかった。暖炉に火が入っていて、羽根ペンを持っておられた。
あの方は、書き物をなさるときも手袋を外さない。
食卓でもない。儀の場でもない。誰も見ていない部屋で、火に手をかざすときも。
昔、この家にいた人だ、とおっしゃった。
代毒者に、名前はない。
なのに、あの方はその人の名前を知っておられた。
いや。違う。
あの方は、その人の名前を、たった今まで一度も口にされたことがなかったのだ。




