第21話 名前の欄は、空でございます
一晩、床板の上に座っていた。
釘を抜いて、包みを出して、膝に載せた。三十六の包みと、字の書かれた一枚。
蝋燭が短くなって、二本目に替えた。二本目も短くなった。
分かったことは一つだけだった。
次は、わたくしだ。
線の意味はまだ分からない。誰が入れているのかも、はっきりとは言えない。膳に触れられるのは三人で、そのうちのお一人が、量を書いておられる。それだけだ。
それだけで、もう十分だった。
誰に言うかを、朝までかかって考えた。
ヨナスさんは平民だ。侍医を疑ったと知れれば、厨房を追われる。二十二年の勤めが消える。
ティナは十六だ。巻き込めばこの娘の人生が終わる。名を呼んだだけで屋敷を出されかけた娘だ。
閣下は――忘れろとおっしゃった。あの方はわたくしを巻き込みたくないのだ。こちらから持っていけば、あの方の六年が無駄になる。
残るのは、一人だった。
ベルガーさんは記録を持っている。四十年ぶんの帳面が、あの小さな部屋の壁を埋めている。
あの人になら、記録の話ができる。
あの人は冷たい。冷たいから、情に流されない。情に流されない人は、数字を数字として聞く。
わたくしが持っているのは、数字だけだ。
夜が明けるころ、包みを床下に戻して、釘を打ち直した。
打ち終えて、板の上に手を置いた。木は、置いた手のぶんだけ温まる。
朝、家令室の扉を叩いた。
代毒者が自分から家令を訪ねたことは、たぶん一度もない。ベルガーさんは羽根ペンを置いて、それから、机の前の椅子を指した。
「お掛けなさい」
座った。膝の上で手を組んだ。三本は組んだ感じがしない。
「申し上げたいことがございます」
「伺いましょう」
わたくしは話した。
どこから話すべきかを、朝までかかって決めたつもりだった。決めた順序は、口を開いた途端に崩れた。
うまく話せなかった。順序が乱れて、二度戻って、同じことを二度言った。
診察録に分量が書かれていたこと。医者は毒が何か分からないと言ったのに、量を書いていること。前の方たちの頁にも同じ数字が並んでいて、同じ形をしていること。厨房の献立記録で、休みの間隔が規則正しかったこと。床下から出てきた包みのこと。
ベルガーさんは、一度も遮らなかった。
話し終えた。喉が渇いていた。
長い沈黙があった。窓の小さい部屋で、蝋燭の芯が鳴った。
それから、ベルガーさんはこう言った。
「──あなたのお名前を、伺ってもよろしいですか」
わたくしは顔を上げた。
言葉の意味が、すぐには入ってこなかった。
「代毒者に、名は」
「ええ。ございません」
ベルガーさんは、机の上で両手を重ねた。
「宗務院の記録には、名のある者の申し立てのみを記載いたします。名のない方が何を見たとおっしゃっても、書く欄がございません」
「書いて、いただけないのですか」
「書けば、私が作り話をしたことになります」
声には、何も含まれていなかった。
「発言した者を特定できぬ言葉は、証言として立ちませぬ。書式の問題でございます。私が決めたことではございません」
わたくしは膝の上の手を見た。
「閣下がおっしゃれば」
「閣下は、ご覧になっておられません」
そうだった。あの綴じ帳を見たのはわたくしだけだ。
「では、ヨナスさんが」
「料理人が侍医を訴えれば、その日のうちに厨房を出されます。宗務院の者を、大公家の使用人が疑うのですから」
「では、ベルガーさんが」
「私は見ておりません」
見ていないことは書けない。見た者は書けない。
輪の外へ出る隙間がなかった。
「では、どうすれば」
「任期を終えて、名を返されるまで、お待ちになるほかありません」
喉が動いた。
言葉になるまで、少しかかった。
「わたくしは、それまで生きていられません」
ベルガーさんが、目を伏せた。
「──存じております」
それだけだった。
立ち上がった。
礼をして、扉のほうへ歩いた。
背中に声がかかった。
「毒味」
振り向いた。
ベルガーさんは机に向かったままだった。壁の棚を見ておられた。年ごとに並んだ帳面の背表紙を、端から端まで。
「私は、十六人を見送りました」
わたくしは扉のところで立ち止まった。
「一人ずつ、記録に書きました。着任の日と、退任の日と、その間に休まれた日を。書式どおりに、抜かりなく」
棚の帳面は、四十年ぶんある。
「代毒者(一)。代毒者(二)。代毒者(三)」
番号を読み上げるように、ベルガーさんは言った。
「名前の欄は、空でございます」
窓の外で、雪が屋根から落ちる音がした。
「四十年、一度も埋まったことがございませぬ。埋める欄が、そもそも刷られておりません」
この人は、自分を弁護していなかった。
言い訳を並べているのでもなかった。
「十六人のうち、二人は名を返されて家へ帰られました。残りは、恩給の書類にお名前が載ります。死んでから、初めて」
ベルガーさんは棚を見たままだった。
「私はその書類を作りました。十四回」
「それが、私の仕事でございます」
ベルガーさんは、そこで羽根ペンを取り直した。
わたくしは頭を下げて、家令室を出た。
廊下は冷えていた。
歩きながら、朝からのことを並べた。
ベルガーさんは、わたくしが助からないことを知っている。
知っていて、記録に書けないと言った。書けば作り話になると。
その通りだ。あの人は正しい。
先生も正しかった。誰かが受けねばならない、と。
閣下も正しい。言えば、わたくしが知った者になる。
正しいことを言う人ばかりだ。
正しいことを言う人ばかりで、誰も助けてくれない。
階段の下で、足を止めた。
もう一つ、考えたことがある。
わたくしがここで倒れれば、十八人目が来る。
先生はそうおっしゃった。わたしが早く書けば、次の方が早く来ますと。
わたくしが助からないだけなら、それは、わたくしの話で終わる。
終わらない。
十八人目が来て、また三十を数え始める。誰かが名を捨てて、この部屋に入って、あの床板の上で眠る。
その人も、面通しの日に誰かとすれ違うだろう。すれ違って、名前は、と訊くかもしれない。
三か月前、席が空いたと聞いて、わたくしは喜んだ。
空いた席には、必ず誰かが座る。喜んだとき、わたくしはそれを考えなかった。
階段を上がった。十八段目で息が上がって、手すりを掴んだ。
掴んだまま、決めた。
だから、あの方のところへ行った。




