第20話 三分の一匙
八日のあいだ、包みは床下に戻したままだった。
線の意味は分からない。分からないものを持っていても仕方がないので、板を釘で留めて、その上で毎晩眠った。
毎晩、八つの皿を食べて、二百四十まで数えて、部屋へ戻って、板の上で眠った。
月に一度の診察の日が来た。
侍医室は暖かかった。
書き物机の上に、綴じ帳が開いたまま置いてある。厚い。革の背が擦れて、指の当たるところだけ色が変わっている。
先生は長椅子に座らせて、いつもの順で診てくださった。
脈。瞼。舌。それから、手。
指の腹を一本ずつ押していく。
「痺れは、どのあたりまで」
「手首まで、まいりました」
押していた指が、止まった。
ほんの一瞬だった。すぐにまた動き出した。
「……そうですか」
先生は立ち上がって、机へ行かれた。綴じ帳に何かを書き込まれる。羽根ペンが紙を擦る音がした。短い。数字を書くときの音だった。
「薬を取ってきます。少しお待ちを」
扉が閉まった。
わたくしは長椅子に座っていた。
見るつもりはなかった。
机は長椅子の斜め前にある。綴じ帳は開いたままだ。顔を上げれば、目に入る位置にあった。
入ってしまった。
今日の頁だった。
日付。
名前は書かれていない。代わりに、代毒者(十七)とある。
症状。痺れが手首に及ぶこと。歩行に難あり。
その下に、数字があった。
三分の一匙
わたくしは、それをしばらく見ていた。
薬の量だろうか、と思った。
思ってから、違うと気づいた。
薬はまだ渡されていない。先生は今、取りに行っておられる。渡していないものの量を、先に書くはずがない。
それに、薬の量なら処方の欄に書く。この数字は、症状の欄に書いてある。
わたくしは立ち上がった。
立ち上がるべきではなかった。分かっていた。分かっていて、机の前まで歩いた。
頁をめくった。
先月の頁。数字がある。二分の一匙。
その前。四分の一匙。
その前。三分の一匙。
並んでいる。少しずつ違う数で、増えたり、減ったりしながら。
さらに前へ戻った。
代毒者(十六)。
ミリアさんだ。
二年ぶんある。同じように、数字が並んでいる。
最初のほうは間隔が空いている。後になるほど詰まる。数が大きくなる。
最後の頁で、数字が一つ、大きく飛んだ。
そこで途切れていた。
その前。代毒者(十五)。代毒者(十四)。
同じ形をしていた。
わたくしは頁を押さえたまま、動けなくなっていた。
三つのものが、頭の中で近づいてきた。
一つ。厨房の献立記録。休みの間隔が規則正しく、後になるほど短くなっていたこと。
一つ。床下の包み。ミリアさんが二十日に一度、一口ぶんを残していたこと。紙の隅に爪で刻まれた線。
そして、この数字。
匙。分量。
毒に量があるのは当たり前のことだ。当たり前だと思って、聞き流した。
量が違えば出方も違います、と先生はおっしゃった。二度目に倒れた夜のことだ。
あのとき、なぜそれを知っておられたのだろう。
医者は、患者に何が入っていたか分からないと言った。この国に見分ける手立てはないと言った。煮ても水に溶かしても色は変わらないと。
それは本当だ。嘘ではなかった。
分からないはずの人が、分量を書いている。
誰が入れたかを知らなくても、量は書ける。
入れた者なら。
扉の外で、足音がした。
わたくしは頁を戻して、長椅子へ戻った。座って、膝の上で手を組んだ。
組んだ指のうち三本は、組んだ感じがしない。今日はそれが助かった。震えていても分からない。
扉が開いた。
「お待たせしました」
先生が薬包を持って戻ってこられた。
いつもどおりの顔だった。わたくしが立ち上がったことにも、頁がめくられたことにも、気づいておられない。
気づくはずがない。
この方にとって、代毒者は、綴じ帳の中では番号で、部屋の中では患者だ。頁を読む人間だとは思っておられない。
名のない者は、読まない。読めても、書けない。書けない者が読んだところで、何も起きない。
薬包を受け取った。
受け取るとき、指が滑って、先生が下から支えてくださった。
「手首までとなると、次はもう少し詳しく診ましょう」
「はい」
「ひと月後です。……いえ、半月にしましょうか」
半月。
「はい」
わたくしは立ち上がって、頭を下げた。
扉のほうへ歩いた。
背中に、声がかかった。
「数えていますよ、ちゃんと。わたしは忘れません」
足が止まりかけて、止めずに歩いた。
振り向かなかった。
振り向いたら、顔に出るところだった。
廊下に出て、扉を閉めた。
壁に手をついて、そこでようやく息を吸った。
三度、聞いた言葉だ。
一度目は、倒れた夜だった。この人だけが自分を数えてくれるのだと思った。
二度目は、閣下が儀を破られた日だった。同じように聞こえた。
三度目の今、同じ言葉が、まったく違うものになっている。
数えている。
わたくしが何を、いつ、どれだけ飲んだかを。倒れるまでに何日かかったかを。どこまで痺れが上がったかを。
全部、書いてある。
毒は、閣下に向けられていたのではない。
わたくしに向けられていた。
わたくしの前の人にも。その前の人にも。
あの三人ぶんの頁で、同じ形をしていたのは、同じ病だったからではない。
同じことを、順番にされていたからだ。
閣下は、ご存じだったのだ。
あるいは、疑っておられた。だから皿を下げさせようとされた。だから先に匙を取られた。理由は言えないとおっしゃった。
言えば、わたくしが知った者になる。
知った者がどうなるかは、この床下と、この綴じ帳が示している。
逆だ、とあの方はおっしゃった。
聞くに値しないのではない。聞かせられない。
いま、わたくしは聞いてしまった。誰の口からでもなく、開いていた頁から。
膝が震えて、壁を伝って座り込みそうになった。
こらえた。ここは廊下だ。誰かが通れば、また倒れたと思われる。倒れたと思われれば、あの人が呼ばれる。
立ったまま、目を閉じた。
わたくしは、三か月と少し生きている。
ミリアさんは二年。その前の方は一年に足りない。
わたくしは、よく保っているのだと言われた。前の方より、ずっと、と。
褒められたと思った。あのとき、少しだけ、嬉しかった。
違う。
わたくしが長く生きているのは、丈夫だからではない。
あの人が、丁寧にやっているからだ。
三分の一匙。四分の一匙。二分の一匙。増やしたり、減らしたり。急がずに、間を空けて、痺れがどこまで上がるかを見ながら。
ミリアさんは、最後に数字が大きく飛んだ。
飛んで、途切れた。
急いだのだ。急いで、失敗した。
目を開けた。
次はひと月後だと言われて、半月に変えられた。
もうすぐ、終わるからだ。




