第19話 わたしの名前を、だれか
釘抜きは、厨房から借りてきた。
棚の建て付けが悪いので、と言った。
ヨナスさんは道具箱から出して、無言で渡してくれた。何に使うのかは訊かれなかった。
嘘をついたのは、この屋敷に来てから初めてだった。
生きたいと思った夜から、五日が過ぎている。五日、毎晩あの板の上に手を置いて、そのたびにやめた。
六日目に、借りに行った。
膝をついて、釘抜きの先を板の隙間に差し入れる。
入らない。隙間が狭い。
角度を変える。滑る。指に力を入れると、痺れている三本のせいで、どこに力が入っているのか分からない。
三度失敗した。
四度目に、反対の手を柄の上から重ねて、体重をかけた。
釘が、鳴いた。
浮いてきた頭を掴んで、引き抜く。錆が指について、黒い粉になった。
もう一本。三本目。
板を持ち上げた。
下は、空洞だった。
埃が舞ったはずだ。目に沁みたから、舞ったのだと分かる。匂いは、しない。
蝋燭を近づけた。
紙の包みが、並んでいた。
几帳面に、端を揃えて、二列。手前から奥へ向かって、順に。
数えた。三十六。
わたくしは一つを取り出した。
包みを開くと、中に、乾いた欠片が入っていた。
肉だと思う。繊維が縦に走っている。指で押すと、乾いて縮んだ皮が割れた。
一口ぶんだ。
次の包みを開いた。パンの端。次はパンではなく、白っぽい、粉を練ったものの欠片。次は、何か分からない。
全部、一口ぶんだった。
膝の上に、並べていった。
三十六。二年務めて、三十六だ。
二年は七百日を越える。七百のうちの三十六。二十日に一度ほどになる。
ミリアさんは、食べたふりをしていた。
口に運んで、噛んで、頬の内側に寄せて、飲み下したように見せて、部屋へ戻ってから吐き出した。それを乾かして、包んで、床下に隠した。
吐き出してはならない。紙に書いてあった三つのうちの一つだ。
この人は、それを破っていた。
毎晩ではないだろう。毎晩やれば、必ず見つかる。ときどき、選んで、一口ぶんだけ。
選ぶ。
皿を選んではならないというのは、判じてはならないという意味だ。
この人は、判じていた。
どうやって選んだのだろう。
毒の味は分からない。この人にも分からなかったはずだ。分かるなら、吐き出す必要すらない。手をつけずに済ませればいい。
分からないまま、二十日に一度、何かを基準にして、一口ぶんを残した。
その基準が、たぶん、この線だ。
包み紙は、反故紙だった。
書き損じの帳面の切れ端や、包み紙の裏。字が印刷されているものもある。
その紙の隅に、線が刻んであった。
爪で引っ掻いた線だ。インクではない。表面の繊維が起きて、白く浮いている。
一つ目の包みには、線が一本。
二つ目には、三本。
三つ目には、七本。
わたくしは全部の包みを並べて、線を数えた。
一本のものが二つ。三本が一つ。五本が三つ。七本が二つ。十一本。十四本。二十三本。二十九本。
規則が分からない。
増えていくのでもなければ、減っていくのでもない。多いものと少ないものが混ざっている。
日にちだろうか。三十一を越えるものはない。越えないが、それだけでは決められない。
量だろうか。何かを数えた回数だろうか。
分からなかった。
この人は分かっていたのだ。自分にだけ分かればよかったのだから、当たり前だ。
いちばん奥の、最後の一つを開いた。
中身が入っていなかった。
紙だけだった。
開くと、内側に、字があった。
インクではない。爪でもない。何か黒いもので――炭の欠片だろうか――押しつけるようにして書いてある。線が震えている。
たった一行だった。
わたしの名前を、だれか おぼえていますか
蝋燭の火が、揺れた。
わたくしはその紙を、両手で持っていた。持ったまま、しばらく動けなかった。
面通しの日のことを思い出していた。
礼拝堂の控えの間で、盆を持った娘が入ってきた。頬がこけて、手首が細くて、手が震えていた。
その人は、わたくしを見て、首を少し傾げて、こう訊いた。
あなた、名前は。
わたくしはレナ・ミューレンと名乗った。
あの人は何も言わなかった。うなずきもしなかった。ただ、聞いた言葉を口の中で転がすように、唇が動いた。
妙な人だと思った。任期のあいだは名を持たないのだから、訊いても仕方がないだろうに、と。
違った。
あの人は、わたくしの名を知りたかったのではない。
名前というものが、どういうものだったかを、確かめたかったのだ。
自分のものを思い出せなくなっていたから。
二年、誰にも呼ばれなければ、そうなる。
わたくしは三か月と少しで、ティナに一度呼ばれただけで、身体が振り向いた。
二年なら。
厨房へ行った。
ヨナスさんを起こした。仮眠を取っていたところを叩き起こして、それでも何も言わずについてきた。
途中でティナに会った。夜の見回りの途中だったらしい。ついてきた。
三人で、床の上に包みを並べた。
ヨナスさんは一つを取って、鼻に近づけた。
長いこと嗅いでいた。それから、置いた。
わたくしにはできないことだった。この人に嗅いでもらうしかない。
そう思ってから、自分がなぜヨナスさんを起こしに行ったのかが、少しだけ分かった。
「……分かんねえ」
ティナは膝をついて、紙を一枚ずつ見ていた。
「これ、なんの線ですか」
「分かりません」
「数えたんですか」
「数えました。規則がありません」
誰にも分からなかった。
ヨナスさんが、乾いた肉の欠片を指でつまんで、しばらく見ていた。
「これは」
声が掠れていた。
「これは、あの子が残したもんだ」
あの子、とヨナスさんは言った。
この人は、ミリアさんの名を呼ばなかった。二年、毎日この人の作ったものを食べていた娘なのに。
呼べなかったのだ。呼べば屋敷を出される。二十二年ここにいる人が、そんな危ないことをするはずがない。
三人とも、しばらく黙っていた。
わたくしは、包みを元に戻すことに決めた。捨てるという考えは、誰の口からも出なかった。
ティナが泣いていた。
なぜ泣いているのか、自分でも分かっていない顔をしていた。
板を戻して、釘を打ち直した。
寝台に横になって、天井の梁を見上げた。
ミリアさん。
わたくしは、あなたの名前を知っています。
あなたが訊いたとき、わたくしは自分の名を答えました。
あなたは、自分の名を訊きたかったのに。
その線が何の数なのかを、わたくしが知るのは、次の診察の日だった。




