第18話 食べないでいただきたい
雪が降っていた。
大食堂の窓は高いところにあって、そこから見えるのは空だけだ。灰色の中を、白いものが横に流れていく。峠は、もう閉じたと聞いた。
卓の上に、皿が八つ並んでいた。
ベルガーさんが両手をあらためながら、いつもの調子で告げた。
「本日より、八つでございます」
「はい」
「宗務院への報告が、追加されました」
「はい」
それだけだった。理由を訊く必要はない。閣下が今夜も先に召し上がれば、また一つ増える。
十一年前に八つになったことがある、とこの人は言った。儀の最中に席を立った代毒者がいて、そのとき五つが八つになったと。
その人がどうなったのかは、書く欄がないのだと言われた。
いま、わたくしの前に八つ並んでいる。
同じ数だ。
先生が八つの皿の上に手をかざしていく。
わたくしは、その手を見ていた。三か月と少し、毎晩見てきたはずのものを、今夜は見ていた。
指三本ぶんの高さ。掌がゆっくり動く。皿から皿へ。
所作に淀みがない。二十年ぶんの手つきだ。
八つ目で、顎が引かれた。
「結構です」
閣下が匙を取られた。わたくしより先に。
ベルガーさんが「閣下」と言う。閣下は四口目で置かれる。
わたくしは一皿目に手を伸ばした。
八つは、七つよりも一つ多いだけだ。
そう思って始めた。
一つ多いだけではなかった。
三十を数える回数が一度増える。飲み下す量が一皿ぶん増える。座っている時間が長くなる。長くなるほど、背中が汗で冷える。冷えた背中で最後の一皿を口に運ぶ。
五つのころは、終わりが見えていた。八つになると、半分を過ぎたところで、まだ四つある。四つは、始めからやり直すのと変わらない。
四つ目で、匙が持てなくなった。
柄が指の間で回る。押さえようとすると、押さえた感じがないので、力の加減が分からない。
持ち替えた。親指と小指で挟むようにして、掌全体で支える。子どもが匙を持つときのやり方だ。
顔を上げた。
閣下が、こちらを見ておられた。
目を逸らされなかった。
五つ目。塩漬けの魚を煮たもので、身が固い。噛み切るのに時間がかかる。飲み下すとき、喉の途中で止まった。
咳が出た。一度出ると、止まらない。
布で口を押さえて、背を丸めた。皿にかかっては、代毒がやり直しになる。
咳が収まったとき、大食堂が静かだった。
上座で、椅子が引かれる音がした。
顔を上げると、閣下が立っておられた。
「閣下」
ベルガーさんが言う。
閣下は座られなかった。
立ったまま、動かれなかった。手を上げるでも、何かを命じるでもない。ただ立って、こちらを見ておられる。
わたくしは六つ目に手を伸ばした。
見られながら食べるのは、初めてだった。
三か月と少し、あの方は目を逸らし続けてこられた。逸らすために、こちらを見ておられた。今夜は逸らさない。
匙を口へ運ぶ。飲み下す。三十を数える。指を確かめる。喉を確かめる。
その全部を見られている。
恥ずかしいのとは違った。恥ずかしいなら、隠したくなる。隠したいとは思わなかった。
ただ、手順の一つ一つが、急に意味を持って見えた。誰も見ていなければ、これはただの作業だ。見られていると、これは人が毒を飲んでいる場面になる。
七つ目。八つ目。
三十を、八度。二百四十まで数えるあいだ、閣下は立っておられた。座られなかった。
何も起きなかった。
「毒味、終わりましてございます」
ベルガーさんの声がして、そこで閣下が座られた。
ベルガーさんが下がった。給仕も続いた。
壁際の二人は残っている。残っている二人は、いないことになっている。
閣下が卓を回って、わたくしの卓の前まで来られた。
立ち上がろうとして、腿に力が入らなかった。二度に分けて立った。
閣下は、しばらく何も言われなかった。
わたくしも言わなかった。言うことがなかった。
それから、こうおっしゃった。
「──食べないでいただきたい」
言い終えて、閣下が止まられた。
わたくしも止まった。
大公が代毒者に敬語を使うことはない。身分が違いすぎる。使えば、聞いた者が居心地の悪い思いをする。ベルガーさんがこの場にいれば、たぶん咳払いをした。
言葉が、勝手に出たのだと分かった。
閣下は口を開いて、閉じて、それから小さく言い直された。
「食べるな、とは言えない。……言えないんだ」
わたくしは訊いた。
「なぜ、わたくしに敬語をお使いになったのですか」
長い間があった。
窓の外で、雪が横に流れている。
「分からない」
それから。
「だが、間違いだとは思わない」
閣下は卓の縁に手を置かれた。手袋の指が、木の上で少しだけ滑って、止まった。
わたくしのほうへ向けて置かれた手だった。届く距離ではない。届く距離にしていない。
それきり、何も言われなかった。
わたくしは一礼して、下がった。
回廊は冷えていた。
柱のあいだから、中庭が見える。雪が積もって、井戸の縁が丸くなっていた。
立ち止まって、自分の手を見た。
三か月と少し、この屋敷で、わたくしは「毒味」だった。
名で呼ばれず、目を合わされず、話しかけられず、それを当たり前として受け取ってきた。
名前を呼ばれたのは、ティナの間違いだった。あれは事故だ。事故だから、閣下は「聞こえなかった」ことにできた。
今夜のは、事故ではない。
あの方の中から出てきたものだ。
あの方は、間違いだとは思わないとおっしゃった。
敬語を使ったことを、間違いではないと。
わたくしを、名を持たない器としてではなく、敬語を向ける相手として見たということだ。
あの方はそれを、自分でも説明できないでいる。分からない、と言われた。分からないまま、間違いではないと言い切られた。
冷えた石に手をついて、そこで初めて気づいた。
わたくしは、生きたいと思っている。
三か月と少し、一度も思わなかったことだった。務めを終える日まで死なないと決めたのは、名を返してもらうためで、生きたいからではなかった。あれは約束であって、望みではない。
今は、違う。
そして、そう思った途端に、別のものが来た。
ミリアさんが死んだと聞いて、席が空いたと思った女だ。
その女が、生きたいと思っている。
思っていい人間だろうか。
答えは出なかった。
部屋に戻って、扉を閉めた。
寝る前の手順を踏んだ。指を折る。七本。舌を上顎に。水を一口。
何も起きない。
寝台に横になって、目を閉じた。
生きたい、と思った夜だった。
その夜、部屋の床板が、また鳴った。




