第17話 三人しかいない
厨房に、閣下が立っておられた。
わたくしは戸口で足を止めた。
鍋がかかっている。湯気が天井を白く曇らせている。その中に、外套も脱がずに、閣下が立っておられる。
ヨナスさんは竈の前で、手に持った木の匙をどうすればいいのか分からないという格好で固まっていた。
二十二年、この人はここで働いている。
主人がこの部屋に降りてきたことは、たぶん一度もない。
閣下がヨナスさんに何か訊いておられた。わたくしは膳の確認に来ただけだったが、下がるにも音が出る。壁際に寄って立った。
「膳が厨房を出てから、卓に着くまで」
閣下の声は低い。
「誰の手を通る」
ヨナスさんは匙を鍋の縁に置いた。木が鉄に当たる音がした。
「まず、俺だ」
太い指が一本立った。
「作って、皿に盛る。盛るのは俺だけだ。下働きには触らせん」
「次は」
「給仕が二人。ヴィムとマルタ。運ぶのはこの二人と決まってる」
指が二本になった。
「二人一組だ。廊下を通るあいだ、互いが見える。片方が皿に何かしたら、もう片方が見る」
「一人で運ぶことは」
「ない。二十二年、一度もない」
「厨房から大食堂までのあいだに、扉は」
「二つだ。廊下の扉と、大食堂の扉」
「立ち止まる場所は」
「ない。まっすぐだ。曲がるのは一度」
ヨナスさんは訊かれるままに答えていた。答えながら、自分が何を答えさせられているのかは分かっていないようだった。
わたくしにも分からなかった。分からないまま、指の数を追っていた。
閣下は動かれなかった。
ヨナスさんが、指を三本目に立てようとして、そこで止まった。
止まったまま、鍋のほうを見た。
「三人目がいる」
閣下がそう言われた。
ヨナスさんの喉が動いた。
「……先生だ」
湯気の音だけが続いた。
膳が並べられたあと、儀の前に、侍医が皿の上に手をかざす。宗務院の定めで、二十年欠かしたことがない。ベルガーさんがそう教えてくださった。
あの場面を、わたくしは三か月と少し、毎晩見てきた。
先生は皿に触れない。指三本ぶんの高さで、掌をゆっくり動かす。湯気の立ち方を見ておられるのだと思っていた。
あのあいだ、大食堂には給仕もベルガーさんもいる。
けれど、誰も皿を見ていない。見る必要がないからだ。検めているのだから、検められている。検めるのを検める者はいない。
そして、そのあいだだけ、膳は一人の手の下にある。
ヨナスさんが早口になった。それまで、この人が早口になるのを聞いたことがなかった。
「待ってくれ。先生に限って、そんなことはねえ」
「そうだな」
「あの人は、倒れた娘を毎度診てきた人だぞ。夜中でも起きる。俺が運び込んで、朝までついてたことも何度もある」
何度も。
「二十年だ。二十年、ずっとそうしてきた人だ」
「そうだな」
ヨナスさんが竈のほうを向いた。向いてから、また戻った。
「だいたい、なんで先生が。理由がねえ」
「そうだな」
「閣下。あんた、何を疑ってる」
閣下は答えられなかった。
閣下は、同じ言葉を二度使われた。
否定でも肯定でもなかった。
それから、こちらを向かれた。
「──聞いたな」
わたくしは壁際に立ったまま、答えた。
「はい」
沈黙があった。
「忘れろ」
言葉が短い。いつもの短さだった。
「……はい」
わたくしは頭を下げた。
下げた拍子に、閣下の顔が視界に入った。
あの方の顔が、歪んでいた。
怒っているのではなかった。誰かに怒っている顔は、もっと外へ向かう。あの方の歪み方は、内側へ向かっていた。忘れろと言うしかない自分に対して、何かを差し出しているような。
顔を上げたときには、もう元に戻っておられた。
閣下は厨房を出ていかれた。外套の裾が湯気を巻き上げて、それが収まるまで、誰も動かなかった。
二人になった。
ヨナスさんは鍋に向き直っていた。木の匙で底をこすっている。焦げつきを落とす音が、いつもより長く続いた。
わたくしは膳の確認を済ませて、出ようとした。
背中で声がした。
「俺は」
足を止めた。
「俺は、十七人ぶん、飯を作った」
振り向いた。
ヨナスさんはこちらを見ていない。鍋を見ている。
「十四人ぶん、葬式に出た」
湯気が上がっている。
十七人。この人が来てから、この屋敷に十七人の代毒者がいた。数が合う。わたくしが十七人目だ。
十四人ぶんの葬式。
十七人のうち、三人ぶんは出ていない。一人は、わたくしだ。まだ生きている。
残る二人は、務めを解かれて家へ帰った人だろう。先生は、書けないと書いたことがあると言った。名を返されて、帰られたと。
二人が帰り、十四人が帰らなかった。
「ヨナスさん」
「なんだ」
「前の方たちは、何で亡くなったのですか」
匙の音が止まった。
長かった。竈の火が、薪を割って音を立てた。
「分かんねえ」
背中が言った。
「だから、ずっと薄味にしてる」
それだけだった。
二十二年、この人にできたのはそれだけだったのだ。
毒が入っているかどうかは分からない。誰が入れているかも分からない。分からないから、せめて喉に優しいものを作る。作って、運ばせて、倒れた娘を廊下から抱えて運ぶ。
わたくしは頭を下げて、厨房を出た。
ヨナスさんは最後まで振り向かなかった。
戸口を出るとき、棚の献立記録が目に入った。二十二年ぶん。
あの帳面の右端の欄に、○と×が並んでいる。○の日は儀が行われた日で、×の日は行われなかった日だ。
十四人が帰らなかった。帰らなかった人たちの×も、あの中にある。
部屋に戻って、寝る前の手順を踏んだ。七本。舌。水。何も起きない。
寝台に腰を下ろした。
忘れろ、と言われた。
忘れられるものではない。
三人。
料理人と、給仕がふたり。
そして、わたくしを診てきた人。
三人のうち二人は、二十二年と、二十年、ここにいる。
残りの給仕二人は、互いを見ている。
閣下は「三人目がいる」とおっしゃった。おっしゃっただけで、それ以上は何も言われなかった。ヨナスさんが庇うのを、そうだなと二度受けただけだ。
わたくしは、そのうちのどなたも疑っていない。
ヨナスさんは、二十二年、薄味を作り続けた人だ。倒れたわたくしを二度運んだ。
ヴィムとマルタは、互いを見ている。マルタは、閣下が皿を下げろとおっしゃった夜に盆を持ったまま震えていた娘だ。
ただ、一つだけ引っかかっている。
わたくしは、その人の手から、いちばん多くを受け取ってきた。




