第16話 わたしは宗務院の者です
侍医室に呼ばれたのは、診察の日ではなかった。
入ると、先生は書き物机に向かっておられた。椅子を勧められない。それが初めてだった。いつもは長椅子に座らせて、脈を取ってから話し始める。
今日は、書きながら話し始めた。
「先日、廊下で名を呼ばれたそうですね」
羽根ペンの音が続いている。
わたくしは扉のそばに立ったまま、手を前で組んだ。
「……申し訳ありません」
「あなたが呼んだわけではないでしょう」
顔は上げられない。上げられないのは、先生のほうだ。
「閣下が聞こえなかったとおっしゃったのなら、なかったことです。宗務院は、大公の耳を疑いません」
それで終わりだった。咎めも、忠告もなかった。
書き終えたらしく、羽根ペンが置かれた。先生が椅子を回して、こちらを向かれた。
「わたしはね」
そこで一度、言葉を切られた。
「この儀が正しいとは、思っておりません」
わたくしは顔を上げた。
先生は膝の上で手を組んでおられた。爪が短い。関節に皺がない。二十年、この屋敷で膳の上に手をかざしてきた手だ。
「二百年前、三家の当主が同じ月に毒で死にました。国璽が割れて、七年、国が割れた。あれ以来、国璽を預かる家の当主の前には、一つの命を置くと定められた。理屈は分かります」
「はい」
「けれど、置かれるほうにも一つの命がある。それは勘定に入っておりません」
部屋の隅で、乾かした薬草の束が揺れた。窓の隙間から風が入っている。
「では、なぜ」
訊いてから、これも問いだったと気づいた。
「なぜ、続いているのか」
先生は引き取ってくださった。
「誰かが受けねばならないからです」
その言い方には、力みがなかった。
「毒を入れる者がいる限り、誰かが先に受けます。受ける者を置かねば、受けるのは当主です。当主が受ければ、国が割れる。──それが二百年前に起きたことです」
「では、代毒者は」
「必要です。残念ながら」
残念ながら、と先生は言った。
「決まりを変える力は、わたしにはありません。わたしにできるのは、あなたを診て、続けられるかどうかを書いて出すことだけです」
「書けない、とお書きになったことは」
訊いてしまった。
先生はしばらく黙っておられた。膝の上の手が、一度だけ組み直された。
「ございます」
「その方は」
「務めを解かれました。名を返されて、家へ帰られた」
息を吸った。そういう終わり方があるのだ。
「では、わたくしも」
「いずれ書きます」
先生は、こちらを見て言われた。
「まだ書けません。今のあなたは、続けられる。……わたしが早く書けば、次の方が早く来ます」
次の方。
わたくしが降りれば、十八人目が来る。
考えたことがなかった。この席から降りるということは、空けるということだ。空けば、誰かが埋める。名前を捨てて、三十を数えに来る誰かが。
「そういうものでございますか」
「そういうものです」
部屋を出るとき、棚が目に入った。
壁いっぱいの棚に、綴じ帳が年ごとに詰まっている。背表紙の墨が、古いものほど薄い。厨房の献立記録と同じ並び方だった。
いちばん端。
そこだけ、帳面ではなかった。
薄い紙の束が、紐で括ってある。変色して、縁が波打っている。
棚の上には埃が積もっていた。その束の上にだけ、積もっていなかった。
わたくしは扉を閉めた。
午後、薬を届けに書斎の前を通った。
扉が半分開いていて、中から声がした。
「──お止めください」
先生の声だった。
わたくしは足を止めた。止めてから、下がるべきだったと思ったが、下がる音のほうが目立つ。
「私の食卓だ」
「儀は、閣下のものではありません」
開いた扉の隙間から、二人が見えた。
閣下は窓の側に立っておられる。先生は扉のほうを向いて立っておられて、こちらが見えているはずだった。
目が合った。
先生は、話を続けられた。
わたくしがそこにいることは、この二人にとって、人が一人いることにはならない。壁際の燭台と同じだ。三か月と少しで、これには慣れた。慣れたつもりでいた。
薪割り台の裏で、下働きが閣下の噂をしていたときもそうだった。洗濯場の湯気の向こうで、侍女たちがわたくしのことを話していたときは、違った。あのときは声が止まった。
止まる相手と、止まらない相手がいる。
この二人は、止まらないほうだ。
「宗務院に報告が上がれば、監督官が参ります。冬のうちは来られません。峠が閉じておりますから。──春には来ます」
「来ればいい」
「来れば、儀は厳格になります。皿は増え、休みは減る」
先生は、そこで一つ間を置かれた。
「閣下が守ろうとしておられる方が、いちばん損をします」
閣下は何も言われなかった。
言えないのだと分かった。
皿はもう七つになっている。休みはもう月に一度になっている。先生の言っていることは、これから起きることではない。もう起きたことだ。
「わたしを罷免なさりたいのでしょう」
先生の声は、穏やかなままだった。
「できませんよ。わたしは宗務院の者です」
閣下は窓のほうを向かれた。
手袋をした手が、窓枠にかかった。それだけだった。
閣下は何も返されなかった。返す言葉がないというより、返しても意味がないと知っておられる沈黙だった。
わたくしは廊下を離れた。
薬包を持ったままだったことに、階段を降りてから気づいた。届けるつもりだったものを、届けそびれた。届けに行けば、また同じ扉の前に立つことになる。
部屋に戻って、薬包を卓に置いた。
先生のおっしゃったことは、全部正しかった。
儀は宗務院のものだ。監督官は春に来る。皿は増え、休みは減った。侍医は罷免できない。
一つも間違っていない。
閣下は、何ひとつ言い返せなかった。
寝台に腰を下ろした。
正しいことを言われただけだ。それなのに、扉の前に立っていたとき、腕の内側が冷たくなった。冬の廊下だからかもしれない。
なぜだろう、と考えた。
閣下が「私の食卓だ」とおっしゃったとき、先生は「儀は、閣下のものではありません」と返された。
その通りだ。儀は宗務院のものだ。
けれど、あの卓に座るのはわたくしで、皿を食べるのもわたくしで、倒れるのもわたくしだ。
誰のものでもない、とは誰も言わなかった。
考えるのをやめた。
先生は、わたくしを二十年ぶんの手つきで診てくださっている。倒れた夜に横にいてくださったのも、七日の休みをくださったのも、あの方だ。
この屋敷でいちばん偉い方が、勝てない人がいる。
それなら、わたくしを守れる人は、どこにもいない。




