↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
毒味役に、毒の味は分かりません ~倒れて初めて分かるのです。なのに閣下は、わたくしより先に召し上がる~  作者: ヲワ・おわり


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
15/30

第15話 私には聞こえなかった

 階段の途中で、息が上がった。


 三十段ある。使用人棟から表方へ上がる、幅の狭い石段だ。三か月と少し前は、何とも思わずに上がっていた。

 十八段目で足が止まった。手すりを掴む。掴んでいるかどうかは、掌の付け根の圧でしか分からない。


 しばらくそこにいた。


 誰も通らなかった。通っても、たぶん誰も足を止めない。壁に手をついている女がいれば、掃除の途中なのだろうと思うのが普通だ。


 息が整うのを待ちながら、自分の手を見た。

 甲の骨が浮いている。手首が、袖の中で余っている。着任した日に仕立て直した袖が、今は大きい。


 皿が七つになって、六日が過ぎていた。

 二百十まで数える晩が、六度続いた。数え終えるころには、いつも背中が汗で冷えている。冷えた背中のまま廊下を歩いて、部屋へ戻る。翌朝には戻っているつもりでいたものが、少しずつ戻らなくなっている。


 そして、考えてしまった。


 あの方が先に召し上がるのは、わたくしが、もう長くないからではないか。


 一度そう思うと、全部がそう見えた。

 秋の祝いの日に皿を下げさせようとされたのも。三晩続けて先に匙を取られたのも。逆だ、とおっしゃったのも。


 医者が匙を投げた者に、人は優しくする。

 優しくして、それきりだ。


 残りの十二段を上がった。



 夕方、大食堂の前の廊下で、ティナが追いついてきた。


「聞きましたよ、階段で休んでたって」

 息を切らしている。

「掃除のマルタさんが見たって。顔が真っ白だったって」

「大丈夫です」

「大丈夫じゃないですよ」


 ティナがわたくしの手を取った。両手で包んで、それから、離した。

「冷たい」

「冬でございますから」

「そういう冷たさじゃないです」


 この娘は、こういうときだけ鋭い。鋭いのではなく、遠慮がないだけかもしれない。


「今日は休んだほうがいいですよ。家令さまに、あたしが言ってきます」

「いけません」

「なんでですか」

「休みは月に一度と決まりました。今日使えば、次は来月になります」

「そんな」

「大丈夫です」


 ティナが両手を握りしめた。

「大丈夫って、何回目ですか」

「え」

「毒味さま、それしか言わないじゃないですか」


 言葉に詰まった。

 詰まったのを、ティナは間違えて受け取ったらしい。急に身を乗り出して、両手を胸の前で広げた。


「あの、あたし、心配してるんです。ほんとに。だって、」


 そこで、名前が出た。


「レナさん!」


 廊下の空気が、止まった。


 わたくしの身体が、勝手に動いた。

 振り向きかけた。首が、そちらへ回ろうとした。


 三か月と少し、誰も呼ばなかった音だ。忘れたつもりでいた。忘れていなかった。名簿に封じられていたのは紙のほうで、身体のほうには残っていた。


 振り向く前に、廊下の先が目に入った。


 閣下が立っておられた。

 その半歩後ろに、ベルガーさんがいた。



 ティナの顔から、色が引いた。何が起きたのかは分かっていない。空気が変わったことだけが分かる、という顔だった。


 ベルガーさんが進み出た。


「──今、何と」


 わたくしはティナの前に出た。


「聞き間違いでございます」

「聞こえました」

「わたくしには、何も」

「毒味」


 家令の声には、怒りがなかった。それが恐ろしかった。怒っている人は、怒りが収まれば止まる。この人は職務で言っている。職務は収まらない。


「代毒者を名で呼ぶことは、儀に対する不敬でございます。呼んだ者は宗務院に報告され、屋敷を出されます」


 ティナが小さく息を吸った。


 わたくしは口を開いた。開いたが、何も出てこなかった。

 庇う言葉は、わたくしの立場からは何一つ有効にならない。名を持たない者の証言は、記録に残らない。


 そのとき、声がした。


「私には聞こえなかった」


 閣下だった。


 ベルガーさんが硬直した。


「閣下」

「私には聞こえなかった」


 二度目は、少しだけ低かった。


 大公が聞こえなかったと言えば、それは起きなかったことになる。家令の耳より、主人の耳のほうが上に置かれる。そういう決まりがあるのではない。そういうものだというだけだ。


 ベルガーさんは、しばらく動かなかった。

 それから一礼して、退いた。退きぎわに、ティナのほうを一度だけ見た。ティナは震えていた。


 閣下は、こちらを見られなかった。

 そのまま、廊下を歩いていかれた。手袋をした手が、脇で軽く握られていた。



 ティナは、自分が何をしたのか分かっていなかった。

「あの、あたし、なんか」

「いいえ」

「家令さま、怖い顔してましたけど」

「走ったからでございましょう」

「あ。走ってました」

 ティナは自分の足元を見た。

「四回目です」

「お気をつけて」

「はい」


 安心した顔で、ティナは行った。

 次に誰かがこの娘に教えるだろう。上の侍女でも、下働きでもいい。誰かが、あれを言ってはいけないと教える。教えられたら、二度と呼ばなくなる。


 それでいい。

 この娘には、ここに残ってもらわなければ困る。


 わたくしは廊下に一人で立っていた。

 閣下が去っていかれたほうを見た。あの方は、一度もこちらを見られなかった。

 庇っていただいた。庇ったことを、こちらに知られたくないという庇い方だった。



 部屋に戻って、扉を閉めた。


 寝る前の手順を踏んだ。七本。舌。水。何も起きない。


 寝台に腰を下ろして、そこから長いこと動かなかった。


 名前を呼ばれた。


 呼ばれた瞬間、振り向こうとした。あれを止められなかった。止めようと思う前に、首が動いていた。

 まだ自分がレナだと思っていたのだと、そのとき知った。


 嬉しかった、という言葉は使いたくない。

 使えば、その次に来るものを認めなければならなくなる。


 わたくしは、ミリアさんが死んだと聞いて、席が空いたと思った女だ。

 人が一人死んで、それで家の利息が払えると思った。父に薬が買えると思った。あのとき胸に浮かんだのは、悼む言葉ではなく、勘定だった。


 その女が、名前を呼ばれて、身体を動かした。

 呼ばれたいと思っていたのだ。ずっと。


 床板を見た。


 膝をついて、板の上に手を置いた。

 押すと、下で軋む。今夜も鳴った。


 剥がせば、あの人が何を隠したのかが分かる。

 分かったところで、わたくしに何ができるだろう。名もない、証言もできない、三本の指が効かない女に。


 手を離した。


 寝台に横になって、目を閉じた。


 寝つけなかった。

 水を汲みに一度起きて、そのとき窓の外を見た。中庭の雪に、四角い光が落ちている。表方の二階、東の端。侍医室の窓だ。

 夜半に一度、明け方近くにもう一度、同じものを見た。


 その灯りは、朝まで消えなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。