第15話 私には聞こえなかった
階段の途中で、息が上がった。
三十段ある。使用人棟から表方へ上がる、幅の狭い石段だ。三か月と少し前は、何とも思わずに上がっていた。
十八段目で足が止まった。手すりを掴む。掴んでいるかどうかは、掌の付け根の圧でしか分からない。
しばらくそこにいた。
誰も通らなかった。通っても、たぶん誰も足を止めない。壁に手をついている女がいれば、掃除の途中なのだろうと思うのが普通だ。
息が整うのを待ちながら、自分の手を見た。
甲の骨が浮いている。手首が、袖の中で余っている。着任した日に仕立て直した袖が、今は大きい。
皿が七つになって、六日が過ぎていた。
二百十まで数える晩が、六度続いた。数え終えるころには、いつも背中が汗で冷えている。冷えた背中のまま廊下を歩いて、部屋へ戻る。翌朝には戻っているつもりでいたものが、少しずつ戻らなくなっている。
そして、考えてしまった。
あの方が先に召し上がるのは、わたくしが、もう長くないからではないか。
一度そう思うと、全部がそう見えた。
秋の祝いの日に皿を下げさせようとされたのも。三晩続けて先に匙を取られたのも。逆だ、とおっしゃったのも。
医者が匙を投げた者に、人は優しくする。
優しくして、それきりだ。
残りの十二段を上がった。
夕方、大食堂の前の廊下で、ティナが追いついてきた。
「聞きましたよ、階段で休んでたって」
息を切らしている。
「掃除のマルタさんが見たって。顔が真っ白だったって」
「大丈夫です」
「大丈夫じゃないですよ」
ティナがわたくしの手を取った。両手で包んで、それから、離した。
「冷たい」
「冬でございますから」
「そういう冷たさじゃないです」
この娘は、こういうときだけ鋭い。鋭いのではなく、遠慮がないだけかもしれない。
「今日は休んだほうがいいですよ。家令さまに、あたしが言ってきます」
「いけません」
「なんでですか」
「休みは月に一度と決まりました。今日使えば、次は来月になります」
「そんな」
「大丈夫です」
ティナが両手を握りしめた。
「大丈夫って、何回目ですか」
「え」
「毒味さま、それしか言わないじゃないですか」
言葉に詰まった。
詰まったのを、ティナは間違えて受け取ったらしい。急に身を乗り出して、両手を胸の前で広げた。
「あの、あたし、心配してるんです。ほんとに。だって、」
そこで、名前が出た。
「レナさん!」
廊下の空気が、止まった。
わたくしの身体が、勝手に動いた。
振り向きかけた。首が、そちらへ回ろうとした。
三か月と少し、誰も呼ばなかった音だ。忘れたつもりでいた。忘れていなかった。名簿に封じられていたのは紙のほうで、身体のほうには残っていた。
振り向く前に、廊下の先が目に入った。
閣下が立っておられた。
その半歩後ろに、ベルガーさんがいた。
ティナの顔から、色が引いた。何が起きたのかは分かっていない。空気が変わったことだけが分かる、という顔だった。
ベルガーさんが進み出た。
「──今、何と」
わたくしはティナの前に出た。
「聞き間違いでございます」
「聞こえました」
「わたくしには、何も」
「毒味」
家令の声には、怒りがなかった。それが恐ろしかった。怒っている人は、怒りが収まれば止まる。この人は職務で言っている。職務は収まらない。
「代毒者を名で呼ぶことは、儀に対する不敬でございます。呼んだ者は宗務院に報告され、屋敷を出されます」
ティナが小さく息を吸った。
わたくしは口を開いた。開いたが、何も出てこなかった。
庇う言葉は、わたくしの立場からは何一つ有効にならない。名を持たない者の証言は、記録に残らない。
そのとき、声がした。
「私には聞こえなかった」
閣下だった。
ベルガーさんが硬直した。
「閣下」
「私には聞こえなかった」
二度目は、少しだけ低かった。
大公が聞こえなかったと言えば、それは起きなかったことになる。家令の耳より、主人の耳のほうが上に置かれる。そういう決まりがあるのではない。そういうものだというだけだ。
ベルガーさんは、しばらく動かなかった。
それから一礼して、退いた。退きぎわに、ティナのほうを一度だけ見た。ティナは震えていた。
閣下は、こちらを見られなかった。
そのまま、廊下を歩いていかれた。手袋をした手が、脇で軽く握られていた。
ティナは、自分が何をしたのか分かっていなかった。
「あの、あたし、なんか」
「いいえ」
「家令さま、怖い顔してましたけど」
「走ったからでございましょう」
「あ。走ってました」
ティナは自分の足元を見た。
「四回目です」
「お気をつけて」
「はい」
安心した顔で、ティナは行った。
次に誰かがこの娘に教えるだろう。上の侍女でも、下働きでもいい。誰かが、あれを言ってはいけないと教える。教えられたら、二度と呼ばなくなる。
それでいい。
この娘には、ここに残ってもらわなければ困る。
わたくしは廊下に一人で立っていた。
閣下が去っていかれたほうを見た。あの方は、一度もこちらを見られなかった。
庇っていただいた。庇ったことを、こちらに知られたくないという庇い方だった。
部屋に戻って、扉を閉めた。
寝る前の手順を踏んだ。七本。舌。水。何も起きない。
寝台に腰を下ろして、そこから長いこと動かなかった。
名前を呼ばれた。
呼ばれた瞬間、振り向こうとした。あれを止められなかった。止めようと思う前に、首が動いていた。
まだ自分がレナだと思っていたのだと、そのとき知った。
嬉しかった、という言葉は使いたくない。
使えば、その次に来るものを認めなければならなくなる。
わたくしは、ミリアさんが死んだと聞いて、席が空いたと思った女だ。
人が一人死んで、それで家の利息が払えると思った。父に薬が買えると思った。あのとき胸に浮かんだのは、悼む言葉ではなく、勘定だった。
その女が、名前を呼ばれて、身体を動かした。
呼ばれたいと思っていたのだ。ずっと。
床板を見た。
膝をついて、板の上に手を置いた。
押すと、下で軋む。今夜も鳴った。
剥がせば、あの人が何を隠したのかが分かる。
分かったところで、わたくしに何ができるだろう。名もない、証言もできない、三本の指が効かない女に。
手を離した。
寝台に横になって、目を閉じた。
寝つけなかった。
水を汲みに一度起きて、そのとき窓の外を見た。中庭の雪に、四角い光が落ちている。表方の二階、東の端。侍医室の窓だ。
夜半に一度、明け方近くにもう一度、同じものを見た。
その灯りは、朝まで消えなかった。




