表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
「春の残像」  「好きじゃなくなった」は嘘だった。二十六年後、あなたの設計した式場に、私の花を飾る日が来るとは思わなかった  作者: かーすけ
秋 ──真実と決断の季節──

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

9/13

第九話 秋雨と、もう一度の問い

 十月の最初の週、秋雨が続いた。


 梅雨のように湿った雨ではなく、澄んだ冷たさを持った雨が、二日、三日と静かに降り続ける。

 神楽坂の石畳は雨に濡れると艶が出て、路地の灯りを水鏡のように映した。

 あかりは傘を差して花屋に来て、傘を差して帰る日が続いた。


 式場の工事は佳境を迎えていた。

 外壁の修復と内装の一次下地が終わり、いよいよ仕上げの段階に入っている。

 たまに現場の前を通ると、以前はひっそりと錆びていた鉄扉が撤去されて、新しい木製の扉枠が取り付けられているのが見えた。

 建物が変わっていく過程を、あかりは毎回少し立ち止まって見た。


 誠一と会うのは、先月の喫茶店で別れた真相の話以来、なかった。

 LINEのやり取りは、工事に関する確認程度に一度あっただけだ。

「現場、竣工は十二月末を予定しています。フラワーコーディネートの件は秋に改めて打ち合わせを」という誠一からの短い連絡に、あかりは「わかりました」と返した。

 それきりだった。


 あかりは、誠一が距離を置いているのだとわかっていた。

 真相を話したことで、何かが動いた。

 動いたことが、二人の間に少しの沈黙をもたらした。

 その沈黙を、あかりは責める気持ちではなく、むしろ必要なものとして受け取っていた。

 自分自身も、整理する時間が必要だった。


 十月の半ば、式場の内装視察のため、あかりは現場を訪れた。

 フラワーコーディネートの打ち合わせはまだ正式には始まっていないが、空間を実際に見てからでないと花の配置は考えられない。

 クライアント側の担当者から「作業前に一度見ておいてください」と言われていたのだ。


 工務店の担当者に鍵を受け取り、午後三時に式場の前に立った。

 扉を開けると、油の匂いと木の香りが混在していた。

 仕上げ前の職人の仕事の、生々しい素材の匂いだ。

 ちょうど職人たちが現場を離れている時間帯で、中は静かだった。

 あかりはゆっくりと中に入った。


 まず、エントランスに驚いた。

 天井が低かった。

 低いはずなのに、圧迫感がない。

 窓の位置が、正面ではなく少し斜めについていて、光が直接入ってこない。

 その分、光はどこかに当たって、はねて、室内に柔らかく広がっている——その回り道をする光の効果で、空間に奥行きが生まれていた。


 二歩進んで廊下を抜けると、式場の本体となる空間に出る。

 その瞬間、頭上が開けた。

 天井が高くなって、光が真下に差し込んでくる。

 さっきまでの低さとのギャップが、効果的だった。

 誠一が話していたことを思い出した。

「低く入って、扉を開けた瞬間に空間が広がる」。

 それがここに実現されている。

 設計図と建物のギャップが、建築の面白さで、面白さは欠点から生まれることが多い、と言っていた。


 本体の式場を見回しながら、あかりは花の配置を頭の中で組み立て始めた。

 照明はまだ仮のものしかついていないが、完成時の光量は聞いている。

 天井が高い分、生花は大ぶりのものが合う。

 エントランスには逆に小さな一輪挿しを点在させて、低い空間の密度を作る——。


「あかりさん」

 背後から声がした。

 振り返ると、誠一が立っていた。

 コートを着て、手帳を持って、誠一も視察に来ていたのだろう。

 あかりと同じように、誰かから連絡をもらってきた、と後でわかった。

 お互いの予定を伝えていなかったから、本当に偶然だった。


「工務店から今日って聞いてたけど」と誠一は言った。

「私もそう聞いた。同じ日だったんだね」

 二人は少し目を合わせてから、式場本体の空間を見渡した。

 外の秋雨が、高い窓を叩いている。


「どう?」と誠一が聞いた。

 デザインについての問いだとわかった。

「エントランスの光の使い方が好きだった。上から来るんじゃなくて、斜めから回り込んでくる感じ」

「うん。あそこ、しばらく悩んだ」

「花の話、聞かせたんだっけ。『後から気づく花』の話」

「覚えてくれてたの?」

「あなたのヒントで解けた問題は、覚えてる」

 誠一は照れたように天井を見た。


 二人はしばらく、式場の中を別々に見て歩いた。

 誠一はメモを取り、あかりは空間の比率を目で測った。

 雨が続いていた。


 端の方で、誠一が「あかり」と呼んだ。

 今日初めて、「さん」なしだった。

 あかりは振り返った。

「俺、まだ気持ちがある」

 誠一は静かな声で言った。

 あかりは体が強ばらなかった。

 驚かなかったわけではない。

 でも驚くより先に、その言葉がやはり来た、という感覚があった。

「知ってる」とあかりは言った。

 自分の声も落ち着いていた。

「それを言うべきかどうか、ずっと考えた。でも、あかりに真実を聞いた。だから俺も、正直でいたい」

「正直でいてくれた方が、楽だよ」


 間があった。

 雨の音だけが続いた。

「揺れてる」とあかりは言った。

「あなたのことが、揺れてる。隠すのも違うから、言う」

「うん」

「でも、私は、康介のそばにいなきゃいけない」

 言葉は、誠一への答えとして出てきた。

 でも言い終わったとき、あかりは自分がその言葉の重さに、改めて気づいた。

 いなきゃいけない、というのは義務じゃない。

 いたい、ということだ。


 自分でそれを確かめながら、言葉が出た。

 義務として言ったつもりはなかった。

 好きだから、がいる理由の中心にある。

 康介が弱っているときに自分がいなければ、という責任感も確かにあるが、それだけじゃない。

 あの人と一緒にいることを、選び続けている。

「わかった」と誠一は言った。


 反論も、説得もなかった。

「でも」も「しかし」もない、ただの「わかった」。

 その穏やかさがあかりの胸を刺した。

 怒ってほしかった、とは思わない。

 でも、こんなに静かに受け取られると、かえって苦しかった。

 二人はしばらく、同じ空間の中で立っていた。


 式場はまだ完成していない。

 仕上げ前の壁に、照明もない。

 でもその未完成さが、今の二人の間にある何かに似ていた——形はあるが、まだ最後の一層がない。


「花の打ち合わせ、また来月早めに入れましょう」とあかりは言い、先に動いた。

「うん」と誠一は言い、手帳にメモした。

 出口に向かいながら、誠一が「一つだけ聞いていい?」と言った。

「どうぞ」

「後悔してる?」

 あかりは一歩止まり、それから歩きながら答えた。

「後悔、というのとは違う。ただ、あなたが好きだった、それは今もそうだと思う。どう扱えばいいかわからないけど、本当のことだから消せない」

 誠一は何も言わなかった。

 言わなくていい、とあかりには伝わった。


 扉を開けて外に出ると、秋雨の中に神楽坂の路地が広がっていた。

 石畳が濡れて光っている。

 二人は別々の傘を差して、別々の方向へ歩いた。


 その夜、あかりは帰宅して台所に立った。

 冷蔵庫の中身を確認して、今夜は豆腐と鶏むね肉の淡泊なスープにしよう、と思った。

 康介の胃腸の負担を減らしたい。

 スープが煮えるのを待ちながら、ぼんやりしていると、リビングから物音がした。

 顔を出すと、康介がソファで目を閉じていた。

 仕事から帰ってきて、そのまま寝てしまったのだろう。スーツ姿のまま、背もたれに頭をもたせかけている。


 「康介」とあかりは呼んだ。

 目が開いた。少し間を置いてから、焦点が合う。

 「お帰り」と康介は言った。

 その声の温もりが——眠りの中から帰ってきたばかりの、少し掠れた声の温もりが——あかりの胸に刻まれた。

 もう答えは出ている。それをあかりは知っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ