第九話 秋雨と、もう一度の問い
十月の最初の週、秋雨が続いた。
梅雨のように湿った雨ではなく、澄んだ冷たさを持った雨が、二日、三日と静かに降り続ける。
神楽坂の石畳は雨に濡れると艶が出て、路地の灯りを水鏡のように映した。
あかりは傘を差して花屋に来て、傘を差して帰る日が続いた。
式場の工事は佳境を迎えていた。
外壁の修復と内装の一次下地が終わり、いよいよ仕上げの段階に入っている。
たまに現場の前を通ると、以前はひっそりと錆びていた鉄扉が撤去されて、新しい木製の扉枠が取り付けられているのが見えた。
建物が変わっていく過程を、あかりは毎回少し立ち止まって見た。
誠一と会うのは、先月の喫茶店で別れた真相の話以来、なかった。
LINEのやり取りは、工事に関する確認程度に一度あっただけだ。
「現場、竣工は十二月末を予定しています。フラワーコーディネートの件は秋に改めて打ち合わせを」という誠一からの短い連絡に、あかりは「わかりました」と返した。
それきりだった。
あかりは、誠一が距離を置いているのだとわかっていた。
真相を話したことで、何かが動いた。
動いたことが、二人の間に少しの沈黙をもたらした。
その沈黙を、あかりは責める気持ちではなく、むしろ必要なものとして受け取っていた。
自分自身も、整理する時間が必要だった。
十月の半ば、式場の内装視察のため、あかりは現場を訪れた。
フラワーコーディネートの打ち合わせはまだ正式には始まっていないが、空間を実際に見てからでないと花の配置は考えられない。
クライアント側の担当者から「作業前に一度見ておいてください」と言われていたのだ。
工務店の担当者に鍵を受け取り、午後三時に式場の前に立った。
扉を開けると、油の匂いと木の香りが混在していた。
仕上げ前の職人の仕事の、生々しい素材の匂いだ。
ちょうど職人たちが現場を離れている時間帯で、中は静かだった。
あかりはゆっくりと中に入った。
まず、エントランスに驚いた。
天井が低かった。
低いはずなのに、圧迫感がない。
窓の位置が、正面ではなく少し斜めについていて、光が直接入ってこない。
その分、光はどこかに当たって、はねて、室内に柔らかく広がっている——その回り道をする光の効果で、空間に奥行きが生まれていた。
二歩進んで廊下を抜けると、式場の本体となる空間に出る。
その瞬間、頭上が開けた。
天井が高くなって、光が真下に差し込んでくる。
さっきまでの低さとのギャップが、効果的だった。
誠一が話していたことを思い出した。
「低く入って、扉を開けた瞬間に空間が広がる」。
それがここに実現されている。
設計図と建物のギャップが、建築の面白さで、面白さは欠点から生まれることが多い、と言っていた。
本体の式場を見回しながら、あかりは花の配置を頭の中で組み立て始めた。
照明はまだ仮のものしかついていないが、完成時の光量は聞いている。
天井が高い分、生花は大ぶりのものが合う。
エントランスには逆に小さな一輪挿しを点在させて、低い空間の密度を作る——。
「あかりさん」
背後から声がした。
振り返ると、誠一が立っていた。
コートを着て、手帳を持って、誠一も視察に来ていたのだろう。
あかりと同じように、誰かから連絡をもらってきた、と後でわかった。
お互いの予定を伝えていなかったから、本当に偶然だった。
「工務店から今日って聞いてたけど」と誠一は言った。
「私もそう聞いた。同じ日だったんだね」
二人は少し目を合わせてから、式場本体の空間を見渡した。
外の秋雨が、高い窓を叩いている。
「どう?」と誠一が聞いた。
デザインについての問いだとわかった。
「エントランスの光の使い方が好きだった。上から来るんじゃなくて、斜めから回り込んでくる感じ」
「うん。あそこ、しばらく悩んだ」
「花の話、聞かせたんだっけ。『後から気づく花』の話」
「覚えてくれてたの?」
「あなたのヒントで解けた問題は、覚えてる」
誠一は照れたように天井を見た。
二人はしばらく、式場の中を別々に見て歩いた。
誠一はメモを取り、あかりは空間の比率を目で測った。
雨が続いていた。
端の方で、誠一が「あかり」と呼んだ。
今日初めて、「さん」なしだった。
あかりは振り返った。
「俺、まだ気持ちがある」
誠一は静かな声で言った。
あかりは体が強ばらなかった。
驚かなかったわけではない。
でも驚くより先に、その言葉がやはり来た、という感覚があった。
「知ってる」とあかりは言った。
自分の声も落ち着いていた。
「それを言うべきかどうか、ずっと考えた。でも、あかりに真実を聞いた。だから俺も、正直でいたい」
「正直でいてくれた方が、楽だよ」
間があった。
雨の音だけが続いた。
「揺れてる」とあかりは言った。
「あなたのことが、揺れてる。隠すのも違うから、言う」
「うん」
「でも、私は、康介のそばにいなきゃいけない」
言葉は、誠一への答えとして出てきた。
でも言い終わったとき、あかりは自分がその言葉の重さに、改めて気づいた。
いなきゃいけない、というのは義務じゃない。
いたい、ということだ。
自分でそれを確かめながら、言葉が出た。
義務として言ったつもりはなかった。
好きだから、がいる理由の中心にある。
康介が弱っているときに自分がいなければ、という責任感も確かにあるが、それだけじゃない。
あの人と一緒にいることを、選び続けている。
「わかった」と誠一は言った。
反論も、説得もなかった。
「でも」も「しかし」もない、ただの「わかった」。
その穏やかさがあかりの胸を刺した。
怒ってほしかった、とは思わない。
でも、こんなに静かに受け取られると、かえって苦しかった。
二人はしばらく、同じ空間の中で立っていた。
式場はまだ完成していない。
仕上げ前の壁に、照明もない。
でもその未完成さが、今の二人の間にある何かに似ていた——形はあるが、まだ最後の一層がない。
「花の打ち合わせ、また来月早めに入れましょう」とあかりは言い、先に動いた。
「うん」と誠一は言い、手帳にメモした。
出口に向かいながら、誠一が「一つだけ聞いていい?」と言った。
「どうぞ」
「後悔してる?」
あかりは一歩止まり、それから歩きながら答えた。
「後悔、というのとは違う。ただ、あなたが好きだった、それは今もそうだと思う。どう扱えばいいかわからないけど、本当のことだから消せない」
誠一は何も言わなかった。
言わなくていい、とあかりには伝わった。
扉を開けて外に出ると、秋雨の中に神楽坂の路地が広がっていた。
石畳が濡れて光っている。
二人は別々の傘を差して、別々の方向へ歩いた。
その夜、あかりは帰宅して台所に立った。
冷蔵庫の中身を確認して、今夜は豆腐と鶏むね肉の淡泊なスープにしよう、と思った。
康介の胃腸の負担を減らしたい。
スープが煮えるのを待ちながら、ぼんやりしていると、リビングから物音がした。
顔を出すと、康介がソファで目を閉じていた。
仕事から帰ってきて、そのまま寝てしまったのだろう。スーツ姿のまま、背もたれに頭をもたせかけている。
「康介」とあかりは呼んだ。
目が開いた。少し間を置いてから、焦点が合う。
「お帰り」と康介は言った。
その声の温もりが——眠りの中から帰ってきたばかりの、少し掠れた声の温もりが——あかりの胸に刻まれた。
もう答えは出ている。それをあかりは知っていた。




