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「春の残像」  「好きじゃなくなった」は嘘だった。二十六年後、あなたの設計した式場に、私の花を飾る日が来るとは思わなかった  作者: かーすけ
秋 ──真実と決断の季節──

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第十話 式場に咲かせる花を決めた日

 十一月に入ると、神楽坂の路地にも冬の予感が漂い始めた。


 石畳の表面に朝霜が張る日があって、昼を過ぎてもなかなか溶けない。

 あかりは店に出るとき、コートの下にもう一枚重ねて着るようになった。

 花の仕入れも少しずつ変わっていく。

 夏から秋にかけての花が引き、代わりに球根ものや、ゆっくりと育つ温室の花が増える。

 季節が変わるたびに仕入れの顔が変わる——それがこの仕事の、時間の記録のしかただとあかりは思っている。


 フラワーコーディネートの打ち合わせは、十一月の第一週に設定された。

 クライアントの担当者と、式場の運営会社の担当者、それに誠一と、あかりの四人での会議だった。

 神楽坂ヴィラ・セルジュのエントランスから式場本体まで、どのような花をどのように配置するか、という具体的な話を進める。

 会議室として使われているのは式場の二階の一室で、工事は完了しているが、まだ什器が入っていないためテーブルと椅子だけが置かれていた。


 誠一は建築家として設計上の意図を説明し、あかりはフラワーデザイナーとして空間ごとの提案を述べた。

 二人の言葉は、打ち合わせという場の中で、プロフェッショナルの言葉として交わされた。

「エントランスの天井高が低い分、ここでは上に伸びる花は使わない方がいいと思っています。横に広がる配置か、あるいは小さな花を点在させる形で、空間の密度を出したい」とあかりは言った。

「それは当初の設計意図と一致しています」と誠一は言い、図面上の位置を指した。

「光が入ってくる角度と、花の色の関係は、考慮しましたか」

「しました。あの光は午後は斜め西から来ますよね」

「そうです。午前中は北側からの拡散光も入ります」

「だとすると、白は使いすぎると飽和しやすい。クリーム系か、薄いグリーンを混ぜた方が空間に溶けやすい」


 クライアントと運営担当者は、二人の言葉を聞きながら頷いた。

 二人の会話が、仕事として噛み合っていることに満足しているようだった。

 打ち合わせは一時間ほどで大枠が決まった。

 あかりは具体的な植物の種類と配置図の素案を翌週までに提出することを約束した。

 クライアント側が先に席を立ち、式場のほかの部屋を確認しに行った。

 会議室に誠一とあかりの二人だけが残った。


 テーブルの上に、広げた図面が残っている。

 誠一がそれを丁寧に折り畳みながら、「ありがとう」と言った。

 仕事の礼だ。

 あかりも「こちらこそ」と答えた。

 少し間があった。

「配置図の素案、共有してもらえると助かります。照明との最終調整が残っているので」と誠一が言った。

「わかった。来週中に送る」

「よろしく」

 また間があった。

 窓の外は曇っていた。

 十一月の日は短くて、午後四時を過ぎると薄暗くなる。


「私ね」とあかりが言い、誠一は顔を上げた。

「答えが出た」

 声は静かだった。

 静かすぎるくらい平坦に出てきたので、誠一は一瞬、何の答えかを測った。

 でもすぐにわかった。

 誠一は何も聞かなかった。

「うん」とだけ言った。

 あかりの目を見た。

 あかりも誠一を見た。

 涙がある、というわけではなかった。

 だからといって感情がないわけでもなく、ただ澄んでいる、という感じだった。

 あかりの目が澄んでいて、その澄み方の中に、一つの決断の重さが静かに溶けていた。

「うん」と誠一がもう一度言った。

 一語で十分だった。

 この「うん」が、別れの言葉だと、二人にはわかっていた。

 どちらが先に席を立つか、という問いは出なかった。

 自然に、誠一が図面をバッグに入れて立ち上がり、あかりもノートを閉じた。


 出口で、誠一がドアを開けてあかりを通した。

 廊下に出て、一階に降りる。

 式場の中は、照明の最終調整がまだで、薄暗い場所と明るい場所が混在していた。

「花の配置図、楽しみにしてる」と誠一は言った。

「いい花を選ぶ」とあかりは言った。

 玄関で分かれた。

 あかりは路地を花屋に向かって歩いた。

 後ろを振り返らなかった。

 振り返ることが、今は自分にとって正しくない、とわかっていたから。


 その夜、花屋で一人、あかりはカウンターに肘をついて考えた。

 答えが出た、と言ったとき、誠一の口から出てきたのは「うん」だけだった。

 その「うん」が悲しかったかというと、正確には違う。

「うん」は受け取った、という言葉だった。

 押しつかえるでも論理で押し返すでもなく、ただ受け取った。

 それが誠一だ、とあかりは思った。

 あの人はいつも、こちらが思ったより深いところで受け取る。

 答えが出た、というのは簡単な言葉に見えるが、あかりにとっては夏から秋にかけての時間が全部、その言葉の中に入っていた。


 康介のそばにいる。

 それは誠一への気持ちがないということではない。

 あかりには正直に言えた——「揺れてる」と言ったのは本当だ。

 でも揺れながらも、どちらが自分の「ここ」なのかは、ずっとわかっていた。

 ただ認めるのに、時間がかかった。

 認めてしまうと、誠一への気持ちを手放すことになる。

 手放すことへの、惜しみが、あった。

 二十六年間、胸の奥の底に眠らせておいた感情が、また動き始めた。

 それを今度こそ眠らせるのは——一度目よりもっと、静かで、深い別れだ。

 でもそれが、あかりの選択だった。

 自分で選んだ、という確かさだけが今夜の力だった。


 冬が来た。

 式場の完成まで、あと二ヶ月。

 花の配置図を作りながら、あかりは一種類ずつ花の意味を考えた。

 エントランスには、控えめで清潔なアネモネを使う。

 廊下には小さなラナンキュラスを点在させる。

 式場の本体には、スカビオサ——そう、あの花を主役にしようと思った。

 「私はすべてを失った」という花言葉。

 でもそれだけではない。

 清楚な乙女、風情、そして「感謝」という意味も、スカビオサは持っている。

 失ったものと、感謝できるものを、同じ花が持っている。

 あかりは、それがいいと思った。

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