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「春の残像」  「好きじゃなくなった」は嘘だった。二十六年後、あなたの設計した式場に、私の花を飾る日が来るとは思わなかった  作者: かーすけ
冬 ──それぞれの人生へ──

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11/13

第十一話 竣工の朝

 十二月の末、神楽坂ヴィラ・セルジュが完成した。


 竣工の前日、誠一は一人で建物の中を最終確認して回った。

 職人がすべて引き揚げた後の建物は、特有の静けさの中にある。

 壁も床も天井も、仕上がって初めて、ひとつの空間として息をし始める——その最初の呼吸を、誠一はいつも一人で聞きたいと思っていた。


 エントランスに入ると、光が斜め上から回り込んできた。

 計算通りだったが、計算通り以上のものがあった。

 実際の光は、図面の上のそれより複雑で、予期しない反射が壁の一角に生まれていた。

 悪くない、むしろいい。

 こういう誤差を、誠一は「建物からの返答」と呼んでいた。

 設計者の意図に対して、建物が独自に答えを出す瞬間がある。


 廊下を進み、式場本体の空間に出た。

 天井から光が落ちてくる。

 照明の最終調整が終わって、昼の自然光と夜の照明が切り替わる設定になっている。

 今夜の時間では、柔らかい人工光が中心だった。

 部屋の中を一周しながら、誠一は壁を手で触れた。

 左官仕上げの、わずかに質感のある壁。

 その一番奥、エントランスに向かって右手の壁が柱と接する部分——そこに誠一は、工事の最終段階で密かに細工をしていた。

 外部の目にはほとんど触れない位置に、小さな花のレリーフを彫り込んだ。


 スカビオサの花を象ったそれは、主張する大きさではなく、知っている人間だけが気づけるような控えめなものだ。

 誰に言うつもりもなかった。

 施工業者には「装飾の一部」として承認をもらっていた。

 誰かが気づくかどうかも、どうでもよかった。

 ただ、そこに入れたかった。

 翌日、内覧会に来るあかりが気づくかどうか。

 気づかなくていい、と誠一は思っていた。

 でも気づいてほしい、とも思っていた。

 その両方が同時にあって、どちらが本当かわからないまま、誠一は部屋の灯りを消して建物を出た。


 内覧会の日は、快晴だった。

 十二月末の冷たい晴れで、空気が澄んでいた。

 クライアント、運営会社のスタッフ、設計事務所、施工業者それぞれの関係者が集まって、竣工を祝う内覧会が午前から行われた。


 あかりは午前十時に花屋を出て、スタッフと一緒に花の搬入を行った。

 昨夜のうちに仕込んであった花を車で運んで、各所に配置する。

 エントランスのアネモネ、廊下のラナンキュラス、式場本体のスカビオサとユーカリ。

 一つずつ配置するたびに、空間との対話があった。

 あかりは、誠一の設計した空間が花を活かす空間であることを、この日実感した。


 光の角度が計算されている。

 壁の色が花を浮き上がらせる。

 天井の高さが花を小さく見せすぎず、大きく主張させすぎない。

 空間と花が話しているようだった。

 正午過ぎに、招待客の内覧が始まった。


 誠一は建築家として、設計意図の説明をしながら空間を案内していた。

 あかりは花の担当として、来賓から花の選定について聞かれたり、配置の意図を説明したりした。

 広い式場の中で、誠一とは何度もすれ違った。

 仕事として話す言葉もあった。

「スカビオサの配置、いいですね」と誠一が言い、あかりは「ありがとうございます」と返した。

 お互いに他の人の目がある。

 その状況で交わされる言葉は必然的に短くなる。

 でも短い言葉の中に、何かは含まれていた。


 内覧会の終盤、あかりは一人でエントランスの花を確認した。

 アネモネの一本が傾いていたので、位置を直した。

 それから、空間を作った人のことを考えながら、壁を少し見た。

 レリーフに気づいたのは、何となく視線が行った、としか言いようがない瞬間だった。

 壁と柱の接する部分。

 低い位置に、控えめな花の彫刻があった。

 しゃがんで近くで見た。

 スカビオサだ、とすぐにわかった。

 あかりは動かなかった。

 しゃがんだまま、花のレリーフを見た。


 誰が見ても気づかない場所に、誰よりも知っている花を、誰にも言わずに入れたのだろう、と思った。

 誠一らしい、とも思った。

 声に出して言うのではなく、建物の中に黙って入れてしまう。

 言葉の代わりに建築で何かを言う。

 その花のレリーフの前で、あかりはしばらく動かなかった。

 誰かが近くを歩く気配がして、あかりは立ち上がった。

 それだけだった。

 確認でも、確かめでもなく、ただ知った。


 内覧会が終わり、後片付けと挨拶が一段落した頃、誠一は式場の玄関前に立っていた。

 建物を見上げると、外壁が冬の光を受けて白く見えた。

 半年かけて作ったものが、ここで一つの形になった。

 達成感、というものをいつも誠一は遅れて受け取る。

 終わった日は実感がなくて、数日後に突然「できた」という感覚が来る。

 あかりが玄関から出てきた。

 コートを羽織って、肩にバッグをかけていた。

 スタッフが後片付けをしている間、一足先に出てきたのだろう。

「素敵な式場になったね」とあかりが言った。

「あなたの花のおかげだよ」と誠一は言った。

 短い言葉だった。

 でも今日の二人の間には、それで十分だった。

 あかりが少し笑って、「またがんばって」と言い、スタッフの方へ戻っていった。

 誠一は建物を見上げた。


 レリーフに気づいていた、と思った。

 しゃがんでいた姿を、廊下の奥から遠目に見ていた。

 でも何も言わなかった。

 それが正しかった。

 気づいたことを言葉にしてしまうと、誠一が伝えたかった何かが、急に軽くなってしまう気がした。

 知っていてくれればいい。

 それだけで十分だった。


 玄関を出ると、空から何かがゆっくりと落ちてきた。

 雪だ、と気づいたのは、石畳に白いものが増え始めてからだった。

 神楽坂の師走に、初雪が舞っていた。

 あかりは空を見上げてから、スマートフォンを取り出した。

 ロック画面に「康介」と出ていた。

 着信だ。「もうすぐ帰る」とメッセージを打ち返して、バッグに仕舞った。


 誠一は石畳の上で初雪が積もり始めるのを見ながら、翌日に控えた翔太の大学受験のことを考えた。

 第一志望の受験日まで、あと一ヶ月ある。 

 翔太が昨夜、教科書を閉じて「なんかやりきった気がする」と言っていた。

 その顔が、大人に近づいていた。

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