第十一話 竣工の朝
十二月の末、神楽坂ヴィラ・セルジュが完成した。
竣工の前日、誠一は一人で建物の中を最終確認して回った。
職人がすべて引き揚げた後の建物は、特有の静けさの中にある。
壁も床も天井も、仕上がって初めて、ひとつの空間として息をし始める——その最初の呼吸を、誠一はいつも一人で聞きたいと思っていた。
エントランスに入ると、光が斜め上から回り込んできた。
計算通りだったが、計算通り以上のものがあった。
実際の光は、図面の上のそれより複雑で、予期しない反射が壁の一角に生まれていた。
悪くない、むしろいい。
こういう誤差を、誠一は「建物からの返答」と呼んでいた。
設計者の意図に対して、建物が独自に答えを出す瞬間がある。
廊下を進み、式場本体の空間に出た。
天井から光が落ちてくる。
照明の最終調整が終わって、昼の自然光と夜の照明が切り替わる設定になっている。
今夜の時間では、柔らかい人工光が中心だった。
部屋の中を一周しながら、誠一は壁を手で触れた。
左官仕上げの、わずかに質感のある壁。
その一番奥、エントランスに向かって右手の壁が柱と接する部分——そこに誠一は、工事の最終段階で密かに細工をしていた。
外部の目にはほとんど触れない位置に、小さな花のレリーフを彫り込んだ。
スカビオサの花を象ったそれは、主張する大きさではなく、知っている人間だけが気づけるような控えめなものだ。
誰に言うつもりもなかった。
施工業者には「装飾の一部」として承認をもらっていた。
誰かが気づくかどうかも、どうでもよかった。
ただ、そこに入れたかった。
翌日、内覧会に来るあかりが気づくかどうか。
気づかなくていい、と誠一は思っていた。
でも気づいてほしい、とも思っていた。
その両方が同時にあって、どちらが本当かわからないまま、誠一は部屋の灯りを消して建物を出た。
内覧会の日は、快晴だった。
十二月末の冷たい晴れで、空気が澄んでいた。
クライアント、運営会社のスタッフ、設計事務所、施工業者それぞれの関係者が集まって、竣工を祝う内覧会が午前から行われた。
あかりは午前十時に花屋を出て、スタッフと一緒に花の搬入を行った。
昨夜のうちに仕込んであった花を車で運んで、各所に配置する。
エントランスのアネモネ、廊下のラナンキュラス、式場本体のスカビオサとユーカリ。
一つずつ配置するたびに、空間との対話があった。
あかりは、誠一の設計した空間が花を活かす空間であることを、この日実感した。
光の角度が計算されている。
壁の色が花を浮き上がらせる。
天井の高さが花を小さく見せすぎず、大きく主張させすぎない。
空間と花が話しているようだった。
正午過ぎに、招待客の内覧が始まった。
誠一は建築家として、設計意図の説明をしながら空間を案内していた。
あかりは花の担当として、来賓から花の選定について聞かれたり、配置の意図を説明したりした。
広い式場の中で、誠一とは何度もすれ違った。
仕事として話す言葉もあった。
「スカビオサの配置、いいですね」と誠一が言い、あかりは「ありがとうございます」と返した。
お互いに他の人の目がある。
その状況で交わされる言葉は必然的に短くなる。
でも短い言葉の中に、何かは含まれていた。
内覧会の終盤、あかりは一人でエントランスの花を確認した。
アネモネの一本が傾いていたので、位置を直した。
それから、空間を作った人のことを考えながら、壁を少し見た。
レリーフに気づいたのは、何となく視線が行った、としか言いようがない瞬間だった。
壁と柱の接する部分。
低い位置に、控えめな花の彫刻があった。
しゃがんで近くで見た。
スカビオサだ、とすぐにわかった。
あかりは動かなかった。
しゃがんだまま、花のレリーフを見た。
誰が見ても気づかない場所に、誰よりも知っている花を、誰にも言わずに入れたのだろう、と思った。
誠一らしい、とも思った。
声に出して言うのではなく、建物の中に黙って入れてしまう。
言葉の代わりに建築で何かを言う。
その花のレリーフの前で、あかりはしばらく動かなかった。
誰かが近くを歩く気配がして、あかりは立ち上がった。
それだけだった。
確認でも、確かめでもなく、ただ知った。
内覧会が終わり、後片付けと挨拶が一段落した頃、誠一は式場の玄関前に立っていた。
建物を見上げると、外壁が冬の光を受けて白く見えた。
半年かけて作ったものが、ここで一つの形になった。
達成感、というものをいつも誠一は遅れて受け取る。
終わった日は実感がなくて、数日後に突然「できた」という感覚が来る。
あかりが玄関から出てきた。
コートを羽織って、肩にバッグをかけていた。
スタッフが後片付けをしている間、一足先に出てきたのだろう。
「素敵な式場になったね」とあかりが言った。
「あなたの花のおかげだよ」と誠一は言った。
短い言葉だった。
でも今日の二人の間には、それで十分だった。
あかりが少し笑って、「またがんばって」と言い、スタッフの方へ戻っていった。
誠一は建物を見上げた。
レリーフに気づいていた、と思った。
しゃがんでいた姿を、廊下の奥から遠目に見ていた。
でも何も言わなかった。
それが正しかった。
気づいたことを言葉にしてしまうと、誠一が伝えたかった何かが、急に軽くなってしまう気がした。
知っていてくれればいい。
それだけで十分だった。
玄関を出ると、空から何かがゆっくりと落ちてきた。
雪だ、と気づいたのは、石畳に白いものが増え始めてからだった。
神楽坂の師走に、初雪が舞っていた。
あかりは空を見上げてから、スマートフォンを取り出した。
ロック画面に「康介」と出ていた。
着信だ。「もうすぐ帰る」とメッセージを打ち返して、バッグに仕舞った。
誠一は石畳の上で初雪が積もり始めるのを見ながら、翌日に控えた翔太の大学受験のことを考えた。
第一志望の受験日まで、あと一ヶ月ある。
翔太が昨夜、教科書を閉じて「なんかやりきった気がする」と言っていた。
その顔が、大人に近づいていた。




