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「春の残像」  「好きじゃなくなった」は嘘だった。二十六年後、あなたの設計した式場に、私の花を飾る日が来るとは思わなかった  作者: かーすけ
冬 ──それぞれの人生へ──

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第十二話 それぞれの朝に

 一月の第三週の土曜日、翔太の第一志望の受験日がきた。


 試験会場は東京の都心の大学で、朝八時半までに集合とある。

 誠一は六時に起きて、台所で湯を沸かした。

 久美子はすでに起きていて、翔太の弁当を作っていた。


 翔太が六時半に起きてきた。

 顔つきが引き締まっていた。

 高校三年間のうちで、今日が一番大人に見えた。


「食べろよ」と誠一は言い、トーストを一枚皿に置いた。

「うん」と翔太は言い、黙々と食べた。

 駅まで送っていくことにした。

 誠一と翔太の二人で歩いた。

 久美子は「行ってらっしゃい、落ち着いてね」と玄関で送り出した。

 冬の朝の空気は冷たく、吐く白い息がまっすぐ上に上がった。


 駅まで十分ほどの道を、二人は黙って歩いた。

 誠一は何を言うか、前日から少し考えていた。

 頑張れ、とは言わないと決めていた。

 もうじゅうぶん頑張ってきたのを、隣で見ていた。


「翔太」と駅の入口の手前で誠一は言った。

 翔太が振り返った。

「自分を信じろ。それだけだ」

 翔太は少し間を置いて、それからこくりと頷いた。「うん」と言い、改札に向かった。

 誠一は改札の手前で足を止めた。

 翔太が振り返らずに電車の方へ歩いていく後ろ姿を、しばらく見ていた。

 背中だけを見ていると、大学時代の自分に少し似ている気がした。

 体格ではなく、歩き方の雰囲気が。あのころの自分も、ああいうふうに前だけを見て歩いていたかもしれない。

 改札を抜けることなく、誠一は踵を返して朝の道を歩いた。


 同じ朝、文京区のマンションでは、あかりが台所に立っていた。

 康介の朝食は、白粥と梅干しと、薄く切った竹輪の煮浸し。

 胃腸に負担のかからないものを基本にするようになって、そろそろ二ヶ月になる。

 康介は「大げさだよ」と言うが、主治医に食生活の改善を言われているのはあかりも聞いていた。

 患者の家族として、できることをする。


 康介が台所に現れたのは、七時を少し過ぎたころだった。

「いい匂い」と康介は言い、椅子に座った。

「白粥?」

「梅と竹輪も足した」

「豪勢だな」

「そうでもないよ」

 向かいに座って、二人で朝食をとった。


 康介は粥を一口食べてから「最近、あかり元気そうだね」と言った。

 あかりは箸を止めた。

「元気?」

「なんか、落ち着いてる気がする。前より」と康介は言い、またゆっくりと食べた。

「俺が病気の話した後、あかりの方が参りかけてたから、心配してたんだよ。でも最近は、ちゃんと地に足ついてる感じがして」

 あかりは粥の碗を両手で包んだ。

 温かかった。

「そんなに元気そうに見える?」

「うん。なんか、自分の場所が見えてる顔してる」

 

 康介らしい言い方だ、とあかりは思った。

 診断名をつけるのではなく、状態を言葉で描く。

 そういう言い方をする人だ。

「あかりが元気そうにしてると、俺も嬉しい」と康介は言い、梅干しをほぐした。

「それだけで、回復する気がするからな」

 あかりは笑った。

 少し鼻の奥に来るものがあったが、笑って受け取った。

「大げさ」

「本当のことだよ」

 康介は真面目な顔で言い、粥を食べ続けた。

 あかりは窓の外を見た。

 一月の朝は青白く明るい。

 鳥が一羽、電線に止まって、また飛び立った。


 自分の場所が見えてる顔。


 康介が言った言葉が、胸の中で転がっていた。

 そうだろうか、と思う。

 でも否定もできなかった。

 秋に答えを出してから、あかりの中に今まで感じていた揺れが、少しずつ落ち着いてきたのは本当だ。

 誠一への気持ちが消えたわけではない。

 消えることは、たぶん、ない。

 でもそれを、今のあかりは「失った何か」としてではなく、「ある何か」として持てるようになっていた。

 消えない記憶は、消えないままでいい。

 それが傷にならずに、ただ存在できるなら——そう思えるようになったのは、秋から冬にかけての時間のおかげだった。


 その日の夕方、世田谷の自宅に翔太が帰ってきた。

 試験の手応えは「まあまあ」とのことで、良くも悪くもなさそうな顔をしていたが、少し体が軽くなったように見えた。

 久美子が夕食を豪華にした——翔太の好きな唐揚げと、松茸のお吸い物が並んだ。

「なんで松茸」と翔太が言い、三人で笑った。


 食後、誠一と久美子が後片付けをした。

 台所に並んで、一人が洗って一人が拭く。

 最近のこの家ではあまりなかった、二人の並びだった。

「翔太、本当に頑張ったよね」と久美子が言った。

「うん」

「あなたが今日、送ってあげてよかったと思う。あの子、それがほしかったと思う」

 誠一は皿を拭きながら「そうかな」と言った。

「そうだよ」と久美子はあっさり言い、次の皿を洗った。

 二人は黙って作業を続けた。

 久美子と並んでいると、この人のことを知っている、という感覚が来た。

 二十年近く同じ家にいて、今更気づくことでもないはずなのに、今日は少し改めてそれを感じた。


 久美子は自分の感情をあまり表に出さない。

 誠一のことを心配していても、詮索することはしない。

 それが時に物足りなかったこともある。

 でも今日の「あの子、それがほしかったと思う」という一言は、さらりとしているくせに確信があった。

「久美子」と誠一は言った。

「何?」

「今日の夕食、ありがとう」

 久美子が少し手を止めたのがわかった。

 振り返らずに「どういたしまして」と言った。

 その言い方が照れているようで、誠一は少し笑った。


 数週間後、誠一のスマートフォンに、あかりからメッセージが届いた。

「素敵なものを作ってくれてありがとう。私の花、あの場所によく似合ってたよ」

 誠一はしばらく、画面を見ていた。

 事務所の昼過ぎで、所員が出かけていて一人だった。

 窓から外を見ると、冬の白い空が広がっていた。

 返信を打った。

「あなたの花が、あの場所を完成させてくれた」

 送信して、画面をしまった。

 既読がついた。

 それきり、あかりからの返信はなかった。

 誠一も送らなかった。


 自然に、穏やかに、やり取りは止まった。

 止まったことを、誠一は悲しいとは思わなかった。

 ただ、今日から少しだけ違う時間が始まる、という感覚があった。

 失った時間があって、得た時間があって、また歩き始める。

 それだけのことだった。


 翌日、新しいプロジェクトのファイルが届いた。

 埼玉の、小さな図書館のリノベーション設計だった。

 誠一はファイルを開いて、まず写真を見た。

 外観、内観、構造図。

 古い建物が持つ特有の、時間の重みがあった。

 どう蘇らせるか。

 設計図を引く前に、まず足で行って、感じることから始めよう——いつものように、誠一はそう思った。

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