エピローグ 春の残像
翌年の三月、神楽坂ヴィラ・セルジュで最初の結婚式が行われた。
誠一は招かれていなかった。
でも、その日の午後、別件で神楽坂に来ていた誠一は、気づくと路地の入口に立っていた。
意識していたわけではないが、足が向いた。
そういうものなのかもしれない、と誠一は思った。
完成させたものが初めて使われる日に、そこへ行きたい、と体が知っている。
路地の奥から、白い花のウェディングロードが見えた。
コロナ禍以来、少人数の結婚式が増えたと聞いていた。
今日も、親族と親しい友人だけの小さな式のようで、人の数は多くない。
でも、だからこそ、花の一輪一輪が際立って見えた。
白いスカビオサ。
あかりが選んだ、あの花だ。
誠一は路地の入口から、動かないでいた。
中に入るつもりはなかった。
ただ見ていた。
花嫁が入っていく瞬間が、遠目に見えた。
白いドレスに、白い花がある。
誰かの始まりが、今、ここで起きている。
自分が作った空間の中で、誰かの物語が始まっている。
それが、建築という仕事の报酬だ、と誠一は思った。
設計者は物語の中には入れない。
でも物語の入れ物を作る。
完成した器の中に、何年分もの誰かの時間が詰まっていく。
その入れ物として長く使われることが、この仕事の一番の完成だ。
あかりの姿はなかった。
もう花の搬入は済んでいるから、当然だ。
あかりはとっくに帰って、今日は花屋にいるか、あるいは娘の麻衣と話しているか、康介の薬を確認しているか。
それぞれの日常の中にいる。
でも、あの花は今ここにある。
あかりが選んで、置いていった花が、誰かの人生の最良の日を飾っている。
誠一は路地から離れた。
事務所に戻ると、机の上に埼玉の図書館のファイルが開いたままだった。
椅子に座って、設計図を広げた。
外壁の採寸データと、現地写真を並べて見た。
この建物はどんな空気の中に立っているのか。
どんな風が通り、どんな人が出入りしてきたのか。
鉛筆を取り、設計図の隅に、ゆっくりと線を引いた。
最初の一本は、いつも恐る恐るだ。
この線が、この先の何百本の線の出発点になる。
慎重に、でも確かに引く。
それから余白に、何となく花を書き足した。
小さな、スカビオサの形をした花。
誠一は自分が書いたものを少し見てから、設計図に戻った。
次のプロジェクトが始まる。
窓の外では三月の光が、斜めに入ってきていた。
春は、毎年やってくる。
失ったものも、選んだものも、残像のように、やわらかく光っている。
それが消えないまま、それぞれの人生の奥に沈んで、でも完全には沈みきらずに、ときどき浮かび上がる。
それでいい、と誠一は思っていた。
そしておそらく、あかりも。




