第八話 二十年前の嘘
九月の最初の週、二人は久しぶりに喫茶店で会った。
あかりはやつれていた。
ひと月ぶりに近くで顔を見て、誠一はそれを感じた。
頬が少し削れていて、目の下に疲れの色がある。
それでも髪はいつも通りにまとめていて、服も丁寧に選んでいた。
あかりは弱った自分を出力にあまり出さない人だ、と誠一は思い出した。
「結果が出た」とあかりは言い、コーヒーカップに両手を添えた。
「自己免疫疾患、確定した。シェーグレン症候群というやつで、症状は軽度。早期発見だから、ちゃんと治療すれば日常生活には支障がないレベルだって」
「それは……よかった」
「そう。最悪じゃなかった。ただ、付き合い方を変えなきゃいけないのは、これから先もずっと続く話で」
「康介さんは」
「本人が一番冷静。ちゃんと段階を踏んで対処してくれてる。私の方が追いついてない感じ」
「そっちの方が正直だよ」と誠一は言った。
「本人が落ち着いてる分、傍にいる人の不安が行き場を失う」
「そうなの。わかってる、わかってるんだけど」と言って、あかりは小さく息を吐いた。
「ごめん、報告のためじゃなくて、会いたかったんだと思う」
その一言で、誠一の胸の中で何かが静かに傾いた。
「来てよかった」と誠一は言った。
しばらく二人は黙った。
マスターが遠慮がちにカウンターを拭いている音がする。
それから誠一が口を開いた。
自分でも、そのタイミングが来たことを感じていた。
「俺は、ずっと、なぜあのとき別れたのかが、わからなかった」
あかりが顔を上げた。
「何度か考えたことはある。でも答えが出なかった。あかりのことを理解できなかったのか、俺に原因があったのか、それとも俺の知らない理由があったのか」
「誠一さん」
「言わなくても、いい。でも、俺が知らないまま二十六年過ごしてきたことは、本当で、それを黙ってていいのかどうかが、このところずっとある」
あかりはカップから手を離して、テーブルに置いた。
窓の外を、風が吹いた。
九月になっても昼間はまだ暑いが、夕方には確かに秋の気配がある。
あかりは今、すべてを話すべきか、と考えた。
一瞬だった。
考えた、というより、この人にはこれ以上黙っていられない、という確信が来た。
二十六年、黙ってきた。
その間に人生を選び、家族を得て、仕事を作った。
でも誠一の前だけは、あの嘘がずっとそこにある。
「両親に言われたの」とあかりは言った。
「あなたの家が借金を抱えたとき、うちの父が調べて、私を呼び出した」
誠一は黙って聞いた。
「『あの子の家と縁を持てば、あの子も傷つく。あなたが本当にあの子を思うなら、別れてやりなさい』って。父らしい言い方だった。言いくるめるんじゃなくて、理屈で責任感を刺して来るタイプだから」
「そうか」と誠一は言った。
声は低かったが、落ち着いていた。
「私は、あなたを守るつもりで別れた。でもそれは、本当はあなたが嫌いになったんじゃなかった。ごめんなさい——じゃなくて」
あかりは一呼吸置いた。
「あなたのために、精いっぱいだった。それだけは、わかってほしい」
誠一はしばらく、テーブルの木目を見ていた。
「精いっぱいだった」という言葉が、空気の中で溶けていく。
誠一の中に最初に来たのは、怒りではなかった。
怒りが来る前に、別のものが来た。
安堵、だったかもしれない。
二十六年、わからなかったことが、わかった。
「好きじゃなくなった」は嘘だった。
あかりはあのとき、別れたくなかったのかもしれない。
安堵の次に、切なさが来た。
二十六年。
伝えなかった親の言葉ひとつで、二つの人生が別の道に入った。
もし誠一があのとき食い下がっていれば。
もしあかりが嘘をつかなければ。
もし二人がもう少しだけ大人だったなら——という問いは、今では何の意味も持たない。
起きたことは起きた。
そして今、二人はここにいる。
「怒ってますか」と、あかりが静かに聞いた。
「怒ってない」と誠一は言った。
「怒る気持ちは……ない。ただ」
「ただ?」
「時間が惜しかったと思った。二十六年は、長かった」
あかりの目が揺れた。
それだけだった。
それ以上の言葉は、どちらからも出なかった。
マスターが奥に引っ込んで、店の中が静かになった。
コーヒーが冷めていく。
事務所に戻った誠一は、設計図を開こうとして、できなかった。
椅子に座ったまま、しばらく部屋の空気を見ていた。
壁と天井のコーナーと、その向こうの空白。
二十六年前の別れの朝の情景が、今夜は鮮明にくる。
晩秋の大学のキャンパス近くのベンチで、あかりは「好きじゃなくなった」と言った。
誠一はそれを受け取って頷いた。
あかりの目が泳いでいた。
あの泳ぎ方の意味を、あのとき追いかけていれば——。
止まらない問いを、誠一は意識して断ち切った。
過去は変わらない。
変わるのは、今の自分の持ち方だけだ。
設計図を引き出し、エントランスのスケッチを見た。
低く入って、開いた瞬間に広がる。
あかりの「後から気づく花」の論理で作った設計。
その線を今夜の誠一は美しいと思った。
いつものように仕事の熱が来てくれることを待ったが、今夜はなかなか来なかった。
翌日から、誠一は設計図に向かえない日が続いた。
所員に任せられる作業は任せ、自分は書類仕事や電話対応に回った。
パートナーの石垣が「最近、手が動いてないですね」と気遣わしげに言ったが、誠一は「少し考えることがある」とだけ答えた。
頭の中にあるのは、二十六年前の別れの朝の情景と、昨夜のあかりの横顔だけだった。
動す必要がある、と誠一は自覚していた。
でも何を動かすのか、まだわからなかった。




