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「春の残像」  「好きじゃなくなった」は嘘だった。二十六年後、あなたの設計した式場に、私の花を飾る日が来るとは思わなかった  作者: かーすけ
夏 ──記憶と欲望の季節──

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第七話 眠れない夏の夜に

 深夜の事務所に、誠一一人が残っていた。


 所員は六時に上がっていた。

 七時に一本電話があって、それを終えてから神楽坂の設計図を広げて、ここまで来た。

 時計は十一時半を指している。

 設計図の前に座っているが、鉛筆は動いていない。


 ヘリクリサムを花屋の前に置いてきたのは、今朝だ。

 朝の七時過ぎ、誰もいない路地を歩いて、扉の前に置いた。

 理由は自分でも明確に言語化できない。

 ただ頭の中に、昨夜のあかりの声があった。

 康介のことを話すときの、怖い、という感情を孕んだ声。

 酔いの中で「もし結婚相手が違ったら」と言ったとき、すぐに「ごめん」と続けたこと。

 花を置くことで、何が伝わるかはわかっていた。

 伝えていいのかどうかも、考えた。

 一晩、考えた。

 でも朝になったとき、体が動いていた。


「永遠の記憶」という花言葉は、選んではいたが、あかりが知っているかどうかはわからなかった。

 ただ一輪だけ、名前も書かずに置いてきた。

 あかりはフラワーデザイナーだ。

 花言葉を知っている可能性の方が高い。

 知った上で、どう受け取るか——それはあかりが決めることだ。

 誠一はそこまで考えて、設計図に目を落とした。

 でも線が引けない。


 エントランスの設計が難しかった。

 ヴィラ・セルジュのエントランスは、もとの建物の間取から来る制約で、天井が低い。

 その低天井をどう生かすか。圧迫感を演出に変える方法を、ここ数日ずっと考えているが、答えが出ない。

 低く入って、扉を開けた瞬間に空間が広がる——その体験のギャップを設計したい、というのが誠一のイメージだが、その「広がり」をどこから持ってくるかが決まっていない。


 花。

 ふと頭に浮かんだのはそれだった。

 花屋のカウンターに、あかりが季節ごとの花を飾る。

 その配置の仕方——人が扉を開けてから目に入る場所と、入った後に気づく場所と、奥に進んでから見える場所——を、あかりはいつも考えながら花を置いているのだと、ある日の閉店後に話していた。

「目を引く花と、後から気づく花と、全体を引き締める花がある」というその言葉が、誠一の中に残っていた。

 それだ、と誠一は思い、鉛筆を動かした。


 エントランスの低い天井のまま入ってもらう。

 入った正面ではなく、少し斜めの位置に窓を大きく取る。

 光を正面から見せない。

 入った瞬間は光源を見せずに、まず空間の深さを感じさせる。

 そして二歩入ると、斜め上から光が差し込む場所に出る。

 「後から気づく花」の論理だ。

 鉛筆が走り始めた。

 頭が仕事を捕まえた。


 一時間後、エントランスの基本案が形になった。

 誠一は線を引き終えて、椅子に深く座り直した。

 部屋の外は静かだった。

 深夜の事務所は、空調の音だけがする。

 スマートフォンを手に取った。

 あかりからの連絡はなかった。

 ヘリクリサムを受け取ったのかどうかも、わからない。

 そのわからなさが、妙に落ち着かなかった。


 一方、文京区のマンションでは、あかりが眠れないでいた。

 康介は隣で寝ている。

 規則正しい寝息。

 あかりは何度か寝返りを打って、結局起き上がって台所でお茶を淹れた。

 麦茶が冷蔵庫にあったので、それを出した。

 スマートフォンを開いて、LINEの画面を見た。

 誠一との画面を開くと、最後のやり取りは昨夜のビアガーデンの前の「今日、近くにビアガーデンが出てる」というあかりのメッセージと、誠一の「それでいい」だ。

 その後に、今朝の花がある。

 ヘリクリサム。

 永遠の記憶。


 あかりはフラワーデザイナーとして、この花の意味を知っていた。

 知った上で、どう受け取ったかというと——受け取った、というより、受け取ってしまった、という感覚に近かった。

 拒もうとは思わなかった。

 でも受け取り方が、自分でわからない。


 文章を打とうとして、画面を開いた。「ありがとう」を打った。

 それだけでは足りない気がして消した。「ヘリクリサム、知ってるの」を打った。

 余計な気がして消した。

 「昨夜の話をしたくて」を打って、それも消した。

 何を伝えたいのか。


 あかりが今感じていることを正確に言葉にするなら——誠一のことが、また好きかもしれない、ということだった。

 でもそれを言ってしまうことと、言わないことの違いは大きくて、言葉の手前で止まり続けた。

 好きかもしれない、という感情は、二人がそれぞれ家族を持っていることと、矛盾しているのか。

 矛盾している、と思う。

 でも感情は矛盾を構わない。

 感情は論理より先に来て、理屈を後から追いかけさせる。


 あかりは「ありがとう。大事にするね」と打った。

 それだけだった。

 一言、二言。

 でもこれ以上でも以下でも、正確にはならない気がした。

 送信した。


 時計を見ると、深夜一時を過ぎていた。

 世田谷の事務所では、誠一がその通知を受け取った。

「ありがとう。大事にするね」

 画面を見て、一語も返せなかった。

 何を返せばいいのか、わからなかった。

「どういたしまして」ではない。

「よかった」でも違う。

 あかりの言葉の中にある、ありがとう、と、大事にするね、の二つがそれぞれ別の重みを持っていて、どちらをどう受けとめるかが処理できなかった。


 机の上の設計図を見た。

 エントランスのスケッチが、今夜の一時間で一番まともな形になった。

 花の論理で建築を考えた夜に、あかりから「ありがとう」を受け取った。

 誠一は返信を打とうとして、何度も画面を開いて、何度も閉じた。

 夜が少しずつ深くなっていく。

 外に出るタクシーの音が遠ざかる。

 そのまま、夜が明けた。

 一語も返せなかった。


 それから一週間、あかりからの連絡がなかった。

 誠一も送らなかった。

 現場は着々と工事が進んでいて、毎週の打ち合わせには誠一が出向いた。

 神楽坂の路地を歩くたびに、花屋の前を通る。

 灯りはある。影も動いている。でも扉を開ける足が出なかった。


 八月の終わり、工務店との週次打ち合わせが終わった帰り、誠一のスマートフォンが震えた。見ると、あかりからだった。

 「来週、少し時間ある? 報告したいことがあって」

 報告。

 誠一は画面を見ながら、その一語の重さを測った。

 康介の検査結果だろうと、すぐに想像した。

 良いことなのか悪いことなのか、報告、という言葉だけではわからない。


 「いつでもいい」と返した。

 封じられた一週間が、ようやく動き始めた。

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