第七話 眠れない夏の夜に
深夜の事務所に、誠一一人が残っていた。
所員は六時に上がっていた。
七時に一本電話があって、それを終えてから神楽坂の設計図を広げて、ここまで来た。
時計は十一時半を指している。
設計図の前に座っているが、鉛筆は動いていない。
ヘリクリサムを花屋の前に置いてきたのは、今朝だ。
朝の七時過ぎ、誰もいない路地を歩いて、扉の前に置いた。
理由は自分でも明確に言語化できない。
ただ頭の中に、昨夜のあかりの声があった。
康介のことを話すときの、怖い、という感情を孕んだ声。
酔いの中で「もし結婚相手が違ったら」と言ったとき、すぐに「ごめん」と続けたこと。
花を置くことで、何が伝わるかはわかっていた。
伝えていいのかどうかも、考えた。
一晩、考えた。
でも朝になったとき、体が動いていた。
「永遠の記憶」という花言葉は、選んではいたが、あかりが知っているかどうかはわからなかった。
ただ一輪だけ、名前も書かずに置いてきた。
あかりはフラワーデザイナーだ。
花言葉を知っている可能性の方が高い。
知った上で、どう受け取るか——それはあかりが決めることだ。
誠一はそこまで考えて、設計図に目を落とした。
でも線が引けない。
エントランスの設計が難しかった。
ヴィラ・セルジュのエントランスは、もとの建物の間取から来る制約で、天井が低い。
その低天井をどう生かすか。圧迫感を演出に変える方法を、ここ数日ずっと考えているが、答えが出ない。
低く入って、扉を開けた瞬間に空間が広がる——その体験のギャップを設計したい、というのが誠一のイメージだが、その「広がり」をどこから持ってくるかが決まっていない。
花。
ふと頭に浮かんだのはそれだった。
花屋のカウンターに、あかりが季節ごとの花を飾る。
その配置の仕方——人が扉を開けてから目に入る場所と、入った後に気づく場所と、奥に進んでから見える場所——を、あかりはいつも考えながら花を置いているのだと、ある日の閉店後に話していた。
「目を引く花と、後から気づく花と、全体を引き締める花がある」というその言葉が、誠一の中に残っていた。
それだ、と誠一は思い、鉛筆を動かした。
エントランスの低い天井のまま入ってもらう。
入った正面ではなく、少し斜めの位置に窓を大きく取る。
光を正面から見せない。
入った瞬間は光源を見せずに、まず空間の深さを感じさせる。
そして二歩入ると、斜め上から光が差し込む場所に出る。
「後から気づく花」の論理だ。
鉛筆が走り始めた。
頭が仕事を捕まえた。
一時間後、エントランスの基本案が形になった。
誠一は線を引き終えて、椅子に深く座り直した。
部屋の外は静かだった。
深夜の事務所は、空調の音だけがする。
スマートフォンを手に取った。
あかりからの連絡はなかった。
ヘリクリサムを受け取ったのかどうかも、わからない。
そのわからなさが、妙に落ち着かなかった。
一方、文京区のマンションでは、あかりが眠れないでいた。
康介は隣で寝ている。
規則正しい寝息。
あかりは何度か寝返りを打って、結局起き上がって台所でお茶を淹れた。
麦茶が冷蔵庫にあったので、それを出した。
スマートフォンを開いて、LINEの画面を見た。
誠一との画面を開くと、最後のやり取りは昨夜のビアガーデンの前の「今日、近くにビアガーデンが出てる」というあかりのメッセージと、誠一の「それでいい」だ。
その後に、今朝の花がある。
ヘリクリサム。
永遠の記憶。
あかりはフラワーデザイナーとして、この花の意味を知っていた。
知った上で、どう受け取ったかというと——受け取った、というより、受け取ってしまった、という感覚に近かった。
拒もうとは思わなかった。
でも受け取り方が、自分でわからない。
文章を打とうとして、画面を開いた。「ありがとう」を打った。
それだけでは足りない気がして消した。「ヘリクリサム、知ってるの」を打った。
余計な気がして消した。
「昨夜の話をしたくて」を打って、それも消した。
何を伝えたいのか。
あかりが今感じていることを正確に言葉にするなら——誠一のことが、また好きかもしれない、ということだった。
でもそれを言ってしまうことと、言わないことの違いは大きくて、言葉の手前で止まり続けた。
好きかもしれない、という感情は、二人がそれぞれ家族を持っていることと、矛盾しているのか。
矛盾している、と思う。
でも感情は矛盾を構わない。
感情は論理より先に来て、理屈を後から追いかけさせる。
あかりは「ありがとう。大事にするね」と打った。
それだけだった。
一言、二言。
でもこれ以上でも以下でも、正確にはならない気がした。
送信した。
時計を見ると、深夜一時を過ぎていた。
世田谷の事務所では、誠一がその通知を受け取った。
「ありがとう。大事にするね」
画面を見て、一語も返せなかった。
何を返せばいいのか、わからなかった。
「どういたしまして」ではない。
「よかった」でも違う。
あかりの言葉の中にある、ありがとう、と、大事にするね、の二つがそれぞれ別の重みを持っていて、どちらをどう受けとめるかが処理できなかった。
机の上の設計図を見た。
エントランスのスケッチが、今夜の一時間で一番まともな形になった。
花の論理で建築を考えた夜に、あかりから「ありがとう」を受け取った。
誠一は返信を打とうとして、何度も画面を開いて、何度も閉じた。
夜が少しずつ深くなっていく。
外に出るタクシーの音が遠ざかる。
そのまま、夜が明けた。
一語も返せなかった。
それから一週間、あかりからの連絡がなかった。
誠一も送らなかった。
現場は着々と工事が進んでいて、毎週の打ち合わせには誠一が出向いた。
神楽坂の路地を歩くたびに、花屋の前を通る。
灯りはある。影も動いている。でも扉を開ける足が出なかった。
八月の終わり、工務店との週次打ち合わせが終わった帰り、誠一のスマートフォンが震えた。見ると、あかりからだった。
「来週、少し時間ある? 報告したいことがあって」
報告。
誠一は画面を見ながら、その一語の重さを測った。
康介の検査結果だろうと、すぐに想像した。
良いことなのか悪いことなのか、報告、という言葉だけではわからない。
「いつでもいい」と返した。
封じられた一週間が、ようやく動き始めた。




