第六話 告白のかわりに花を
夏になった。
神楽坂の路地は昼間の熱を夕方になっても手放さず、石畳が日暮れ後も温かさを蓄えていた。
あかりは閉店後の片付けをしながら、窓の外がまだ明るい季節に少し救われる気持ちがあった。
夏の夕方は、昼と夜の境目が曖昧で、その曖昧さがあかりには心地よかった。
康介の精密検査の結果が、七月の頭に出た。
「早期の自己免疫疾患の疑い」という診断で、さらなる検査と経過観察が必要とのことだった。
重篤な段階ではないが、放置していい状態でもない。
康介は「自分で専門医を知っているから、紹介状を書いてもらう」と言い、あかりの不安を先回りするように事務的に動いた。
医者というのは、患者として弱くなることを一番嫌がる生き物かもしれない、とあかりは思った。
康介の処置の速さは頼もしかったが、その速さの裏に何か隠しているものがある気がして、あかりはずっとそれが引っかかっていた。
誠一との関係が、五月の隅田川の散歩以来、少しだけ変わっていた。
変わったというより、少し手前に進んだ、という感じだった。
喫茶店でのコーヒーが続き、話す内容が少しずつ踏み込んでくるようになった。
仕事の話だけでなく、子供の話、家の話、それから互いの内側にある焦燥のようなものまで。
踏み込んでいる、とは自覚していた。
でも止める理由も見つからなかった。
七月の中旬、神楽坂の一角に期間限定のビアガーデンがオープンした。
ビルの屋上を開放した小さなスペースで、夕方から夜にかけて営業している。
あかりが閉店後に前を通ると、エレベーターの前に行列ができていた。
その夜、誠一と喫茶店の予定があったのだが、暑さでコーヒーの気分ではなかった。
あかりは誠一にLINEを送った。
「今日、近くにビアガーデンが出てる。コーヒーじゃなくてそっちにしない?」
数分後に「それでいい」と返ってきた。
開いたばかりの時間帯だったので、席は空いていた。
屋上に出ると、夕方の風が来て少し涼しかった。
遠くに街の灯りが並んでいて、空はまだほんのり青かった。
ビールを頼んで乾杯した。
「いい場所だね」と誠一が言った。
「来年もやってほしいな」
「やるんじゃないの、こういうの」
「でも不動産事情次第で突然なくなることある。この辺、再開発も多いから」
「神楽坂はまだ残ってる方だ。石畳の路地は景観の規制があるから、そう簡単には変わらない」
「そうなの?」
「俺のプロジェクトも、外観を変えちゃいけない制限があって、中身だけいじくる設計にしてる。むしろそれが面白い縛りになってるけど」
ビールを飲みながら、仕事の話をする。
その自然さが、あかりには今日はしんどかった。
しんどい、というのは厭だということではなく、うまく仕事の話に集中できない、という意味だった。
頭のどこかにずっと康介のことがある。
検査結果のこと、これから通院が続くこと、康介が弱音を吐かないこと。
二杯目のビールを頼んで、飲み始めたところで、あかりは口を開いた。
「康介のこと、心配してる」
誠一は聞いていた。
「検査の結果が出て、自己免疫疾患の疑い、って。本格的な治療まではまだ段階があるらしいんだけど、経過を見ながらっていうのが、こっちはずっと不安で」
「うん」
「本人は全然動じてないようにしてる。自分が医者だから、内情はわかってるはずなんだけど、だからこそ余計に何考えてるかわからなくて」
「あかりには、楽観的なことしか言わない」
「そう。ちゃんと伝えてくれてるんだろうとは思うけど、伝え方が医者口調になるから、どこまで本当のことを話してるのかわからない」
誠一はビールを一口飲んで、少し考えてから言った。
「今、怖いんだね」
あかりは頷いた。
怖い、という言葉を誠一が使ったのが、正確だと思った。
心配、という言葉より、怖い、の方が今の自分には近かった。
「あの人、真面目で誠実で、娘のことも大切にしてくれてて、本当にいい人なんだよ」とあかりは言った。
「だから余計に、もし何かあったとしたら、って考え始めると止まらなくて」
「もし、の話はしない方がいいよ、今は」と誠一は言った。
「まだわかってないんだろう」
「わかってる。でも頭が勝手に行くんだよね、最悪のところへ」
「それはそうだよ」
認めてくれた、とあかりは思った。
心配しすぎ、とも、大丈夫だよ、とも言わずに、ただそれはそうだよ、と言った。
三杯目を頼んだころには、あかりの舌が少し軽くなっていた。
「もし結婚相手が違ったら、どんな人生だったんだろ」
自分で言いながら、あかりはすぐに後悔した。
でも言葉は出てしまっていた。
誠一がこちらを見た。
あかりはビールのグラスを見たまま、続けた。
「ごめん、変なこと言った」
「いや」
「酔ってるのかも」
「酔ってるのかも、じゃなくて、思ってるから出てきたんだと思う」
それは正しい、とあかりは思った。
酔っているのは確かだが、酔わなければ出てこない言葉には、酔いに関係なく思っていることが混じっている。
「俺も考えたことはある」と誠一は言った。
どちらも続けなかった。
その問いへの答えは、二人ともわかっていた。
でも言葉にしてしまうと、何かが壊れる。
壊れること自体が悪いわけではないが、今はまだその準備がない。
遠くで花火が上がった。
盆祭りの前夜、どこか近くの神社で打ち上げているのだろう。
どん、という低い音が腹に響いて、空の一角がぼうっと明るくなった。
「きれい」とあかりは言った。
「うん」と誠一は言い、花火の方を見た。
二人は二、三分、黙って空を見ていた。
花火は続いた。
夏の夜の匂いの中で、あかりはグラスを両手で包んだ。
ビールが少し温くなっていた。
この人といると、昔から、こういう時間があった、とあかりは思った。
言葉がなくても苦しくない時間。
それがあかりには——久しぶりに——かえって苦しかった。
別れ際、エレベーターの前で誠一は「気をつけて帰って」と言い、あかりは「あなたも」と言った。
それだけだった。
帰宅して、シャワーを浴びて、ベッドに横になった。
康介はすでに寝ていた。
規則正しい寝息が聞こえる。
あかりはその音を聞きながら、天井を見た。
眠れなかった。
翌朝、花屋を開けに来たあかりは、扉の前に一輪の花が置いてあることに気づいた。
茎を水に浸したままにする用の小さなフィルムに包まれた、夏の花。
ヘリクリサム。
別名を「麦わら菊」ともいう、ドライフラワーになっても色を保つ花。
花言葉は「永遠の記憶」。
メッセージはなかった。
名前も書いていない。
ただ一輪、扉の前に置いてあるだけだった。
でもあかりには、誰が置いていったかが、すぐにわかった。
わかるだけで、十分すぎるほどだった。
あかりはヘリクリサムを手に持って、少しの間、路地の石畳を見つめた。
足音も人影もない。
誠一はもう行ってしまったあとだ。
店の中に入って、カウンターの一番目立つ場所に、ヘリクリサムを飾った。




