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「春の残像」  「好きじゃなくなった」は嘘だった。二十六年後、あなたの設計した式場に、私の花を飾る日が来るとは思わなかった  作者: かーすけ
夏 ──記憶と欲望の季節──

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第六話 告白のかわりに花を

 夏になった。


 神楽坂の路地は昼間の熱を夕方になっても手放さず、石畳が日暮れ後も温かさを蓄えていた。

 あかりは閉店後の片付けをしながら、窓の外がまだ明るい季節に少し救われる気持ちがあった。

 夏の夕方は、昼と夜の境目が曖昧で、その曖昧さがあかりには心地よかった。


 康介の精密検査の結果が、七月の頭に出た。

「早期の自己免疫疾患の疑い」という診断で、さらなる検査と経過観察が必要とのことだった。

 重篤な段階ではないが、放置していい状態でもない。

 康介は「自分で専門医を知っているから、紹介状を書いてもらう」と言い、あかりの不安を先回りするように事務的に動いた。


 医者というのは、患者として弱くなることを一番嫌がる生き物かもしれない、とあかりは思った。

 康介の処置の速さは頼もしかったが、その速さの裏に何か隠しているものがある気がして、あかりはずっとそれが引っかかっていた。


 誠一との関係が、五月の隅田川の散歩以来、少しだけ変わっていた。

 変わったというより、少し手前に進んだ、という感じだった。

 喫茶店でのコーヒーが続き、話す内容が少しずつ踏み込んでくるようになった。

 仕事の話だけでなく、子供の話、家の話、それから互いの内側にある焦燥のようなものまで。

 踏み込んでいる、とは自覚していた。

 でも止める理由も見つからなかった。


 七月の中旬、神楽坂の一角に期間限定のビアガーデンがオープンした。

 ビルの屋上を開放した小さなスペースで、夕方から夜にかけて営業している。

 あかりが閉店後に前を通ると、エレベーターの前に行列ができていた。

 その夜、誠一と喫茶店の予定があったのだが、暑さでコーヒーの気分ではなかった。

 あかりは誠一にLINEを送った。

「今日、近くにビアガーデンが出てる。コーヒーじゃなくてそっちにしない?」

 数分後に「それでいい」と返ってきた。

 開いたばかりの時間帯だったので、席は空いていた。

 屋上に出ると、夕方の風が来て少し涼しかった。

 遠くに街の灯りが並んでいて、空はまだほんのり青かった。

 ビールを頼んで乾杯した。


「いい場所だね」と誠一が言った。

「来年もやってほしいな」

「やるんじゃないの、こういうの」

「でも不動産事情次第で突然なくなることある。この辺、再開発も多いから」

「神楽坂はまだ残ってる方だ。石畳の路地は景観の規制があるから、そう簡単には変わらない」

「そうなの?」

「俺のプロジェクトも、外観を変えちゃいけない制限があって、中身だけいじくる設計にしてる。むしろそれが面白い縛りになってるけど」


 ビールを飲みながら、仕事の話をする。

 その自然さが、あかりには今日はしんどかった。

 しんどい、というのは厭だということではなく、うまく仕事の話に集中できない、という意味だった。 

 頭のどこかにずっと康介のことがある。

 検査結果のこと、これから通院が続くこと、康介が弱音を吐かないこと。


 二杯目のビールを頼んで、飲み始めたところで、あかりは口を開いた。

「康介のこと、心配してる」

 誠一は聞いていた。

「検査の結果が出て、自己免疫疾患の疑い、って。本格的な治療まではまだ段階があるらしいんだけど、経過を見ながらっていうのが、こっちはずっと不安で」

「うん」

「本人は全然動じてないようにしてる。自分が医者だから、内情はわかってるはずなんだけど、だからこそ余計に何考えてるかわからなくて」

「あかりには、楽観的なことしか言わない」

「そう。ちゃんと伝えてくれてるんだろうとは思うけど、伝え方が医者口調になるから、どこまで本当のことを話してるのかわからない」


 誠一はビールを一口飲んで、少し考えてから言った。

「今、怖いんだね」

 あかりは頷いた。

 怖い、という言葉を誠一が使ったのが、正確だと思った。

 心配、という言葉より、怖い、の方が今の自分には近かった。

「あの人、真面目で誠実で、娘のことも大切にしてくれてて、本当にいい人なんだよ」とあかりは言った。

「だから余計に、もし何かあったとしたら、って考え始めると止まらなくて」

「もし、の話はしない方がいいよ、今は」と誠一は言った。

「まだわかってないんだろう」

「わかってる。でも頭が勝手に行くんだよね、最悪のところへ」

「それはそうだよ」

 認めてくれた、とあかりは思った。

 心配しすぎ、とも、大丈夫だよ、とも言わずに、ただそれはそうだよ、と言った。


 三杯目を頼んだころには、あかりの舌が少し軽くなっていた。

「もし結婚相手が違ったら、どんな人生だったんだろ」

 自分で言いながら、あかりはすぐに後悔した。

 でも言葉は出てしまっていた。

 誠一がこちらを見た。

 あかりはビールのグラスを見たまま、続けた。

「ごめん、変なこと言った」

「いや」

「酔ってるのかも」

「酔ってるのかも、じゃなくて、思ってるから出てきたんだと思う」

 それは正しい、とあかりは思った。

 酔っているのは確かだが、酔わなければ出てこない言葉には、酔いに関係なく思っていることが混じっている。


「俺も考えたことはある」と誠一は言った。

 どちらも続けなかった。

 その問いへの答えは、二人ともわかっていた。

 でも言葉にしてしまうと、何かが壊れる。

 壊れること自体が悪いわけではないが、今はまだその準備がない。

 遠くで花火が上がった。

 盆祭りの前夜、どこか近くの神社で打ち上げているのだろう。

 どん、という低い音が腹に響いて、空の一角がぼうっと明るくなった。

「きれい」とあかりは言った。

「うん」と誠一は言い、花火の方を見た。

 二人は二、三分、黙って空を見ていた。

 花火は続いた。

 夏の夜の匂いの中で、あかりはグラスを両手で包んだ。

 ビールが少し温くなっていた。


 この人といると、昔から、こういう時間があった、とあかりは思った。

 言葉がなくても苦しくない時間。

 それがあかりには——久しぶりに——かえって苦しかった。

 別れ際、エレベーターの前で誠一は「気をつけて帰って」と言い、あかりは「あなたも」と言った。

 それだけだった。


 帰宅して、シャワーを浴びて、ベッドに横になった。

 康介はすでに寝ていた。

 規則正しい寝息が聞こえる。

 あかりはその音を聞きながら、天井を見た。

 眠れなかった。


 翌朝、花屋を開けに来たあかりは、扉の前に一輪の花が置いてあることに気づいた。

 茎を水に浸したままにする用の小さなフィルムに包まれた、夏の花。

 ヘリクリサム。

 別名を「麦わら菊」ともいう、ドライフラワーになっても色を保つ花。

 花言葉は「永遠の記憶」。

 メッセージはなかった。

 名前も書いていない。

 ただ一輪、扉の前に置いてあるだけだった。

 でもあかりには、誰が置いていったかが、すぐにわかった。

 わかるだけで、十分すぎるほどだった。


 あかりはヘリクリサムを手に持って、少しの間、路地の石畳を見つめた。

 足音も人影もない。

 誠一はもう行ってしまったあとだ。


 店の中に入って、カウンターの一番目立つ場所に、ヘリクリサムを飾った。

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