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「春の残像」  「好きじゃなくなった」は嘘だった。二十六年後、あなたの設計した式場に、私の花を飾る日が来るとは思わなかった  作者: かーすけ
夏 ──記憶と欲望の季節──

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第五話 隅田川沿い、夕暮れの橋の上

 日曜日の午後二時、浅草橋の駅で待ち合わせた。


 誠一は五分前に着いていた。

 改札の前で立って、スマートフォンを見ているふりをしていたが、実際には何も見ていなかった。

 これが何なのか、と自問する余裕もなく、ただここに立っていた。


 あかりが来たのは二時三分だ。

 白い薄手のジャケットを羽織り、肩にトートバッグをかけて、ちょうど人波の中から現れた。

 歩き方でわかった。

 まっすぐ来る、でも急がない、あの歩き方。

「待った?」とあかりが聞いた。

「少し」

「ごめんなさい」

「いい」


 並んで改札を出て、隅田川の方へ歩いた。

 五月の末の日差しはもう強く、川面に光が砕けて散っている。

 川沿いの遊歩道に出ると、家族連れや観光客や犬を連れた老人が、それぞれのペースで歩いていた。


「ここら辺、来たことある?」とあかりが聞いた。

「仕事で近くには来るけど、ゆっくり歩いたことはほとんどない。あかりは?」

「大学のころ、一回来たことがある。あなたと」

 言ってから、少し間があった。

 誠一もあかりも、その続きを出さなかった。

 大学のころ、という言葉は、この二人の間では常に少し特別な重みを持つ。

 その重みを出したくなかったわけではなく、引き出したくなかったわけでもなく、ただそのままにしておいた。


 浅草橋から蔵前に向かって歩いた。

 川の向こうに、遠くスカイツリーが見えた。

 工場跡をリノベーションしたカフェが川沿いにいくつかあって、その一つの前を通るとき、誠一は自然に立ち止まって建物を眺めた。

「職業病?」とあかりが言った。

「そうかも。見てるだけで何も考えてないこともあるけど」

「どう、これは」

「もともとの骨格が面白い。増築部分との接合が荒いけど、その荒さが今はかえって個性になってる」

「荒さが個性になる、というのは建築でよくある?」

「よくあるね。本人が意図してない部分が、後から見ると魅力になってることがある。人間と同じかもしれない」

 あかりはその言葉を聞きながら、歩を進めた。


 大学時代の誠一も、こういうことを言う人だった。

 設計の話と日常の観察が、自分の中でひとつながりになっている。

 その言い方がいつも少し詩的で、でも嫌味がなかった。


「あのラーメン屋、まだあるかな」とあかりは言った。

「どこの?」

「早稲田の近くの。行列が出来てて、いつも四十分待ちで。でもよく二人で並んだやつ」

「まだあると思う。別件で早稲田の近くに行ったとき、外観だけ見た」

「よかった」とあかりは言い、笑った。「潰れてたら悲しいよね、なんとなく」

「なんとなく」

「思い出の場所がなくなると、思い出まで消えそうな気がしない? 気のせいだとわかってるけど」

「わかる」と誠一は言った。

「設計で建物を壊すとき、いつも少し引っかかりがある。そこで過ごした人の時間まで、一緒に壊してしまうような感覚」

「でも新しい場所を作るのが建築家の仕事でしょ」

「だから毎回、壊す前に記録する。写真を何百枚も撮って、採寸して。なくなった後に、記録の中でだけは生き続けられるように」

 あかりは聞きながら、誠一のその習慣が好きだと思った。

 なくなるものを、記録の中で残す。


「あなた、最初の給料で変な時計を買ってたよね」とあかりは言った。

 突然の話題の転換だったが、誠一は驚か様子もなく「ああ」と言った。

「変な、とはひどい」

「だってデカくて重くて、文字盤が読みにくいやつ。結局すぐ使わなくなったじゃない」

「ただ、一目惚れしたから買っただけだ」

「それが変、と言ってるの」

 二人は笑った。

 他愛ない話を、するすると続けていく。

 二十六年分の空白があっても、会話の流れ方はどこか変わっていない。

 むしろ中断があった分、余計な遠慮がなくなっている気すらした。


 蔵前から厩橋まで歩いたところで、誠一が「少し止まろうか」と言った。

 橋の中ほどで欄干に寄りかかって、川を見た。

 日差しが水面に砕けて、無数の光が揺れていた。

 夕方にはまだ少し早い時間で、光は横からではなく斜め上から差し込んでいる。

「こういう景色の中で立ってると、設計のアイデアが浮かんでくることがあってね」と誠一は言った。

「今は?」

「今は別のことを考えてる」

 それ以上は言わなかった。

 あかりも聞かなかった。


 欄干に並んでいると、風が来た。

 あかりの髪が少し動いて、誠一の肩の方へ流れた。

 同時に、誠一が欄干から体をわずかに傾けた。

 それで二人の肩が数センチ、重なった。

 どちらも動かなかった。


 特別なことが起きているわけではない、と誠一は思った。

 上着を重ねて橋に並んでいるだけだ。

 でも、その数センチの接触が——肩から肩へ伝わる体温が——頭の中の何かを静かにしてしまって、誠一はしばらく川を見続けた。


 言葉がない時間が続いた。

 波の音と、遠くの車の音と、何羽かのカモメが上空を通り過ぎる音だけがあった。

 あかりが先に動いた。

 欄干から体を離して、川から視線を外した。

「帰ろうか」

「うん」と誠一は言い、同じように体を離した。


 橋を渡り切って、また二人で歩いた。

 今度は来た道を逆に戻る形で、浅草橋に向かった。

 日差しが傾き始めて、石畳の影が長くなっている。

「今日、楽しかった」とあかりが言った。

 声が、ほんのわずかに震えていた。

 震えていた、と誠一が気づいたのか、気づいていたのに気づかなかったふりをしたのか、どちらかはあかりにはわからなかった。

 誠一は少し間を置いてから「俺も」と言い、それだけだった。


 浅草橋で別れて、誠一は電車に乗った。

 座席に落ち着いて、スマートフォンを取り出したが、何も見なかった。

 橋の上のことを考えていた。

 数センチの接触。

 それだけのことだ。

 二人とも黙ったまま、川を見ていた。

 でも誠一の中で何かがひっそりと動き続けていたのは確かで、それを今すぐ整理するつもりはなかった。


 駅が変わるたびに人が乗り降りして、車内の人口が増減する。

 誠一はそれをぼんやりと見ながら、自分が今何を感じているのかを確かめようとして、しかしうまく言葉が出てこなかった。

 懐かしい、というのとは違う。

 久しぶりに会った古い友人が懐かしい、というときの感覚よりも、もう少し体温のある何かだった。

 それに名前をつけることを、誠一は意識して避けていた。


 自宅の最寄り駅で電車を降りて、夕闇の中を歩いた。

 家の灯りが見えてくる。

 久美子がリビングにいるのが、窓から見えた。

 玄関の鍵を開けて入ると、台所から「あ、おかえり」と声がした。

「今日、楽しかった?」

 それが久美子の声で、夕飯の準備をしながらのごく普通の問いかけだった。

 誠一は一瞬、動けなかった。

「まあ、うん」

「何してたの」

「知り合いと散歩みたいなことを」

「ふうん、いいじゃない。最近ずっと仕事だったから、たまには気分転換も必要よね」

 久美子は振り返りもせずに、野菜を切り続けた。

 責めるでも詮索するでもない、ただの事実認識。

 誠一はそれが今は、罪悪感の形をして腹の中に落ちた。


 罪悪感。

 その名前に、誠一は驚いた。

 何もしていない。

 一緒に歩いて、話して、橋の上で少し肩が触れた。

 それだけだ。

 それなのに、なぜ。

 なぜその感情が出てくるのか——という問いへの答えは、誠一には半分わかっていた。

 その名前を、彼はまだ、認めたくなかった。


 食事の後、翔太が「明日の模試の範囲、終わらないかも」と暗い顔でリビングに出てきた。

 久美子が「じゃあ今夜もう少し頑張ろう」と付き合いに行って、誠一は一人、書斎に入った。

 設計図を広げたが、鉛筆が進まなかった。

 

 川面の光が、頭の後ろに残っている。

 あかりの声が震えていたこと。

「今日、楽しかった」という言葉。


 誠一は消しゴムを取り出して、手の中で転がした。

 それでも何も解決しない、とわかっていながら、その動作をしばらく続けた。

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