第五話 隅田川沿い、夕暮れの橋の上
日曜日の午後二時、浅草橋の駅で待ち合わせた。
誠一は五分前に着いていた。
改札の前で立って、スマートフォンを見ているふりをしていたが、実際には何も見ていなかった。
これが何なのか、と自問する余裕もなく、ただここに立っていた。
あかりが来たのは二時三分だ。
白い薄手のジャケットを羽織り、肩にトートバッグをかけて、ちょうど人波の中から現れた。
歩き方でわかった。
まっすぐ来る、でも急がない、あの歩き方。
「待った?」とあかりが聞いた。
「少し」
「ごめんなさい」
「いい」
並んで改札を出て、隅田川の方へ歩いた。
五月の末の日差しはもう強く、川面に光が砕けて散っている。
川沿いの遊歩道に出ると、家族連れや観光客や犬を連れた老人が、それぞれのペースで歩いていた。
「ここら辺、来たことある?」とあかりが聞いた。
「仕事で近くには来るけど、ゆっくり歩いたことはほとんどない。あかりは?」
「大学のころ、一回来たことがある。あなたと」
言ってから、少し間があった。
誠一もあかりも、その続きを出さなかった。
大学のころ、という言葉は、この二人の間では常に少し特別な重みを持つ。
その重みを出したくなかったわけではなく、引き出したくなかったわけでもなく、ただそのままにしておいた。
浅草橋から蔵前に向かって歩いた。
川の向こうに、遠くスカイツリーが見えた。
工場跡をリノベーションしたカフェが川沿いにいくつかあって、その一つの前を通るとき、誠一は自然に立ち止まって建物を眺めた。
「職業病?」とあかりが言った。
「そうかも。見てるだけで何も考えてないこともあるけど」
「どう、これは」
「もともとの骨格が面白い。増築部分との接合が荒いけど、その荒さが今はかえって個性になってる」
「荒さが個性になる、というのは建築でよくある?」
「よくあるね。本人が意図してない部分が、後から見ると魅力になってることがある。人間と同じかもしれない」
あかりはその言葉を聞きながら、歩を進めた。
大学時代の誠一も、こういうことを言う人だった。
設計の話と日常の観察が、自分の中でひとつながりになっている。
その言い方がいつも少し詩的で、でも嫌味がなかった。
「あのラーメン屋、まだあるかな」とあかりは言った。
「どこの?」
「早稲田の近くの。行列が出来てて、いつも四十分待ちで。でもよく二人で並んだやつ」
「まだあると思う。別件で早稲田の近くに行ったとき、外観だけ見た」
「よかった」とあかりは言い、笑った。「潰れてたら悲しいよね、なんとなく」
「なんとなく」
「思い出の場所がなくなると、思い出まで消えそうな気がしない? 気のせいだとわかってるけど」
「わかる」と誠一は言った。
「設計で建物を壊すとき、いつも少し引っかかりがある。そこで過ごした人の時間まで、一緒に壊してしまうような感覚」
「でも新しい場所を作るのが建築家の仕事でしょ」
「だから毎回、壊す前に記録する。写真を何百枚も撮って、採寸して。なくなった後に、記録の中でだけは生き続けられるように」
あかりは聞きながら、誠一のその習慣が好きだと思った。
なくなるものを、記録の中で残す。
「あなた、最初の給料で変な時計を買ってたよね」とあかりは言った。
突然の話題の転換だったが、誠一は驚か様子もなく「ああ」と言った。
「変な、とはひどい」
「だってデカくて重くて、文字盤が読みにくいやつ。結局すぐ使わなくなったじゃない」
「ただ、一目惚れしたから買っただけだ」
「それが変、と言ってるの」
二人は笑った。
他愛ない話を、するすると続けていく。
二十六年分の空白があっても、会話の流れ方はどこか変わっていない。
むしろ中断があった分、余計な遠慮がなくなっている気すらした。
蔵前から厩橋まで歩いたところで、誠一が「少し止まろうか」と言った。
橋の中ほどで欄干に寄りかかって、川を見た。
日差しが水面に砕けて、無数の光が揺れていた。
夕方にはまだ少し早い時間で、光は横からではなく斜め上から差し込んでいる。
「こういう景色の中で立ってると、設計のアイデアが浮かんでくることがあってね」と誠一は言った。
「今は?」
「今は別のことを考えてる」
それ以上は言わなかった。
あかりも聞かなかった。
欄干に並んでいると、風が来た。
あかりの髪が少し動いて、誠一の肩の方へ流れた。
同時に、誠一が欄干から体をわずかに傾けた。
それで二人の肩が数センチ、重なった。
どちらも動かなかった。
特別なことが起きているわけではない、と誠一は思った。
上着を重ねて橋に並んでいるだけだ。
でも、その数センチの接触が——肩から肩へ伝わる体温が——頭の中の何かを静かにしてしまって、誠一はしばらく川を見続けた。
言葉がない時間が続いた。
波の音と、遠くの車の音と、何羽かのカモメが上空を通り過ぎる音だけがあった。
あかりが先に動いた。
欄干から体を離して、川から視線を外した。
「帰ろうか」
「うん」と誠一は言い、同じように体を離した。
橋を渡り切って、また二人で歩いた。
今度は来た道を逆に戻る形で、浅草橋に向かった。
日差しが傾き始めて、石畳の影が長くなっている。
「今日、楽しかった」とあかりが言った。
声が、ほんのわずかに震えていた。
震えていた、と誠一が気づいたのか、気づいていたのに気づかなかったふりをしたのか、どちらかはあかりにはわからなかった。
誠一は少し間を置いてから「俺も」と言い、それだけだった。
浅草橋で別れて、誠一は電車に乗った。
座席に落ち着いて、スマートフォンを取り出したが、何も見なかった。
橋の上のことを考えていた。
数センチの接触。
それだけのことだ。
二人とも黙ったまま、川を見ていた。
でも誠一の中で何かがひっそりと動き続けていたのは確かで、それを今すぐ整理するつもりはなかった。
駅が変わるたびに人が乗り降りして、車内の人口が増減する。
誠一はそれをぼんやりと見ながら、自分が今何を感じているのかを確かめようとして、しかしうまく言葉が出てこなかった。
懐かしい、というのとは違う。
久しぶりに会った古い友人が懐かしい、というときの感覚よりも、もう少し体温のある何かだった。
それに名前をつけることを、誠一は意識して避けていた。
自宅の最寄り駅で電車を降りて、夕闇の中を歩いた。
家の灯りが見えてくる。
久美子がリビングにいるのが、窓から見えた。
玄関の鍵を開けて入ると、台所から「あ、おかえり」と声がした。
「今日、楽しかった?」
それが久美子の声で、夕飯の準備をしながらのごく普通の問いかけだった。
誠一は一瞬、動けなかった。
「まあ、うん」
「何してたの」
「知り合いと散歩みたいなことを」
「ふうん、いいじゃない。最近ずっと仕事だったから、たまには気分転換も必要よね」
久美子は振り返りもせずに、野菜を切り続けた。
責めるでも詮索するでもない、ただの事実認識。
誠一はそれが今は、罪悪感の形をして腹の中に落ちた。
罪悪感。
その名前に、誠一は驚いた。
何もしていない。
一緒に歩いて、話して、橋の上で少し肩が触れた。
それだけだ。
それなのに、なぜ。
なぜその感情が出てくるのか——という問いへの答えは、誠一には半分わかっていた。
その名前を、彼はまだ、認めたくなかった。
食事の後、翔太が「明日の模試の範囲、終わらないかも」と暗い顔でリビングに出てきた。
久美子が「じゃあ今夜もう少し頑張ろう」と付き合いに行って、誠一は一人、書斎に入った。
設計図を広げたが、鉛筆が進まなかった。
川面の光が、頭の後ろに残っている。
あかりの声が震えていたこと。
「今日、楽しかった」という言葉。
誠一は消しゴムを取り出して、手の中で転がした。
それでも何も解決しない、とわかっていながら、その動作をしばらく続けた。




