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「春の残像」  「好きじゃなくなった」は嘘だった。二十六年後、あなたの設計した式場に、私の花を飾る日が来るとは思わなかった  作者: かーすけ
春 ──出会い直しの季節──

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第四話 桜の散るころ

 四月に入って、神楽坂の坂の上の桜が咲いた。


 あかりは朝、麻衣を学校に送り出してから花屋に来る。

 電車で二駅、三月のうちは寒くて首をすくめながら歩いていた道が、四月になってからは空気のやわらかさが変わった。

 コートを一枚薄くできる季節。

 街に人が増えて、カフェの前に花の鉢植えが並び始め、そういった変化がひとつひとつ積み重なって春になる。


 康介の精密検査の結果は「要再検査」だった。

 要再検査、というのは「異常なし」ではないが「確定診断」でもない。

 宙ぶらりんな言葉だ、とあかりは思った。

 白か黒かではなくグレーで、その灰色の濃さがどのくらいなのか、次の検査まではわからない。

 康介自身は「あまり心配しすぎないで」と言ったが、その言い方がいつもより穏やかすぎて、あかりにはかえって不安だった。


 医師というのは、患者の家族に向かって「心配しすぎないで」と言う。

 それが自分自身のこととなったとき、同じ言葉を使うのは、職業上の習い性なのか、それとも本当に大丈夫だと信じているからなのか。

 判断できなかった。


 週に一度のコーヒーが、あかりと誠一の間で定着したのは、誰かが「定期的に会いましょう」と提案したわけではなく、ただ気づいたらそうなっていた。

 誠一が現場調査に来る日の夕方、閉店後に喫茶店に寄る。

 そのパターンが三月の末から続いている。

 連絡をするのはあかりからの場合が多かった。

「今日は六時に上がります」とLINEを送ると、誠一は「わかった」か「行きます」と返した。

 それだけで場所と時間が決まる。


 四月の最初の週、二人は久しぶりに神楽坂の外を歩くことにした。

 誠一が「桜を見に行きませんか」と誘ったのだ。

 いつもの喫茶店のカウンターではなく、外の空気の中で話しましょう、という意味だった。


 飯田橋から外堀沿いに歩くと、両岸に桜並木が続いている。

 夕方の光の中で花びらが風に動いていた。

 人出は多かったが、二人は人の流れに逆らわずにゆっくりと歩いた。

「毎年ここに来るの?」と誠一が聞いた。

「一人で来ることはないかな。娘と来ることが多かった。小さいころは」

「今は来ない?」

「麻衣はもう高校生だから、お母さんと花見しようとはならないよね、さすがに」とあかりは笑った。

「康介と来たこともあるけど、彼は花よりビールの人だから」

「俺もそっちかもしれない」

「建築家なのに」

「建築家だからって花好きになるわけじゃない」

 並んで歩きながら、二人は時々小さく笑った。

 空気は温く、花びらが時おり二人の肩に落ちた。

 あかりはそれを払わずにおいた。


 外堀の端で立ち止まり、水面に映る桜を見ていると、誠一が不意に口を開いた。

「あのとき、なんで別れたの?」

 あかりは動かなかった。

 問いの意味は、首を動かさなくてもわかった。

 二十六年前の話だ。

 唐突に見えるが、この問いがいつか来るだろうということは、三月の最初の再会のときからあかりの中にあった。

「……もう昔の話だよ」

 と言った。

 自分の声が少し低くなっているのがわかった。

「うん、昔の話だ」と誠一は言った。

「だから聞いているのかもしれない。今じゃなくて、昔の話として」


 あかりは水面を見ながら、何かを言わなければならない、という気持ちと、何も言いたくない、という気持ちが同時にあった。

「理由がなかったわけじゃないよ」

「知ってる」と誠一は言った。

「なんとなく、知ってる」

 それが意外だった。

 知ってる、と言いながら、誠一の声に詰問する気配はなかった。

 ただ事実として、ある程度わかっていた、と言っているように聞こえた。


「どこまで知ってるの」

「父が会社を潰したころ、あかりの家から何か言われたんじゃないかと、ずっと思ってた。確証はないけど、タイミングが合いすぎた」

 あかりは息を飲んだ。

「でも確かめなかった」と誠一は続けた。

「確かめなかったのは、俺の方の問題で、それは今も後悔してる」

「……後悔してるの、今でも」

「している」


 間があった。

 水面の桜が揺れた。

 花びらが一枚、あかりの肩に止まって、すぐに風で飛んだ。

 真実を話してしまおうか、と思った。

 あのとき両親に何を言われたか、自分がなぜ「嫌いになった」という嘘をついたか。

 話せば楽になる気がした。

 でも同時に、話してしまうことが何かを変えてしまう気もした。

 今の現実に、何か亀裂が入るような。


「……今日は、まだちゃんと話せない」

 あかりは率直に言った。

「うん」と誠一は短く答えた。

 責めるでも催促するでもなく、ただそう返した。

 その「うん」の柔らかさに、あかりは却って胸が痛くなった。

 怒ってくれた方が、まだ楽だったかもしれない。


 しばらく黙って、並んで水面を見ていた。

 花びらが水に落ちて、ゆっくりと流れていく。

「帰ろうか」とあかりが言い、二人は踵を返した。

 帰り道、また桜並木の下を歩いた。

 行きよりも花びらが落ち始めていて、足元の石畳に薄く積もっていた。

 誠一はあかりのやや後ろを歩いていた。

 追い越すでも遅れるでもなく、同じ歩幅を保ちながら。


 飯田橋の駅で別れた。

 改札に向かう途中、あかりは振り返ってしまった。

 誠一はまだ改札の前に立っていて、あかりの方を見ていた。

 目が合った。

 どちらも何も言わなかった。

 あかりは先に改札を抜けた。


 電車の中で、あかりは窓に頭を寄せた。

 外の景色が流れていく。

 駅のホームが来て、また流れる。


 大学三年の冬、両親に呼ばれて実家に帰ったとき、父は落ち着いた声で「諸田家の現況について調べた」と言った。

 父は九州の旧家の当主で、穏やかな人だったが、家の格と縁談に関してだけは別の顔を持っていた。

 「あの子の父親は会社を潰した。借金の規模もわかっている。娘をそういう家に縁づかせるわけにはいかない」。

 あかりは反論した。

 誠一の才能について、誠一が建築というものをどれほど真剣に考えているかについて、話せるだけ話した。

 父は最後に、静かにこう言った。

 「あの子の将来を本当に考えるなら、今別れてやりなさい。うちと縁を持ったことで、あの子が傷つく。わかるだろう」

 その言葉が、あかりを封じた。


 誠一への思いは本物だった。

 本物だったから、父の言葉が刺さった。

 誠一の将来を守るために、誠一を傷つけない別れ方を選ぶ。

 女の側が黙って去るのが、最もきれいな形だ——少なくとも、当時の自分はそう信じた。

 だから「嫌いになった」と言った。

 あの嘘は、言った瞬間から自分の胸に刺さったまま、抜けたことがない。


 電車が大きく揺れた。あかりは窓に押し付けていた頭を離した。

 まだ言えなかった。

 今日の誠一の「うん」が頭に残っている。

 あの穏やかな「うん」。あれは許しだったのか、それとも単に待つという意思表示だったのか。

 スマートフォンが震えた。

 LINEの通知。

 誠一からだった。

「また来てもいいですか」

 それだけだった。

 あかりはしばらく画面を見ていた。

「はい」と打つのは簡単だった。

「どうぞ」でも「もちろん」でも、どれでも通じる返事は書ける。

 でも、何かを踏み越えてしまうような気もした。

 踏み越えるというのが何を指しているのか、自分でもまだよくわからなかった。


 五月に入るころから、神楽坂には観光客が増え始める。

 石畳の路地を歩き、料亭の前で写真を撮り、神社に寄って、また戻る。

 そういう人たちを横目に、あかりは毎朝花屋の扉を開けた。


 誠一の現場は着工が決まって、工務店との調整が始まったと、ある日の喫茶店で聞いた。

 クライアントの要望が途中で少し変わって、対応するのに苦労している、とも。

 でも誠一の声は、困惑しながらも、仕事の熱を帯びていた。

 好きなことをしている人間の声だ、とあかりは思った。


 初夏の訪れとともに、誠一から一通のメッセージが届いた。

「今度の日曜、少し時間ありますか」

 今度は、花屋への立ち寄りではなく、予定を合わせて会おう、という誘いだった。

 あかりはその文面を何度か読み返して、それから返信した。

「ある」

 一語きりで、十分だった。

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