第四話 桜の散るころ
四月に入って、神楽坂の坂の上の桜が咲いた。
あかりは朝、麻衣を学校に送り出してから花屋に来る。
電車で二駅、三月のうちは寒くて首をすくめながら歩いていた道が、四月になってからは空気のやわらかさが変わった。
コートを一枚薄くできる季節。
街に人が増えて、カフェの前に花の鉢植えが並び始め、そういった変化がひとつひとつ積み重なって春になる。
康介の精密検査の結果は「要再検査」だった。
要再検査、というのは「異常なし」ではないが「確定診断」でもない。
宙ぶらりんな言葉だ、とあかりは思った。
白か黒かではなくグレーで、その灰色の濃さがどのくらいなのか、次の検査まではわからない。
康介自身は「あまり心配しすぎないで」と言ったが、その言い方がいつもより穏やかすぎて、あかりにはかえって不安だった。
医師というのは、患者の家族に向かって「心配しすぎないで」と言う。
それが自分自身のこととなったとき、同じ言葉を使うのは、職業上の習い性なのか、それとも本当に大丈夫だと信じているからなのか。
判断できなかった。
週に一度のコーヒーが、あかりと誠一の間で定着したのは、誰かが「定期的に会いましょう」と提案したわけではなく、ただ気づいたらそうなっていた。
誠一が現場調査に来る日の夕方、閉店後に喫茶店に寄る。
そのパターンが三月の末から続いている。
連絡をするのはあかりからの場合が多かった。
「今日は六時に上がります」とLINEを送ると、誠一は「わかった」か「行きます」と返した。
それだけで場所と時間が決まる。
四月の最初の週、二人は久しぶりに神楽坂の外を歩くことにした。
誠一が「桜を見に行きませんか」と誘ったのだ。
いつもの喫茶店のカウンターではなく、外の空気の中で話しましょう、という意味だった。
飯田橋から外堀沿いに歩くと、両岸に桜並木が続いている。
夕方の光の中で花びらが風に動いていた。
人出は多かったが、二人は人の流れに逆らわずにゆっくりと歩いた。
「毎年ここに来るの?」と誠一が聞いた。
「一人で来ることはないかな。娘と来ることが多かった。小さいころは」
「今は来ない?」
「麻衣はもう高校生だから、お母さんと花見しようとはならないよね、さすがに」とあかりは笑った。
「康介と来たこともあるけど、彼は花よりビールの人だから」
「俺もそっちかもしれない」
「建築家なのに」
「建築家だからって花好きになるわけじゃない」
並んで歩きながら、二人は時々小さく笑った。
空気は温く、花びらが時おり二人の肩に落ちた。
あかりはそれを払わずにおいた。
外堀の端で立ち止まり、水面に映る桜を見ていると、誠一が不意に口を開いた。
「あのとき、なんで別れたの?」
あかりは動かなかった。
問いの意味は、首を動かさなくてもわかった。
二十六年前の話だ。
唐突に見えるが、この問いがいつか来るだろうということは、三月の最初の再会のときからあかりの中にあった。
「……もう昔の話だよ」
と言った。
自分の声が少し低くなっているのがわかった。
「うん、昔の話だ」と誠一は言った。
「だから聞いているのかもしれない。今じゃなくて、昔の話として」
あかりは水面を見ながら、何かを言わなければならない、という気持ちと、何も言いたくない、という気持ちが同時にあった。
「理由がなかったわけじゃないよ」
「知ってる」と誠一は言った。
「なんとなく、知ってる」
それが意外だった。
知ってる、と言いながら、誠一の声に詰問する気配はなかった。
ただ事実として、ある程度わかっていた、と言っているように聞こえた。
「どこまで知ってるの」
「父が会社を潰したころ、あかりの家から何か言われたんじゃないかと、ずっと思ってた。確証はないけど、タイミングが合いすぎた」
あかりは息を飲んだ。
「でも確かめなかった」と誠一は続けた。
「確かめなかったのは、俺の方の問題で、それは今も後悔してる」
「……後悔してるの、今でも」
「している」
間があった。
水面の桜が揺れた。
花びらが一枚、あかりの肩に止まって、すぐに風で飛んだ。
真実を話してしまおうか、と思った。
あのとき両親に何を言われたか、自分がなぜ「嫌いになった」という嘘をついたか。
話せば楽になる気がした。
でも同時に、話してしまうことが何かを変えてしまう気もした。
今の現実に、何か亀裂が入るような。
「……今日は、まだちゃんと話せない」
あかりは率直に言った。
「うん」と誠一は短く答えた。
責めるでも催促するでもなく、ただそう返した。
その「うん」の柔らかさに、あかりは却って胸が痛くなった。
怒ってくれた方が、まだ楽だったかもしれない。
しばらく黙って、並んで水面を見ていた。
花びらが水に落ちて、ゆっくりと流れていく。
「帰ろうか」とあかりが言い、二人は踵を返した。
帰り道、また桜並木の下を歩いた。
行きよりも花びらが落ち始めていて、足元の石畳に薄く積もっていた。
誠一はあかりのやや後ろを歩いていた。
追い越すでも遅れるでもなく、同じ歩幅を保ちながら。
飯田橋の駅で別れた。
改札に向かう途中、あかりは振り返ってしまった。
誠一はまだ改札の前に立っていて、あかりの方を見ていた。
目が合った。
どちらも何も言わなかった。
あかりは先に改札を抜けた。
電車の中で、あかりは窓に頭を寄せた。
外の景色が流れていく。
駅のホームが来て、また流れる。
大学三年の冬、両親に呼ばれて実家に帰ったとき、父は落ち着いた声で「諸田家の現況について調べた」と言った。
父は九州の旧家の当主で、穏やかな人だったが、家の格と縁談に関してだけは別の顔を持っていた。
「あの子の父親は会社を潰した。借金の規模もわかっている。娘をそういう家に縁づかせるわけにはいかない」。
あかりは反論した。
誠一の才能について、誠一が建築というものをどれほど真剣に考えているかについて、話せるだけ話した。
父は最後に、静かにこう言った。
「あの子の将来を本当に考えるなら、今別れてやりなさい。うちと縁を持ったことで、あの子が傷つく。わかるだろう」
その言葉が、あかりを封じた。
誠一への思いは本物だった。
本物だったから、父の言葉が刺さった。
誠一の将来を守るために、誠一を傷つけない別れ方を選ぶ。
女の側が黙って去るのが、最もきれいな形だ——少なくとも、当時の自分はそう信じた。
だから「嫌いになった」と言った。
あの嘘は、言った瞬間から自分の胸に刺さったまま、抜けたことがない。
電車が大きく揺れた。あかりは窓に押し付けていた頭を離した。
まだ言えなかった。
今日の誠一の「うん」が頭に残っている。
あの穏やかな「うん」。あれは許しだったのか、それとも単に待つという意思表示だったのか。
スマートフォンが震えた。
LINEの通知。
誠一からだった。
「また来てもいいですか」
それだけだった。
あかりはしばらく画面を見ていた。
「はい」と打つのは簡単だった。
「どうぞ」でも「もちろん」でも、どれでも通じる返事は書ける。
でも、何かを踏み越えてしまうような気もした。
踏み越えるというのが何を指しているのか、自分でもまだよくわからなかった。
五月に入るころから、神楽坂には観光客が増え始める。
石畳の路地を歩き、料亭の前で写真を撮り、神社に寄って、また戻る。
そういう人たちを横目に、あかりは毎朝花屋の扉を開けた。
誠一の現場は着工が決まって、工務店との調整が始まったと、ある日の喫茶店で聞いた。
クライアントの要望が途中で少し変わって、対応するのに苦労している、とも。
でも誠一の声は、困惑しながらも、仕事の熱を帯びていた。
好きなことをしている人間の声だ、とあかりは思った。
初夏の訪れとともに、誠一から一通のメッセージが届いた。
「今度の日曜、少し時間ありますか」
今度は、花屋への立ち寄りではなく、予定を合わせて会おう、という誘いだった。
あかりはその文面を何度か読み返して、それから返信した。
「ある」
一語きりで、十分だった。




