第三話 haruのカウンターで
扉を押したのは、衝動というより慣性だった、とあかりは後から思う。
あの人は入ってくるだろうか、と頭のどこかで考えていた。
先週の再会から、一週間が経っていた。
この路地を現場に通うと言っていたから、また歩いているはずだ。
歩いていれば、窓から見えることもある。
見えて、足が止まることもあるかもしれない。
そこまで考えて、あかりは自分を笑った。
何を期待しているのか。
二十六年ぶりに路地で再会して、それで何になる。
二人とも所帯を持ち、それぞれの生活がある。
誠一がこの花屋に立ち寄る理由は、業務上の接点がある場合に限られる——正確には、そういうふうにあるべきだ。
あかりは作業台の上で、スプレーバラとスカビオサをまとめようとしていた。
今日は夕方に結婚記念日のお祝い用のアレンジメントを取りに来るお客様がいる。
白とクリーム色を基調にした、控えめで品のある束。
あかりの得意ないつかの色使いだ。
扉が開いたのは、午後三時少し前だった。
ベルが鳴って、あかりは「いらっしゃいませ」と言いかけて、口の中で台詞が止まった。
諸田誠一が扉の前に立っていた。
コートの上にマフラーを巻き、クリップボードを手に持っている。
少しだけ驚いたような顔をしていたが、それはあかりを見たせいというより、自分がここに立っていることへの驚きのように見えた。
「……いらっしゃい」
あかりは続きを言い直した。
プロの顔に戻る前に、少しだけ笑いが先に出てしまって、それを誠一も見ていた。
「花を買いに来た」と誠一は言った。
「そうですか」とあかりはとりあえず言ってから、「何のために?」と聞いた。
「花束を一つ。贈るために」
「誰に贈るの?」
あかりの口から出た「誰に」という問いが、少し直接すぎたかもしれない、とすぐに思った。
でも誠一は別に気にした様子もなく、しばらく考えてから答えた。
「妻に、かな。特に理由はないけど」
「特に理由がないのに花を贈るのは、素敵だと思う」
「そうですか」
「そうですよ」
二人は少し笑った。
プロとお客様の距離と、旧い知人の距離が混在した、変な笑い方だった。
あかりはカウンターから出て、冷蔵ケースの前に立った。
「どんな雰囲気がいい? 明るい感じ、それとも落ち着いた感じ」
「落ち着いた方が……妻の好みに合うと思う」
「色は?」
「白か、それに近い色で」
「わかった。一本選んで、見てもらってから決めよう」
あかりはケースの扉を開けて、几本かを取り出して誠一の前に並べた。
スカビオサ、アストランティア、白いスプレーカーネーション、小さなラナンキュラス。
それぞれに説明を添えて見せると、誠一は真剣な顔で一本ずつを見た。
その真剣さが少しおかしかったが、あかりは笑わなかった。
仕事の顔で待った。
「このスカビオサ、というやつは」と誠一が言った。
「薄い紫がかった白、でしょ」
「うん。これが好きかもしれない。なんか、清楚というか」
「花言葉、知りたい?」
「知っていいやつ?」
あかりは一瞬、口を閉じた。
スカビオサの花言葉は「私はすべてを失った」「不幸な愛」。
そのほかに「清楚な乙女」「風情」という意味も持つが、最初に浮かぶのはいつも、あの陰のある言葉だ。
妻に贈る花束に「私はすべてを失った」を選んだ男、という構図になってしまう。
「明るいやつだけ言うと、清楚な乙女とか、風情ある、とかかな」
「じゃあそっちで覚えておく」
誠一はまっすぐに返した。
あかりはスカビオサを一本取り分けて、他のものと組み合わせを考え始めた。
作業中、会話が続いた。
「お花って、どんな気持ちのときに贈るの」とあかりは聞いた。
純粋な疑問だったが、同時に誠一がどう答えるか、少し気になっていた。
「謝るとき……かな」と誠一は言った。
あかりは手を止めずに、でも耳はよく立てていた。
「あとは、ありがとうを言えなかったとき」
「言えなかったとき、というのは?」
「面と向かって言えないから、花に代わりに言ってもらう、みたいな」
「代弁」
「そう」
あかりは再び手を動かしながら、その答えを噛み締めていた。
面と向かって言えない感情を、花が代わりに運ぶ。
自分が毎日やっていることの本質を、誠一は初めて花を買いに来た日に、さらりと言葉にしてみせた。
「建築家っぽくない答えだね」とあかりは言った。
「そうですか」
「もっとこう、機能とか素材とかで選ぶのかと思ってた」
「花を選ぶ基準と建築を考えるのは、あまり変わらない気がする。何をその空間に満たしたいか、という話だから」
あかりは顔を上げて誠一を見た。
誠一は少し照れたように目を逸らした。
「詩人みたいなこと言う」
「言いすぎた」
「いや、いいと思う。本気でそう思ってるんでしょ」
「……まあ」
誠一が「まあ」と言うとき、口元が少しだけ動く。
あかりはそれを覚えていた。
大学のころも、誠一は本当のことを言うとき少し照れて、「まあ」とか「そうかも」とか付け加えた。
その癖が、二十六年経っても残っているのか、と思うと、あかりの胸の奥で何か柔らかいものが動いた。
三十分ほどで束が完成した。
白のスカビオサを中心に、小さなアストランティアと緑のユーカリを添えた、静かな花束だった。
「素敵だと思う」とあかりは言い、ラッピングに入りながら付け加えた。
「奥さん、喜ぶと思うよ、きっと」
「そうだといいけど」と誠一は言った。
どちらともとれる返し方だった。
支払いを終えてもうすぐ帰る、という雰囲気になったとき、あかりは自分でも予期せず口を開いていた。
「今日、この後、予定ある? 六時に閉めるけど、もしよかったらコーヒーくらい飲んでいく? このへんに話しやすい喫茶店があるから」
言ってから、余計なことを言ったかもしれない、と思った。
でも取り消す前に誠一が「今日は事務所に寄らなくていい日だから」と答えていた。
喫茶店は花屋から二分ほどのところにあった。
いつも使う小さな店で、マスターが一人でやっている。
カウンターに四席、テーブルが二つ。
夕方の時間帯は空いていることが多い。
誠一は窓際の席に座って、コーヒーを頼んだ。
あかりはカフェオレを注文し、マフラーを外してカウンターの脇にかけた。
「ここ、よく来るの」と誠一が聞いた。
「週に二、三回。考えごとというか、一人になりたいとき」
「この仕事って、一人になる時間が少ないの?」
「一人でやる作業は多いけど、お客さんと向き合う時間が多くてね。人の感情を扱う仕事だから、少し消耗する」
「花を贈る側の気持ちを読む、ということ?」
「そう。何を伝えたいのか、誰に贈るのか、その人との関係は。言葉にしてくれる人ばかりじゃないから、話を引き出しながら考える」
「それはたしかに、消耗しそうだ」
「でも使いがいがある疲れ方なんだよね。意味が感じられる消耗というか」
誠一は頷いた。
同意の頷き方に見えた。
「建築もそういうところはある」と誠一は言った。
「クライアントの言葉と、クライアントが本当に望んでいるものは、だいたいずれてる。そのずれを埋めるのが仕事みたいなところがある」
「似てるね」
「思ってたより近い仕事かもしれない」
コーヒーが来て、二人は少しの間黙って飲んだ。
その沈黙が、不思議と苦ではなかった。
二十六年ぶりに再会した人間と飲むコーヒーにしては、妙に穏やかな間だ、とあかりは思った。
積もる話、という表現が頭に浮かんだが、実際には積もっているのか積もっていないのかよくわからなかった。
二十六年分だから積もっているはずなのに、互いにどこかからどこかまで話したいという気配がない。
ただ、ここにいる、ということが、すでに何かを言っているような気がした。
「翔太くんだっけ、息子さん」とあかりは言った。
「ああ。今、本当に追い詰められてるから、家の空気も張り詰めてて」
「受験って親も大変だよね。何もできないのに心配だけしてる感じ」
「まさにそれ。久美子は全力でサポートしてるけど、俺は何をしていいかわからなくて、最近は仕事に逃げてる感じがある」
「逃げてるって、思ってるんだ」
「思ってる」
誠一は素直に言った。
あかりは少し驚いた。
自分を責めるような言い方ではなく、事実として認識している、という言い方だった。
「麻衣は去年まで大変だったけど、今は落ち着いた。あの時期って本当に、子供に対して何か言うたびに正解か不正解かわからなくて、疲れたよ」
「今はどう、娘さんと」
「仲良いと思う。ようやくね。去年の秋ごろから急に話しかけてくれるようになって、先週も一緒に花の仕入れに行った」
「そういう変化が来るんだね」と誠一は言い、窓の外を少し見た。
「翔太も、来るのかな」
「来ると思うよ」
あかりは確信を持って言った。
子供というのは、ちゃんと変わる。
ただ親の思うより時間がかかるだけで。
会話はひとしきり続き、コーヒーカップが空になったころ、誠一が時計を見た。
「そろそろ失礼します。今日は、ありがとう」
「こちらこそ。また来てよ、お客さんとして」
「次は自分のためにじゃなくて?」と誠一は聞いた。
「自分のためにでもいいよ。謝るとき用じゃなくて、ただ部屋に飾りたいとき用」
誠一は少し笑って、花束を持って立ち上がった。
会計を済ませて、店を出た。
あかりは一人残って、もう一杯カフェオレを頼んだ。
窓の外を人が歩いていく。
夕暮れが始まっていた。
帰ったら康介に夕食を作らなければならない。
今週から仕事に復帰した康介は、まだ体力が戻り切っていないから、消化のいいものを考えている。
そういう考えが自然と頭に浮かぶことが、あかりには大事だった。
スカビオサの花言葉——「私はすべてを失った」。
誠一に言わなかった、あの言葉の裏側にあるものを、あかりはひとりで抱えた。
誠一が「謝るとき……かな」と答えたとき、あかりの胸がざわりとした。
謝る。
誰に。
何を。
答えは出ない問いだ、と自分に言い聞かせてカフェオレを飲んだ。
でも、胸のざわりは、なかなか鎮まらなかった。
その夜、文京区のマンションに帰ると、康介が珍しく先に帰っていた。
テーブルの上に、白菜と豚肉の鍋の準備がしてある。
「今日は俺が作ろうと思って」と康介は言い、あかりの顔を見て「疲れた?」と聞いた。
「ちょっとね」とあかりは言い、鍋を一緒に囲んだ。
湯気が上がる中で、康介は「最近、俺、大事なことをちゃんと言ってなかったと思って」と言い、少し照れた顔をした。
「検査の結果でいろいろ動揺してたから、あかりのことを心配させちゃってたよな。ちゃんと病院付き合ってもらったし、ありがとう」
あかりは鍋の中を見ながら、頷いた。
康介が「精密検査、来週また行ってくるよ。大丈夫だと思うけど」と付け加えた声が、ほんの少し不安げだった。
大丈夫だと思うけど。
その言い方が、かえってあかりには引っかかった。
大丈夫だ、ではなく、大丈夫だと思うけど。




