第二話 写真一枚と、積もった年月
写真は机の上に置いたままだった。
翌朝、事務所に来た誠一が最初に目に入れたのも、それだった。
昨夜の段ボール箱の整理の途中で出てきたあれを、事務所に戻る前にポケットに入れてきてしまったのだ。
帰宅してから気づいて、翌朝また持ってきた。
自宅の書斎に置いていくことが、なぜかできなかった。
写真の中の二人は、ただ笑っている。
学祭の日の空は晴れていて、背景に白いテントと人の頭が見える。
誠一は当時の服装まで覚えていない。
ただ自分の左肩があかりの右肩と触れている、
その数センチの近さが、今になっては鮮明だった。
二十六年。
誠一は椅子に座って写真を見ながら、その数字を頭の中で転がした。
人の一生のうち、どのくらいに相当する時間か。
生まれてから二十六年、というのと、二十年以上を生きた後の二十六年とでは、密度が違う気がした。
前者は世界のすべてで、後者は長く続く日常の束だ。
所員たちが出勤してきた。
誠一は写真を引き出しの中にしまって、仕事の顔を作った。
午前中は会議と打ち合わせで潰れ、昼は弁当を食べながら見積書を確認した。
午後、神楽坂の現場に関する法規上のチェックリストを所員に依頼し、自分は来月の別件のプレゼン資料を整えた。
夕方、クライアントとの電話を一本こなし、設計士仲間との短いオンラインミーティングを終えると、もう七時を過ぎていた。
所員が帰り、また一人になった。
誠一は引き出しを開けて、写真を取り出した。
こんなことをしている、と自分でも半分呆れながら、でも手が止まらなかった。
三月の神楽坂。
路地の角。
花の匂い。
高瀬あかりと最後に会ったのは、大学三年生の十二月だった。
正確には忘れても、季節だけははっきり覚えている。
夕方の薄暗さの中で、あかりは「好きじゃなくなった」と言った。
それだけだった。
理由も、経緯も、なかった。
あの言葉を受け取ったとき、誠一の内側で何かが音を立てて崩れたのを覚えている。
崩れる、というより、抜ける、という感覚に近かった。
床が一枚消えたような。
それでも誰かに吐き出すことができず、帰りの電車でただじっと窓の外を見ていた。
なぜ、とは聞けなかった。
おそらく、答えが怖かった。
なぜを問えば、もっと具体的な理由が返ってきて、もっと深く傷つくかもしれない。
若い誠一の対処法は、問わないことだった。
沈黙の中に全部を詰め込んで、蓋をした。
就職、最初の勤務先の激務、転職、そして独立。
仕事だけが確かなものとして手元にあった時代が続いた。
久美子と出会ったのは三十二のときで、二年後に結婚した。
真面目で穏やかな人だった。
一緒にいると落ち着いた。
情熱とは違う、別の確かさがある、と誠一は感じていた。
翔太が生まれ、事務所が軌道に乗り、世田谷に家を買った。
そういう人生を、誠一は「悪くない」と思っていた。
思い続けていた。四十を越えたあたりから、その言葉が少し虚ろに聞こえることがあった。
悪くない、というのはつまり、積極的に「いい」とは言えない、ということでもある。
気づいたとき、誠一はその考えを即座に打ち消した。
贅沢だ。
仕事があって、家族がいる。
それで十分だ。
打ち消しながら、でも、何かが空洞だという感覚は消えなかった。
その夜、誠一は久々に村田哲に電話した。
村田は大学の同期で、今は横浜で設計事務所を構えている。
学生時代から互いの仕事ぶりを知っていて、年に二、三回は飲む仲だ。
電話に出た村田は「珍しいな、夜に電話してくるなんて」と笑った。
「仕事の相談かと思ったら、声が違うな。どうした」
村田の観察眼は相変わらずだ、と誠一は思った。
「神楽坂で仕事が始まった」と誠一は言った。
「式場のリノベーション」
「ああ、聞いた。面白そうな案件じゃないか」
「現地調査に行ったとき、偶然、高瀬あかりに会った」
電話の向こうで、村田がわずかに間を置いた。
「……高瀬さん? お前の昔の彼女か」
「うん」
「それは……まあ、なんというか。元気そうだったか」
「花屋をやってた。神楽坂で」
「そうか。今は? 家族とか」
「旦那がいて、子供も一人」
「お前と同じか」
「似たようなもんだ」
また間があった。
村田はおそらく、何を言えばいいか測っているのだろう。
「どんな顔してた?」と村田は聞いた。
「どんなって……普通だった。びっくりはしてたけど、落ち着いてた」
「お前は?」
「俺も。たぶん」
「たぶん、か」と村田は笑った。
「じゃあ落ち着いてなかったんだろうな」
図星だった。
でも否定する言葉も出てこない。
「お前、まだ引きずってるの?」と村田が言った。
揶揄するような口調ではなく、確認するような声だった。
「引きずってるとは違う」
「じゃあなんで俺に電話した」
诚一には、すぐには答えられなかった。
「……昔の話、知ってる人間と話したかったのかもしれない」
「昔の話、ね」と村田は繰り返した。
「まあ俺は別に構わないけど。二人が付き合ってたの、うちのゼミで俺しか知らなかったんだから、話せる相手も俺しかいないわな」
「ああ」
「で、どうするんだ。また会うのか」
「会うというか……仕事で半年は通うし、彼女の花屋が近くにあるから、たまたま会うことはあると思う」
「たまたま、な」と村田はまた笑った。
含みのある笑いだった。
「まあ俺には何も言う立場じゃないけど、誠一、お前は真面目すぎるからな。自分の気持ちに気づいてから一番最後に動くタイプだから」
「動く話じゃない」と誠一は言った。
「わかってる。ただな、一回会っただけで俺に電話してくるくらいは揺れてる、それだけは覚えとけ」
その言葉が終わって、誠一は返せなかった。
「仕事、うまくいくといいな」と村田は言い足した。
「式場のデザイン、このあいだ見せてもらったスケッチ、いい感じだったぞ。お前の仕事は信じてる」
「ありがとう」
「飲みに行こうぜ、そのうち」
そう言って通話は終わった。
誠一はスマートフォンを置いて、しばらく天井を見ていた。
自宅の書斎に帰ったのは夜の十時を過ぎていた。
久美子はリビングでドラマを見ていて、誠一が帰ると「ご飯、温めようか」と立ち上がりかけた。
「いい、自分でやる」と誠一は言い、台所で冷蔵庫の残り物を適当に温めた。
妻がリビングに戻り、ドラマの続きを見ている。
その音が台所まで聞こえてくる。
食べながら、誠一は台所の窓の外を見た。
夜の庭は暗く、何も見えない。
久美子との生活に不満があるわけではない。
それは本当のことだ。
久美子は良い人で、母親として翔太を大切にしてきた。
誠一の不規則な仕事のペースにも、文句を言わずに合わせてくれる。
喧嘩らしい喧嘩もあまりない。
でも会話が、いつからか「情報交換」になっていた。
「今日の晩御飯は?」
「翔太の塾の日程は?」
「來月の連休、どこか行く?」
会話はある。
言葉はある。
笑顔だってある。
でも互いの内側にある何かを、触れに行こうとしない。
触れなくても困らないし、触れることで生じるかもしれない不均衡を、二人とも回避している。
村田は「自分の気持ちに気づいてから一番最後に動くタイプ」と言った。
動く話じゃない、という答えは本当だ。
でも、村田の言葉の前半——自分の気持ちに気づいてから——という部分については、自分でもよくわかっていた。
誠一は食器を洗い、ドラマの音が聞こえるリビングのドアをノックしてから「おやすみ」と声をかけた。
久美子は「お疲れ様」と返した。
それだけだった。
書斎に入って、デスクに向かった。
神楽坂の建物の写真を一枚ずつ確認して、メモを補足して、次週の現地調査の計画を立てた。
建物の前に立ったあのときに感じた空気を、記憶のうちに言語化しておく。
石積みの壁の重さ。廊下の狭さが生む圧迫感と、その先に広がる空間への予感。
エントランスの演出として、ここに光を入れれば……。
仕事の思考が回り始めると、頭の中から余計なことが出ていく。
それが誠一の好きな状態だった。
一時間ほどして、手が止まる。
写真をポケットから出して、デスクの端に立てかけた。
大学の学祭の日。
晴れた秋。
白いテント。
誠一は引き出しから消しゴムを取り出して、手の中で転がした。
特に意味のない動作だ。ただ手が何かを掴んでいたかっただけかもしれない。
翌週の火曜日、午後三時。
誠一は神楽坂の路地を歩いていた。
現場への道は、花屋の前を通る。
先週もそうだったし、今日もそうだった。
避けようと思えば一本別の路地を使えるが、地図で確認した限り、こちらの方がいくらか近い。
合理的な理由がある。
花屋の窓に灯りが入っていた。
ガラスの向こうに、人の影が動いているのが見えた。
誠一は歩調を緩めなかった。
ただ、窓の前を通るときだけ、ほんの一瞬、視線がそちらに動いた。
影は花束のようなものを抱えて、向きを変えていた。
いつもの仕事の動きだろう。
そのまま通り過ぎるつもりだった。
なのに、気づいたとき、誠一の足は花屋の扉の手前で止まっていた。
自分の足が、自分では制御できないまま、そこで止まっていた。




