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「春の残像」  「好きじゃなくなった」は嘘だった。二十六年後、あなたの設計した式場に、私の花を飾る日が来るとは思わなかった  作者: かーすけ
春 ──出会い直しの季節──

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2/13

第二話 写真一枚と、積もった年月

 写真は机の上に置いたままだった。


 翌朝、事務所に来た誠一が最初に目に入れたのも、それだった。

 昨夜の段ボール箱の整理の途中で出てきたあれを、事務所に戻る前にポケットに入れてきてしまったのだ。

 帰宅してから気づいて、翌朝また持ってきた。

 自宅の書斎に置いていくことが、なぜかできなかった。


 写真の中の二人は、ただ笑っている。

 学祭の日の空は晴れていて、背景に白いテントと人の頭が見える。

 誠一は当時の服装まで覚えていない。

 ただ自分の左肩があかりの右肩と触れている、

 その数センチの近さが、今になっては鮮明だった。


 二十六年。


 誠一は椅子に座って写真を見ながら、その数字を頭の中で転がした。

 人の一生のうち、どのくらいに相当する時間か。

 生まれてから二十六年、というのと、二十年以上を生きた後の二十六年とでは、密度が違う気がした。 

 前者は世界のすべてで、後者は長く続く日常の束だ。


 所員たちが出勤してきた。

 誠一は写真を引き出しの中にしまって、仕事の顔を作った。

 午前中は会議と打ち合わせで潰れ、昼は弁当を食べながら見積書を確認した。

 午後、神楽坂の現場に関する法規上のチェックリストを所員に依頼し、自分は来月の別件のプレゼン資料を整えた。

 夕方、クライアントとの電話を一本こなし、設計士仲間との短いオンラインミーティングを終えると、もう七時を過ぎていた。

 所員が帰り、また一人になった。

 誠一は引き出しを開けて、写真を取り出した。

 こんなことをしている、と自分でも半分呆れながら、でも手が止まらなかった。


 三月の神楽坂。

 路地の角。

 花の匂い。


 高瀬あかりと最後に会ったのは、大学三年生の十二月だった。

 正確には忘れても、季節だけははっきり覚えている。

 夕方の薄暗さの中で、あかりは「好きじゃなくなった」と言った。

 それだけだった。

 理由も、経緯も、なかった。


 あの言葉を受け取ったとき、誠一の内側で何かが音を立てて崩れたのを覚えている。

 崩れる、というより、抜ける、という感覚に近かった。

 床が一枚消えたような。

 それでも誰かに吐き出すことができず、帰りの電車でただじっと窓の外を見ていた。


 なぜ、とは聞けなかった。

 おそらく、答えが怖かった。

 なぜを問えば、もっと具体的な理由が返ってきて、もっと深く傷つくかもしれない。

 若い誠一の対処法は、問わないことだった。

 沈黙の中に全部を詰め込んで、蓋をした。


 就職、最初の勤務先の激務、転職、そして独立。

 仕事だけが確かなものとして手元にあった時代が続いた。

 久美子と出会ったのは三十二のときで、二年後に結婚した。

 真面目で穏やかな人だった。

 一緒にいると落ち着いた。

 情熱とは違う、別の確かさがある、と誠一は感じていた。


 翔太が生まれ、事務所が軌道に乗り、世田谷に家を買った。

 そういう人生を、誠一は「悪くない」と思っていた。

 思い続けていた。四十を越えたあたりから、その言葉が少し虚ろに聞こえることがあった。

 悪くない、というのはつまり、積極的に「いい」とは言えない、ということでもある。

 気づいたとき、誠一はその考えを即座に打ち消した。

 贅沢だ。

 仕事があって、家族がいる。

 それで十分だ。

 打ち消しながら、でも、何かが空洞だという感覚は消えなかった。


 その夜、誠一は久々に村田哲に電話した。

 村田は大学の同期で、今は横浜で設計事務所を構えている。

 学生時代から互いの仕事ぶりを知っていて、年に二、三回は飲む仲だ。

 電話に出た村田は「珍しいな、夜に電話してくるなんて」と笑った。

「仕事の相談かと思ったら、声が違うな。どうした」

 村田の観察眼は相変わらずだ、と誠一は思った。

「神楽坂で仕事が始まった」と誠一は言った。

「式場のリノベーション」

「ああ、聞いた。面白そうな案件じゃないか」

「現地調査に行ったとき、偶然、高瀬あかりに会った」


 電話の向こうで、村田がわずかに間を置いた。

「……高瀬さん? お前の昔の彼女か」

「うん」

「それは……まあ、なんというか。元気そうだったか」

「花屋をやってた。神楽坂で」

「そうか。今は? 家族とか」

「旦那がいて、子供も一人」

「お前と同じか」

「似たようなもんだ」

 また間があった。

 村田はおそらく、何を言えばいいか測っているのだろう。

「どんな顔してた?」と村田は聞いた。

「どんなって……普通だった。びっくりはしてたけど、落ち着いてた」

「お前は?」

「俺も。たぶん」

「たぶん、か」と村田は笑った。

「じゃあ落ち着いてなかったんだろうな」

 図星だった。

 でも否定する言葉も出てこない。


「お前、まだ引きずってるの?」と村田が言った。

 揶揄するような口調ではなく、確認するような声だった。

「引きずってるとは違う」

「じゃあなんで俺に電話した」

 诚一には、すぐには答えられなかった。

「……昔の話、知ってる人間と話したかったのかもしれない」

「昔の話、ね」と村田は繰り返した。

「まあ俺は別に構わないけど。二人が付き合ってたの、うちのゼミで俺しか知らなかったんだから、話せる相手も俺しかいないわな」

「ああ」

「で、どうするんだ。また会うのか」

「会うというか……仕事で半年は通うし、彼女の花屋が近くにあるから、たまたま会うことはあると思う」

「たまたま、な」と村田はまた笑った。

 含みのある笑いだった。

「まあ俺には何も言う立場じゃないけど、誠一、お前は真面目すぎるからな。自分の気持ちに気づいてから一番最後に動くタイプだから」

「動く話じゃない」と誠一は言った。

「わかってる。ただな、一回会っただけで俺に電話してくるくらいは揺れてる、それだけは覚えとけ」

 その言葉が終わって、誠一は返せなかった。

「仕事、うまくいくといいな」と村田は言い足した。

「式場のデザイン、このあいだ見せてもらったスケッチ、いい感じだったぞ。お前の仕事は信じてる」

「ありがとう」

「飲みに行こうぜ、そのうち」

 そう言って通話は終わった。

 誠一はスマートフォンを置いて、しばらく天井を見ていた。


 自宅の書斎に帰ったのは夜の十時を過ぎていた。

 久美子はリビングでドラマを見ていて、誠一が帰ると「ご飯、温めようか」と立ち上がりかけた。

「いい、自分でやる」と誠一は言い、台所で冷蔵庫の残り物を適当に温めた。

 妻がリビングに戻り、ドラマの続きを見ている。

 その音が台所まで聞こえてくる。

 食べながら、誠一は台所の窓の外を見た。

 夜の庭は暗く、何も見えない。


 久美子との生活に不満があるわけではない。

 それは本当のことだ。

 久美子は良い人で、母親として翔太を大切にしてきた。

 誠一の不規則な仕事のペースにも、文句を言わずに合わせてくれる。

 喧嘩らしい喧嘩もあまりない。

 でも会話が、いつからか「情報交換」になっていた。


 「今日の晩御飯は?」

「翔太の塾の日程は?」

「來月の連休、どこか行く?」


 会話はある。

 言葉はある。

 笑顔だってある。

 でも互いの内側にある何かを、触れに行こうとしない。

 触れなくても困らないし、触れることで生じるかもしれない不均衡を、二人とも回避している。


 村田は「自分の気持ちに気づいてから一番最後に動くタイプ」と言った。

 動く話じゃない、という答えは本当だ。

 でも、村田の言葉の前半——自分の気持ちに気づいてから——という部分については、自分でもよくわかっていた。


 誠一は食器を洗い、ドラマの音が聞こえるリビングのドアをノックしてから「おやすみ」と声をかけた。

 久美子は「お疲れ様」と返した。

 それだけだった。


 書斎に入って、デスクに向かった。

 神楽坂の建物の写真を一枚ずつ確認して、メモを補足して、次週の現地調査の計画を立てた。

 建物の前に立ったあのときに感じた空気を、記憶のうちに言語化しておく。

 石積みの壁の重さ。廊下の狭さが生む圧迫感と、その先に広がる空間への予感。

 エントランスの演出として、ここに光を入れれば……。

 仕事の思考が回り始めると、頭の中から余計なことが出ていく。

 それが誠一の好きな状態だった。


 一時間ほどして、手が止まる。

 写真をポケットから出して、デスクの端に立てかけた。

 大学の学祭の日。

 晴れた秋。

 白いテント。

 誠一は引き出しから消しゴムを取り出して、手の中で転がした。

 特に意味のない動作だ。ただ手が何かを掴んでいたかっただけかもしれない。


 翌週の火曜日、午後三時。

 誠一は神楽坂の路地を歩いていた。

 現場への道は、花屋の前を通る。

 先週もそうだったし、今日もそうだった。

 避けようと思えば一本別の路地を使えるが、地図で確認した限り、こちらの方がいくらか近い。

 合理的な理由がある。


 花屋の窓に灯りが入っていた。

 ガラスの向こうに、人の影が動いているのが見えた。

 誠一は歩調を緩めなかった。

 ただ、窓の前を通るときだけ、ほんの一瞬、視線がそちらに動いた。


 影は花束のようなものを抱えて、向きを変えていた。

 いつもの仕事の動きだろう。

 そのまま通り過ぎるつもりだった。

 なのに、気づいたとき、誠一の足は花屋の扉の手前で止まっていた。

 自分の足が、自分では制御できないまま、そこで止まっていた。

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