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「春の残像」  「好きじゃなくなった」は嘘だった。二十六年後、あなたの設計した式場に、私の花を飾る日が来るとは思わなかった  作者: かーすけ
春 ──出会い直しの季節──

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第一話 神楽坂の路地、三月の午後

 三月の神楽坂は、まだ冬の匂いを引きずっていた。


 石畳の表面がわずかに湿り、路地の奥から豆腐屋の煮込む湯気が漂ってくる。

 諸田誠一は現場調査用のクリップボードを脇に挟み、スマートフォンの地図と実際の街並みを見比べながら、そろそろと路地を進んでいた。


 神楽坂ヴィラ・セルジュ。


 依頼書には「築四十二年、鉄骨造三階建て、旧フランス料理店跡地」とある。

 クライアントである不動産会社の担当者からは「できれば結婚式場として蘇らせたい、細部の意匠は一任する」と言われていた。

 設計という仕事を二十年以上続けてきた誠一でも、白紙委任ほど難しい注文はない。

 空白は無限の可能性を孕んでいるが、同時に無限の責任も伴う。

 今日はまず、足で建物を感じることが目的だった。


 クリップボードを持つ手が少し冷たい。

 コートの衿を立てながら、誠一は初めて訪れる路地の雰囲気を確かめるように、ゆっくりと歩いた。

 両側に石垣と古い塀が続き、所々に小料理屋や雑貨店が口を開けている。

 平日の昼前とあって人の姿は少なく、どこかの店からピアノの音が聞こえてくる気がした。

 気がした、というのは、本当にピアノなのか、それとも排水管が風に鳴っているだけなのか、正直判然としなかったからだ。

 路地が鋭く折れるあたりで、誠一は足を止めた。


 角の向こうに、小型トラックが斜めに停まっていた。

 荷台は開け放たれ、花束がいくつもダンボール箱に詰められている。

 白い花、紫がかった花、まだ蕾のまま箱に収まっている花。

 その量と色の多さが、くすんだ石畳の上に突然の春を出現させていた。

 誠一は思わず目を細めた。


 花屋だ、と気づいたのはすぐだった。

 「haru」と白いペンキで書かれた小さな木製の看板が、低い位置に掲げてある。

 扉は開け放たれていて、店の中にも花の気配が詰まっているのが外からでもわかった。

 トラックの脇に、女が立っていた。


 グレーのカーゴパンツに、くすんだモスグリーンのジャケットという格好で、荷台からダンボール箱を下ろしている。

 髪はやや乱れて肩の上に散らばり、両手には軍手をはめていた。

 背を向けているので顔は見えない。

 ただ、その動作の仕方が——箱をしっかり抱え、腰で支えながら降りる、その一連の動き方が——見覚えのあるものに思えた。

 誠一は立ち止まったまま、動けなかった。


 馬鹿な、と思う。二十年以上も前のことだ。

 人の動きなどというものは、そう簡単に記憶が保持できるものではない。

 体の動かし方など、年齢とともに変わる。

 それなのに、なぜ。


 女が箱を地面に置き、軍手を片方だけ外して汗を拭うように額に手を当てた。

 そのとき、横顔が見えた。

 誠一の胸の中で、何かが静かに崩れた。


 高瀬あかり。


 口の中でそっと発音してみると、その名前は二十六年分のほこりをかぶったまま、不思議なほど滑らかに出てきた。

 まるでずっとそこにあったかのように。

 女——あかりは、荷台に残った次の箱を取ろうと振り返り、そこで誠一と目が合った。

 一瞬、時間が止まった、と誠一は後から何度も思い返すことになる。

 正確にはそんなはずはないのだが、確かにその一瞬だけ、石畳の上で世界が固まったような感覚があった。


 あかりは目を丸くした。それから、眼差しがゆっくりと細くなっていく。

 記憶を探っているのだろう、と誠一にはわかった。

 自分も今まさにそれをやっているのだから。

「……諸田くん、だよね?」


 あかりが先に声を出した。

 声質は変わっていない、と誠一は思った。

 ほんのわずか高くなる、語尾のあの上がり方も。

「うん」

 出てきた返事があまりにも短くて、誠一は自分で少し驚いた。

 うん、という言葉では何も伝わらない。

 でもそれ以上の言葉が、すぐには出てこなかった。


 あかりは軍手を外して手に持ち、誠一の方へ歩いてきた。

 近づくにつれて、顔の輪郭がはっきりしてくる。

 細面で、頬骨が少し高い。

 学生のころ見ていた顔と同じ骨格の上に、二十六年分の時間が積み重なっている。

 目尻にわずかな皺。

 でも、瞳は変わっていない。

 濃い茶色の、真っ直ぐな目。


「ここで仕事してるの?」と誠一は聞いた。

「うん、この花屋」とあかりは言い、看板の方へ顎をしゃくった。

「あなたこそ、こんなところで何してるの」

「設計の仕事で。あの建物を」


 誠一は通りの奥を指さした。

 まだ足を踏み入れていないが、依頼書の住所から推測すると、この路地をもう少し進んだ右手にあるはずだ。


「ああ、セルジュ」とあかりは言った。

「あそこ、ずっと空き家だったよね。何になるの?」

「結婚式場の予定で」

「へえ」とあかりは短く言い、何か考えるように路地の先に視線を向けた。

「この辺、そういうの合いそうだね。石畳だし」


 台詞はごく普通だ。

 再会の感慨よりも、街の景観についての率直な感想。

 それがかえって、誠一には少し楽だった。

 劇的な再会など、二人の今の立場にはそぐわない。

「あかり、さんは、ずっとここで?」


 さん付けにしたのは、何となく距離のことを考えたからだ。

 苗字が変わっているかもしれない、という考えも頭の端にあった。


「ここで店開いて八年になるかな。あなたは設計事務所?」

「世田谷で小さい事務所を。主にリノベーション系の仕事が多くて」

「大変そうね」

「慣れれば」


 誠一は答えながら、自分が今どんな顔をしているのか、ふと気になった。

 動揺を隠しているだろうか。

 それとも案外、平然としているだろうか。

 あかりの方は、表情が柔らかい。

 驚きはあっても、取り乱している様子はない。

 この人はいつもそうだった、と誠一は思い出す。

 感情の揺れを、外にあまり出さなかった。

 あかりは軍手を荷台に放り投げて、右手を差し出した。


「久しぶり。元気そうじゃない」

 指先に土が薄く残っていた。

 誠一はそれに気づきながら、握手した。

「そっちも」


 手のひらが触れる数秒間、誠一は意識して相手の目を見ていた。

 あかりも同じように、視線を逸らさなかった。

 それだけのことだったが、二十六年という時間の重みが、その短い握手の中にすべて圧縮されているような気がして、誠一は少し息が詰まった。

 離したあと、二人ともすぐには話さなかった。


 路地に風が通り、あかりの髪が少し揺れた。

 どこかの店が戸を開けたらしく、コーヒーの匂いが流れてきた。


「子供は?」とあかりが聞いた。

「息子が一人。今年、大学受験で」

「そっか、もうそんな年になるんだね」

 言いながらあかりは自分事のように笑った。

「そちらは?」

「娘が一人。高校二年生。最近ようやく反抗期が落ち着いてきたところ」

 親同士の、ありふれた会話。

 それしかない、ということでもあり、それで十分、ということでもある。

「旦那さんは?」

「医者。あなたは?」

「妻は専業主婦をしてる」


 互いの現在を、短い単語で交換し合った。

 その情報が何かを変えるわけでもなく、ただ現在地を確認するような会話だった。

 あかりは再び荷台に目を向け、残りの箱の量を確かめるように見た。

 仕事がある。

 誠一も同じだった。


「またこのへん、来ますか」とあかりが聞いた。

 さらりとした口調だったが、誠一はその言葉を、返す言葉を選びながら少し考えた。

「竣工まで半年は通うと思う」

「そう」とあかりは言い、それから少し沈黙してから付け加えた。

「なんか変な感じだけど、ね。でも、元気そうでよかった」


 後半の一言は、前の台詞とは声のトーンが少し違った。

 仕事の気配が薄れて、ほんのわずか個人の感情が滲んだような声。

 誠一は「うん」と短く答えた。

「仕事、頑張って」

「あかり、さんも」


 あかりは小さく手を振り、踵を返してトラックの荷台に戻った。

 誠一はしばらくその場に立っていたが、やがてクリップボードを持ち直し、路地の先へ向けて歩き出した。

 足元の石畳が、冬の湿り気を残したまま続いている。


 建物を見て、採寸して、写真を撮って、事務所に帰る。

 それだけのことを今日はすればいい。

 誠一はそう自分に言い聞かせながら歩いたが、あかりの手のひらの感触が、まだ右手に残っていた。

 握手などというものは、たかが数秒だ。

 なのに指先に土の粉の感触、それから温度が残っている気がして、誠一は意識して右手をコートのポケットに入れた。


 建物に着くと、確かに古かった。

 鉄扉は錆びて、外壁のモルタルが所々剥落している。

 でも骨格はしっかりしていた。

 窓枠の意匠も、柱間のプロポーションも、時代を感じさせながらも品がある。

 誠一はしばらく建物の前に立ち、外観を目に焼き付けた。

 何をどのように蘇らせるか、の前に、まずここにあるものを見る。

 それが自分の流儀だった。

 設計図はまだ頭の中にしかない。

 今はただ、見る。


 三月の空は低く、薄い雲が均一に広がっていた。

 光は柔らかく、影はない。

 そういう空の日に見た建物の姿が、後々まで記憶に残ることを、誠一は経験から知っていた。


 スマートフォンを取り出して写真を何枚か撮っていると、荷台のダンボール箱を下ろすあかりの姿が、また頭に浮かんだ。

 二十六年ぶりに、同じ路地で会った。

 しかも、縁もなく選んだ仕事の現場で。

 そういうことがあるのか、と誠一は思う。

 世界はそんなに狭いのか。

 それとも、ある種の引力というものが、人と人の間に本当に存在するのか。

 どちらでも、今の自分には関係のないことだ。


 誠一はそう思うことにして、クリップボードにメモを書き始めた。

 窓の数、外壁の素材、配管の位置。

 仕事の言葉を、ていねいに並べていく。

 それが今日一日、自分に許されたことだった。


 それから二時間ほど、誠一は建物の周りと内部を隅々まで調べた。

 抜けていい壁と残すべき壁、耐力上の問題、光の入り方、導線の可能性。

 頭が仕事の熱を帯びてくると、朝からの緊張感が薄れて、身体が素直に動き始める。

 それが誠一の好きな時間だった。


 夕方近くなって切り上げ、路地を戻ると、花屋の前にトラックはなかった。

 扉は閉まっている。

 ガラスの向こうに小さな灯りが見えて、あかりが店の中で作業しているのかもしれないと思ったが、誠一は立ち止まらなかった。

 石畳の上を歩いて、大通りに出る。

 夕方のざわめきが戻ってくる。

 電車の中で、誠一は久しぶりにぼんやりと窓の外を眺めていた。


 大学三年の冬。

 もう二十六年も前のことだ。

 あの別れ際に見たあかりの顔を、誠一は今でも不思議なほど鮮明に覚えている。

 あかりはその日、「好きじゃなくなった」と言った。

 声は平静だったが、目が泳いでいた。

 誠一はそれを見ながら、何か言えばよかったのか、何か聞けばよかったのか、ひとつも言葉が出ないまま頷いてしまった。

 頷いてどうする、と今でも思う。

 でもあの歳の自分に、それ以上の術はなかった。


 窓の外に、帰宅ラッシュの始まりかけた駅のホームが流れていく。

 誠一は目を逸らして、クリップボードのメモを見直した。

 壁厚一五〇ミリ、階高三四〇〇、南面の窓を広げれば光は十分に取れる。

 結婚式場にするなら、エントランスの演出が鍵になる。

 人が「ここから始まる」と感じられる入口、それが最初にすべきことだ。

 そこまで考えて、誠一は一つ息を吐いた。

 仕事に集中できる。それだけは確かだった。


 事務所に戻ったのは夜の八時過ぎで、所員はもう帰っていた。

 一人きりの事務所に灯りをつけて、コーヒーを淹れて、ソファの端に腰を下ろす。

 疲れた、と気づいたのは、座ってからだった。

 足より頭が疲れている。

 いつもはそうじゃない。

 現場に出た日は頭が活性化して、むしろ帰ってからのほうが設計のアイデアが浮かぶことが多い。

 でも今夜は、頭の中に霞がかかったように、集中ができなかった。

 理由はわかってる、と誠一は思った。


 棚の一角に、段ボール箱がある。

 先月の所内整理のときに荷物をまとめた際、どこにも置き場所がなくてとりあえずここに押し込んだやつだ。

 中身は確認していない。

 大学のころから持ち続けてきた雑多なもの、のはずだった。

 誠一はコーヒーカップを置いて立ち上がり、段ボール箱の前にしゃがんだ。


 蓋を開けると、埃っぽい紙の匂いがした。

 スケッチブック。

 古い建築学会誌。

 大学の講義ノート。

 それらを一つずつどかしていくと、下の方から、写真が出てきた。

 一枚だけ、裸のまま差し挟まっていた。


 大学の学祭の日に撮った写真だ。

 誰かに頼んで撮ってもらったのか、それとも友人の誰かが撮ったのか、もう覚えていない。

 でも写真の中の自分とあかりは、二人でカメラの方を向いて笑っている。

 二十一か二十二のころだ。

 まだ父親の会社が傾く前、あかりの両親から圧力がかかる前。

 誠一は写真を持ったまま、しばらく動けなかった。


 今日の路地で、あかりは「元気そうでよかった」と言った。

 その最後の声のトーンを、誠一はまだ耳の中に持っていた。

 仕事の会話ではない声。

 二十六年前の声と、同じ質を持った声。

 どういうことなのか、と誠一は思ったが、答えを出せる問いではなかった。

 コーヒーが冷めていく。


 写真を段ボール箱の縁に立てかけて、誠一は機械的にコーヒーを飲んだ。

 冷たくなっていて苦かった。

 それでも全部飲み切って、カップをシンクに置いて、事務所の灯りを消した。

 帰り道、駅まで歩く間も、写真の中の二人の顔が頭の裏に貼り付いていた。


 翌週、神楽坂の現場に向かう日、誠一は路地に入る前に少し足を緩めた。

 石畳の向こう、花屋の窓に、動く影が見えた。

 店の中で作業しているのだろう。

 影は花束らしき形を持ち上げ、向きを変え、また別の場所に置く、その動きが繰り返されている。

 誠一は立ち止まって、その影を数秒見ていた。*


 それから、クリップボードを握り直し、歩き出した。

 足は自然と、現場のある路地の奥へ向かっているはずだった。

 なのに、いつの間にか花屋の扉の手前で止まっていた。


 自分でも気づかなかった、その数歩を、誠一はしばらく認識できないでいた。

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