第一話 神楽坂の路地、三月の午後
三月の神楽坂は、まだ冬の匂いを引きずっていた。
石畳の表面がわずかに湿り、路地の奥から豆腐屋の煮込む湯気が漂ってくる。
諸田誠一は現場調査用のクリップボードを脇に挟み、スマートフォンの地図と実際の街並みを見比べながら、そろそろと路地を進んでいた。
神楽坂ヴィラ・セルジュ。
依頼書には「築四十二年、鉄骨造三階建て、旧フランス料理店跡地」とある。
クライアントである不動産会社の担当者からは「できれば結婚式場として蘇らせたい、細部の意匠は一任する」と言われていた。
設計という仕事を二十年以上続けてきた誠一でも、白紙委任ほど難しい注文はない。
空白は無限の可能性を孕んでいるが、同時に無限の責任も伴う。
今日はまず、足で建物を感じることが目的だった。
クリップボードを持つ手が少し冷たい。
コートの衿を立てながら、誠一は初めて訪れる路地の雰囲気を確かめるように、ゆっくりと歩いた。
両側に石垣と古い塀が続き、所々に小料理屋や雑貨店が口を開けている。
平日の昼前とあって人の姿は少なく、どこかの店からピアノの音が聞こえてくる気がした。
気がした、というのは、本当にピアノなのか、それとも排水管が風に鳴っているだけなのか、正直判然としなかったからだ。
路地が鋭く折れるあたりで、誠一は足を止めた。
角の向こうに、小型トラックが斜めに停まっていた。
荷台は開け放たれ、花束がいくつもダンボール箱に詰められている。
白い花、紫がかった花、まだ蕾のまま箱に収まっている花。
その量と色の多さが、くすんだ石畳の上に突然の春を出現させていた。
誠一は思わず目を細めた。
花屋だ、と気づいたのはすぐだった。
「haru」と白いペンキで書かれた小さな木製の看板が、低い位置に掲げてある。
扉は開け放たれていて、店の中にも花の気配が詰まっているのが外からでもわかった。
トラックの脇に、女が立っていた。
グレーのカーゴパンツに、くすんだモスグリーンのジャケットという格好で、荷台からダンボール箱を下ろしている。
髪はやや乱れて肩の上に散らばり、両手には軍手をはめていた。
背を向けているので顔は見えない。
ただ、その動作の仕方が——箱をしっかり抱え、腰で支えながら降りる、その一連の動き方が——見覚えのあるものに思えた。
誠一は立ち止まったまま、動けなかった。
馬鹿な、と思う。二十年以上も前のことだ。
人の動きなどというものは、そう簡単に記憶が保持できるものではない。
体の動かし方など、年齢とともに変わる。
それなのに、なぜ。
女が箱を地面に置き、軍手を片方だけ外して汗を拭うように額に手を当てた。
そのとき、横顔が見えた。
誠一の胸の中で、何かが静かに崩れた。
高瀬あかり。
口の中でそっと発音してみると、その名前は二十六年分のほこりをかぶったまま、不思議なほど滑らかに出てきた。
まるでずっとそこにあったかのように。
女——あかりは、荷台に残った次の箱を取ろうと振り返り、そこで誠一と目が合った。
一瞬、時間が止まった、と誠一は後から何度も思い返すことになる。
正確にはそんなはずはないのだが、確かにその一瞬だけ、石畳の上で世界が固まったような感覚があった。
あかりは目を丸くした。それから、眼差しがゆっくりと細くなっていく。
記憶を探っているのだろう、と誠一にはわかった。
自分も今まさにそれをやっているのだから。
「……諸田くん、だよね?」
あかりが先に声を出した。
声質は変わっていない、と誠一は思った。
ほんのわずか高くなる、語尾のあの上がり方も。
「うん」
出てきた返事があまりにも短くて、誠一は自分で少し驚いた。
うん、という言葉では何も伝わらない。
でもそれ以上の言葉が、すぐには出てこなかった。
あかりは軍手を外して手に持ち、誠一の方へ歩いてきた。
近づくにつれて、顔の輪郭がはっきりしてくる。
細面で、頬骨が少し高い。
学生のころ見ていた顔と同じ骨格の上に、二十六年分の時間が積み重なっている。
目尻にわずかな皺。
でも、瞳は変わっていない。
濃い茶色の、真っ直ぐな目。
「ここで仕事してるの?」と誠一は聞いた。
「うん、この花屋」とあかりは言い、看板の方へ顎をしゃくった。
「あなたこそ、こんなところで何してるの」
「設計の仕事で。あの建物を」
誠一は通りの奥を指さした。
まだ足を踏み入れていないが、依頼書の住所から推測すると、この路地をもう少し進んだ右手にあるはずだ。
「ああ、セルジュ」とあかりは言った。
「あそこ、ずっと空き家だったよね。何になるの?」
「結婚式場の予定で」
「へえ」とあかりは短く言い、何か考えるように路地の先に視線を向けた。
「この辺、そういうの合いそうだね。石畳だし」
台詞はごく普通だ。
再会の感慨よりも、街の景観についての率直な感想。
それがかえって、誠一には少し楽だった。
劇的な再会など、二人の今の立場にはそぐわない。
「あかり、さんは、ずっとここで?」
さん付けにしたのは、何となく距離のことを考えたからだ。
苗字が変わっているかもしれない、という考えも頭の端にあった。
「ここで店開いて八年になるかな。あなたは設計事務所?」
「世田谷で小さい事務所を。主にリノベーション系の仕事が多くて」
「大変そうね」
「慣れれば」
誠一は答えながら、自分が今どんな顔をしているのか、ふと気になった。
動揺を隠しているだろうか。
それとも案外、平然としているだろうか。
あかりの方は、表情が柔らかい。
驚きはあっても、取り乱している様子はない。
この人はいつもそうだった、と誠一は思い出す。
感情の揺れを、外にあまり出さなかった。
あかりは軍手を荷台に放り投げて、右手を差し出した。
「久しぶり。元気そうじゃない」
指先に土が薄く残っていた。
誠一はそれに気づきながら、握手した。
「そっちも」
手のひらが触れる数秒間、誠一は意識して相手の目を見ていた。
あかりも同じように、視線を逸らさなかった。
それだけのことだったが、二十六年という時間の重みが、その短い握手の中にすべて圧縮されているような気がして、誠一は少し息が詰まった。
離したあと、二人ともすぐには話さなかった。
路地に風が通り、あかりの髪が少し揺れた。
どこかの店が戸を開けたらしく、コーヒーの匂いが流れてきた。
「子供は?」とあかりが聞いた。
「息子が一人。今年、大学受験で」
「そっか、もうそんな年になるんだね」
言いながらあかりは自分事のように笑った。
「そちらは?」
「娘が一人。高校二年生。最近ようやく反抗期が落ち着いてきたところ」
親同士の、ありふれた会話。
それしかない、ということでもあり、それで十分、ということでもある。
「旦那さんは?」
「医者。あなたは?」
「妻は専業主婦をしてる」
互いの現在を、短い単語で交換し合った。
その情報が何かを変えるわけでもなく、ただ現在地を確認するような会話だった。
あかりは再び荷台に目を向け、残りの箱の量を確かめるように見た。
仕事がある。
誠一も同じだった。
「またこのへん、来ますか」とあかりが聞いた。
さらりとした口調だったが、誠一はその言葉を、返す言葉を選びながら少し考えた。
「竣工まで半年は通うと思う」
「そう」とあかりは言い、それから少し沈黙してから付け加えた。
「なんか変な感じだけど、ね。でも、元気そうでよかった」
後半の一言は、前の台詞とは声のトーンが少し違った。
仕事の気配が薄れて、ほんのわずか個人の感情が滲んだような声。
誠一は「うん」と短く答えた。
「仕事、頑張って」
「あかり、さんも」
あかりは小さく手を振り、踵を返してトラックの荷台に戻った。
誠一はしばらくその場に立っていたが、やがてクリップボードを持ち直し、路地の先へ向けて歩き出した。
足元の石畳が、冬の湿り気を残したまま続いている。
建物を見て、採寸して、写真を撮って、事務所に帰る。
それだけのことを今日はすればいい。
誠一はそう自分に言い聞かせながら歩いたが、あかりの手のひらの感触が、まだ右手に残っていた。
握手などというものは、たかが数秒だ。
なのに指先に土の粉の感触、それから温度が残っている気がして、誠一は意識して右手をコートのポケットに入れた。
建物に着くと、確かに古かった。
鉄扉は錆びて、外壁のモルタルが所々剥落している。
でも骨格はしっかりしていた。
窓枠の意匠も、柱間のプロポーションも、時代を感じさせながらも品がある。
誠一はしばらく建物の前に立ち、外観を目に焼き付けた。
何をどのように蘇らせるか、の前に、まずここにあるものを見る。
それが自分の流儀だった。
設計図はまだ頭の中にしかない。
今はただ、見る。
三月の空は低く、薄い雲が均一に広がっていた。
光は柔らかく、影はない。
そういう空の日に見た建物の姿が、後々まで記憶に残ることを、誠一は経験から知っていた。
スマートフォンを取り出して写真を何枚か撮っていると、荷台のダンボール箱を下ろすあかりの姿が、また頭に浮かんだ。
二十六年ぶりに、同じ路地で会った。
しかも、縁もなく選んだ仕事の現場で。
そういうことがあるのか、と誠一は思う。
世界はそんなに狭いのか。
それとも、ある種の引力というものが、人と人の間に本当に存在するのか。
どちらでも、今の自分には関係のないことだ。
誠一はそう思うことにして、クリップボードにメモを書き始めた。
窓の数、外壁の素材、配管の位置。
仕事の言葉を、ていねいに並べていく。
それが今日一日、自分に許されたことだった。
それから二時間ほど、誠一は建物の周りと内部を隅々まで調べた。
抜けていい壁と残すべき壁、耐力上の問題、光の入り方、導線の可能性。
頭が仕事の熱を帯びてくると、朝からの緊張感が薄れて、身体が素直に動き始める。
それが誠一の好きな時間だった。
夕方近くなって切り上げ、路地を戻ると、花屋の前にトラックはなかった。
扉は閉まっている。
ガラスの向こうに小さな灯りが見えて、あかりが店の中で作業しているのかもしれないと思ったが、誠一は立ち止まらなかった。
石畳の上を歩いて、大通りに出る。
夕方のざわめきが戻ってくる。
電車の中で、誠一は久しぶりにぼんやりと窓の外を眺めていた。
大学三年の冬。
もう二十六年も前のことだ。
あの別れ際に見たあかりの顔を、誠一は今でも不思議なほど鮮明に覚えている。
あかりはその日、「好きじゃなくなった」と言った。
声は平静だったが、目が泳いでいた。
誠一はそれを見ながら、何か言えばよかったのか、何か聞けばよかったのか、ひとつも言葉が出ないまま頷いてしまった。
頷いてどうする、と今でも思う。
でもあの歳の自分に、それ以上の術はなかった。
窓の外に、帰宅ラッシュの始まりかけた駅のホームが流れていく。
誠一は目を逸らして、クリップボードのメモを見直した。
壁厚一五〇ミリ、階高三四〇〇、南面の窓を広げれば光は十分に取れる。
結婚式場にするなら、エントランスの演出が鍵になる。
人が「ここから始まる」と感じられる入口、それが最初にすべきことだ。
そこまで考えて、誠一は一つ息を吐いた。
仕事に集中できる。それだけは確かだった。
事務所に戻ったのは夜の八時過ぎで、所員はもう帰っていた。
一人きりの事務所に灯りをつけて、コーヒーを淹れて、ソファの端に腰を下ろす。
疲れた、と気づいたのは、座ってからだった。
足より頭が疲れている。
いつもはそうじゃない。
現場に出た日は頭が活性化して、むしろ帰ってからのほうが設計のアイデアが浮かぶことが多い。
でも今夜は、頭の中に霞がかかったように、集中ができなかった。
理由はわかってる、と誠一は思った。
棚の一角に、段ボール箱がある。
先月の所内整理のときに荷物をまとめた際、どこにも置き場所がなくてとりあえずここに押し込んだやつだ。
中身は確認していない。
大学のころから持ち続けてきた雑多なもの、のはずだった。
誠一はコーヒーカップを置いて立ち上がり、段ボール箱の前にしゃがんだ。
蓋を開けると、埃っぽい紙の匂いがした。
スケッチブック。
古い建築学会誌。
大学の講義ノート。
それらを一つずつどかしていくと、下の方から、写真が出てきた。
一枚だけ、裸のまま差し挟まっていた。
大学の学祭の日に撮った写真だ。
誰かに頼んで撮ってもらったのか、それとも友人の誰かが撮ったのか、もう覚えていない。
でも写真の中の自分とあかりは、二人でカメラの方を向いて笑っている。
二十一か二十二のころだ。
まだ父親の会社が傾く前、あかりの両親から圧力がかかる前。
誠一は写真を持ったまま、しばらく動けなかった。
今日の路地で、あかりは「元気そうでよかった」と言った。
その最後の声のトーンを、誠一はまだ耳の中に持っていた。
仕事の会話ではない声。
二十六年前の声と、同じ質を持った声。
どういうことなのか、と誠一は思ったが、答えを出せる問いではなかった。
コーヒーが冷めていく。
写真を段ボール箱の縁に立てかけて、誠一は機械的にコーヒーを飲んだ。
冷たくなっていて苦かった。
それでも全部飲み切って、カップをシンクに置いて、事務所の灯りを消した。
帰り道、駅まで歩く間も、写真の中の二人の顔が頭の裏に貼り付いていた。
翌週、神楽坂の現場に向かう日、誠一は路地に入る前に少し足を緩めた。
石畳の向こう、花屋の窓に、動く影が見えた。
店の中で作業しているのだろう。
影は花束らしき形を持ち上げ、向きを変え、また別の場所に置く、その動きが繰り返されている。
誠一は立ち止まって、その影を数秒見ていた。*
それから、クリップボードを握り直し、歩き出した。
足は自然と、現場のある路地の奥へ向かっているはずだった。
なのに、いつの間にか花屋の扉の手前で止まっていた。
自分でも気づかなかった、その数歩を、誠一はしばらく認識できないでいた。




