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5. 名乗らないお節介

 次の標的は、商いで男爵位を買い上げたばかりのお家のお嬢さんである。


 貴族の暦にも社交にも不慣れで、後ろ盾になる親戚もいない。分家のティルマン様の縁談が、そこへ来た。


「警告して差し上げれば済む話では?」


「済みませんのよ」ヨハンナ様が首を振る。「あちらから見れば、わたくしたちは『嫉妬に狂った群れ』。信じる素地がございませんわ。騒ぎになれば、傷がつくのはお嬢さんの方」


 名乗って助けられないなら、名乗らずに助けるまでである。


 問題は、その方法である。私は書斎の椅子で目を閉じ、頭の棚を開けた。


 夜中に勝手に開くのは呪いだけれど、こちらから開けるのは、仕事である。同じ棚なのに、取っ手の冷たさがまるで違う。


 去年の四月十日。結い日の席。蜜蝋(みつろう)の灯りの匂いと、父の上ずった咳払いまで、棚はご丁寧に取ってある。あの席で父が「覚え書きなど作りますかな」と冗談めかしたとき、仲人は、どう返したか。


『ご縁に、判は要りませんよ。紙を挟むのは、信の薄い商人のすることで』


 ――ある。ちゃんと、残っている。


 あのときは、粋なことを言う人だと思ったのだ。今なら分かる。あれは口癖ではなく、商いの柵である。紙は、残る。残るものは、あの筋の天敵なのだ。


「あの筋は、紙を嫌いますわ」私は目を開けた。「結び金の話に『覚え書き』の一言が出た途端、算盤(そろばん)ごと引く。……請け合ってもよろしくてよ」


「あら、頼もしい」アガーテ様が笑う。「では、誰がその一言を運びますの?」


「礼法なら、わたくしの領分ですわ」


 手を挙げたのはヴェレーナ様である。ヴェレーナ様が、礼法の家庭教師として先方に上がる。これは嘘でも化けでもない、十年続けてきた本物のお仕事である。新参のお家が礼法の先生を探していることは、ヨハンナ様の網がすでに拾っていた。


 稽古の合間の雑談で、背中をひとつ押して差し上げる。それだけである。


 後で伺った話だが、ヴェレーナ様の稽古は評判だったそうだ。扇の開き方、席次の読み方、招待状の返事の書き方。奥様とお嬢さんが揃って、乾いた土が水を吸うように覚えていく。自分の塾を持つことを十年阻まれてきた人の授業は、一滴も無駄にならないのである。


「大きなお金の行き来に覚え書きを頂くのは、商いのお家の立派な流儀でございますよ。長年の商いで身についた慎重は、恥じるものではなく、誇ってよい家風ですの」


 嘘は、ひとつもない。よその家の「品」を騙るのではなく、その家が持って生まれた流儀を、恥じなくてよいと申し上げるだけ。帳面を出すか出すまいか迷う親心の背中に、そっと手を添えるだけである。


 首尾は、次の茶会でヴェレーナ様が再現してくださった。先生の顔のまま、声色を二役、きっちり使い分けて。


「結い日の下相談の席で、奥様がにっこりなさって――『では結び金の覚え書きを。手前ども、商いの家ですので』」


「仲人は?」


「扇子を、こう」ヴェレーナ様の手の中で、扇子がかたかたと二度跳ねる。「『か、書き付けと仰いますと』――あの落ち着き払った声が、半音上がりましたのよ。及第点の狼狽ぶりでしたわ」


 庭が、いい音で沸いた。オッティリエ様は帳面を叩いて笑い、フリーデ様までが口元を袖で隠している。笑いながら、少しだけ胸が詰まる。この上手さは、十年、他人の家の居間で磨かれてきたものだ。


 三日後、縁談そのものが消えた。曰く、ご縁がなかったものと。


「三度目ですわね、その台詞」


「あの筋の、店じまいの鐘ですもの」


 その日の午後、私はコルドゥラ様のつばの広い帽子を借りて、通りの菓子店の窓際にいた。硝子(がらす)越し、砂糖菓子の匂いの向こうで、何も知らないお嬢さんが友人と笑っている。窓を一枚隔てて、笑い声はこちらまで届かない。届かないのに、あの声の調子だけは、なぜだか棚に仕舞われていく気がする。


 午後の光が硝子に斜めに入って、店の中の景色を、一枚の絵のように縁取っている。ああいう絵を壊させないためには、壊れる音を知っている者が、額の外に立つのだ。


 あの方は、絹の山の冷たさを知らずに済んだ。三日前の朝に棚の開く音を聞かずに済む人が、ひとり増えた――それだけの、静かな仕事である。縁談がひとつ消えたことにさえ、あの方はたぶん気づいていない。


 礼は、誰からも来ない。来ないのが、成功の印である。


「巻き直しって、こういう顔をしているんですのね」


「ええ」隣のヨハンナ様が、硝子の向こうに目を細める。「誰にも気づかれない日が、いちばんの上出来ですの」


 その横顔に、ふと思う。二年前に同じ傷を負ったこの方は、このひと月で、たったひとりで五人を探し当てた。誰にも気づかれず、誰にも礼を言われず。……この「上出来」を、誰に頼まれるでもなく最初にやった人なのだ。


 帰りに、砂糖菓子をひと箱買った。この方のぶんである。礼がどこからも来ないのなら、内輪で贈り合うほかない。箱を差し出すと、ヨハンナ様は虚を衝かれた顔をして、それから憎まれ口の代わりに、小さく「……どうも」とだけ仰った。とげとげした目が、砂糖の匂いの中で少しだけ丸くなる。


 ――この首尾を監察官の聴き取りへ届けたのは、週の終わりである。例によって、私の順番は最後だけれど。


 書斎で一部始終を語ると、監察官は手帳を閉じて、生真面目な顔のまま言った。


「記録役どのの記憶は、国庫より価値がある」


「……それは、お褒めの言葉ですの?」


「所見です」


 国庫と比べられて喜ぶ令嬢が、どこの世界におりますの。


 おりましたわ。ここに。頬が熱いのは、西日のせいにしておく。西日は書斎の床に長く伸びて、手帳の革表紙を飴色に光らせていた。この色も、たぶん今夜、棚に仕舞われる。今度のは――夜中に開いても、切れない棚である。


「して、次の狙いですけれど。悪評の筆――あの使い回しの文面は、どこの誰が刷っていますの?」


「調べています。筆の出所は、網の急所ですので」


 急所。いい言葉である。私の頭の棚に、日付つきで仕舞われた。


       ◇


 王都の南、印刷通りの外れに、看板のない工房がある。主は灰色の前掛けの小男で、注文主の顔を見ない。見ないのが、この店の作法である。


「またあの文面で、と仰せで」


 使いの男が銀貨を積む。主は棚の奥から古い版下を引き出し、埃を吹いた。名前の欄だけが、四角く空いている。


「へえ。名前の欄だけ、空けてございます」


 十二年、同じ版下である。埃を吹く息だけが、年々深くなる。

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