第41話:進路を考える(一ノ瀬保奈美)
玄関のドアが開く音がした。
静かに靴を脱ぐ直也さん。
「……ただいま」
低く、少し疲れた声。
私は急いで台所から顔を出した。
「おかえりなさい、直也さん」
精一杯の笑顔を作る。
だけど、心配の気持ちが先に立ってしまう。
ネクタイを緩めて入ってきた直也さんの表情は、やっぱりどこかくたびれていた。
「ちょっと……飲んできたよ。
急だったからゴメンね」
かすかにお酒の匂い。
夕方に電話してくれていた。
今日はどうしても外で外せない予定が出来たとだけ聞いていた。
「そうなんですね。ご飯は……」
「食欲は、あんまりないかな。
でも――折角作ってくれたなら、少しもらうよ」
その言葉だけで胸があたたかくなる。
私は急いで準備を整えた。
※※※
白いご飯。
なめこのお味噌汁。
ししゃもを軽く炙って、卵焼きを添える。
簡単だけれど、心を込めた献立。
魔法のレシピ帳に書いてあった――直也さんが好きなお味噌汁は、なめこ。
それを思い出して、どうしても今夜作りたかった。
お椀を置くと、直也さんは箸をとり、ゆっくりと味噌汁を口に運んだ。
ひと口。
その瞬間、固く見えていた表情がふっと和らいだ。
「……ああ、昔はよく食べたなぁ」
小さな吐息みたいな声。
その声を聞いて、胸の奥がじんわり熱くなる。
ししゃもを口にしながら、直也さんは私を見て言った。
「義妹ちゃんの料理、本当に美味しいよ。
でも、どうしてこんなに美味しいご飯を作れるようになったの?」
一瞬、心臓の動悸が早くなる。
魔法のレシピ帳のことを思い出してしまった。
でも――言わない。
だってこれは直也さんのお母さんと私だけの秘密だもん。
私は慌てて笑い、両手を背中に回した。
「ふふふっ。秘密です!」
直也さんは驚いたように目を丸くしたあと、ふっと笑った。
「そっか……まぁ女の子の秘密を探るのはマナー違反だから、分からないままにしておこうか」
その笑顔を見て、胸がいっぱいになる。
――もっと、力になりたいな。
疲れて帰ってきた直也さんを、いつでも支えられる自分でいたいな。
「ご飯を美味しくする最高のエッセンスは愛情」
ふと、そんな言葉を思い出して、私はそっと頬を赤くした。
※※※
夕食を終えて、片付けを済ませる。
リビングでは直也さんがノートPCを広げて、静かにキーボードを叩いている。
画面には英語の資料や数字の表が映っていて――その背中は、もう “大人の顔” をしていた。
私は少し離れたソファに座り、ノートを広げる。
――進路指導室で聞いたことを、改めて自分で調べてみよう。
スマホを片手に検索してみる。
「家政学部」「生活科学部」。
思っていたよりも幅広い内容で、栄養や食品、住居や被服……生活を支える知識を専門的に学べるとあった。
その中でも――水道橋女子大学。
国立で、伝統のある学校。
女子大の最高峰の大学だ。
家政や生活科学系では特に評価が高い。
「……ここ、かぁ」
小さく呟く。
でも同時に、胸がぎゅっとなる。
私は直也さんみたいに、勉強が得意なタイプじゃない。
成績は良くも悪くもない程度で、トップクラスとは到底言えない。
東都大学理学部を卒業して、五井物産に就職して……なんて経歴、到底かなわない。
でも――だからといって諦めたくない。
「未来をあきらめない」って、直也さんが言ってくれのだから。
※※※
ノートの余白に、目標を書き込む。
「英語」「数学」
この二つに力を入れる、と。
「数学は……直也さん、すごく得意なんだよね」
思わず口元が緩む。
ちょっとくらい、教えてもらえるかもしれない。
でも――迷惑かな。
仕事の邪魔になっちゃうかな。
そんなことを考えては、ペン先が止まり、また動き出す。
※※※
「……よし」
小さな声で自分を励ましながら、英文を書き写していく。
隣では、直也さんが真剣な表情で資料を読み込んでいる。
カタカタとキーを打つ音と、私がノートにペンを走らせる音が、リビングに静かに溶け合っていた。
同じ時間を、同じ場所で過ごしている。
それだけで、不思議と安心できる。
――未来はまだ遠い。
でも、こうして一歩ずつ近づいていけば、きっといつか辿り着ける。
そう信じながら、私は丁寧に英文を書き綴った。




