第一章 変なことも言えない
「紡、そこ違う」
「知ってる」
「知ってて間違えたの?」
「今日はこっちかなって」
「振付に気分を持ち込まないで」
莉緒が呆れる。
「もう一回やるよ」
「えー」
「えー、じゃない」
音楽が流れる。
紡はさっき間違えた振付を――また間違えた。
「あ」
莉緒が止まる。
「紡」
「本日の一乃瀬には実装されておりませーん」
「実装してきて」
「次回アップデートにご期待ください」
「今日やるの!」
笑いが起きる。
紡も笑った。
「はいはい、やりますよー」
結局、その日は最後まで上手くできなかった。
◇
翌朝。
「おはよー」
レッスンルームに入ってきた莉緒が、鏡の前で踊る紡を見つけた。
昨日の振付。
今度は間違えない。
「……できてるじゃん」
紡の動きが止まった。
「見た?」
「見た」
「最悪」
「なんで?」
「努力してる人みたいじゃん」
「してるじゃん」
「違いますー。朝起きたら急にできるようになってましたー」
「嘘つけ」
莉緒が笑う。
紡も笑った。
「秘密にしてね」
「何を?」
「私が真面目だってこと」
「もう遅い」
「アイドル人生終わったー」
「そこから始まるんだよ」
◇
そんな毎日が続いた。
新曲が出る。
選抜が発表される。
紡の名前はない。
また新曲。
また、ない。
最初の頃は数えた。
何回目。
あと何回。
次こそ。
そのうち、数えるのをやめた。
選抜発表の日になると、紡はいつもよりよく喋った。
「ねえ、もし今日入ってたらどうする?」
「喜べば?」
「いや、急に人格変えて泣きながら感謝とかしたほうがいい?」
「怖いよ」
「じゃあ側転?」
「できないでしょ」
「気持ちはできる」
くだらない話。
誰かが笑う。
紡も笑う。
それでいい。
少なくとも、みんなの前では。
◇
ある日。
レッスン後の更衣室で、一人のメンバーが座り込んでいた。
「……どうしたの?」
「ちょっと気持ち悪くて」
紡はしゃがんで顔を見る。
「それはまずいね」
「大丈夫。少し休めば」
「大丈夫って言う人、だいたい大丈夫じゃない説あるよ」
「紡もよく言うじゃん」
「私は特殊訓練受けてるから」
「何の?」
「大丈夫の」
少し笑った。
紡はそれを確認すると立ち上がる。
「待ってて」
「え?」
しばらくして戻ってきた紡は、小さな容器を押しつけた。
「これ」
「何?」
「食べ物」
「それは見れば分かる」
「余った」
「今日作ったの?」
「余った」
「誰のために?」
「余った」
「会話して?」
紡は逃げた。
◇
「紡」
廊下へ出たところで、楓花に呼び止められた。
「何?」
「今の、あの子のために作ったでしょ」
「違うけど」
「昨日、体調悪そうだったもんね」
「たまたま」
「ふーん」
「何その顔」
「別に」
楓花が笑う。
「紡って優しいよね」
「やめて」
即答だった。
「なんで?」
「そういうこと言うの」
「褒めてるんだけど」
「営業妨害」
「何の営業してるの?」
「変な人」
楓花が吹き出す。
紡も笑った。
それで、その話は終わった。
◇
そして。
また、選抜発表の日が来た。
いつもの部屋。
いつもの16人。
紡は椅子に座りながら、床を見ていた。
「今日さ」
誰も反応しない。
「もし私が選ばれたら――」
莉緒が見る。
「何?」
「帰りに赤飯買って」
「自分で買え」
「冷たい」
「まだ発表されてないし」
「じゃあ選ばれなかったら?」
「何買うの?」
「くるみ」
「割るなよ」
小さな笑い。
よし。
今日も大丈夫。
そう思った。
スタッフが入ってくる。
発表が始まった。
一人。
二人。
名前が呼ばれる。
紡は聞いていた。
期待しない。
期待しない。
そう思うほど、耳だけは自分の名前を待っている。
そして。
「――一乃瀬紡」
時間が止まった。
「……はい?」
顔を上げる。
「今回、選抜です」
紡は動かなかった。
莉緒が先に反応した。
「紡!」
「……ちょっと待って」
「おめでとう!」
「待って」
「紡?」
「今しゃべったら」
紡は俯いた。
「たぶん、変なこと言う」
笑いが起きる。
いつもなら、そこにもう一つ重ねる。
もっと笑わせる。
でも。
今日は出てこなかった。
代わりに、
ぽたり。
膝の上に何か落ちた。
「……あれ」
自分でも驚いた。
慌てて目元を拭う。
「やば」
「紡、泣いてる?」
「違う」
「泣いてるじゃん」
「目から汗」
「古いよ」
「うるさい」
笑おうとした。
でも、上手く笑えなかった。
「……やだな」
声が震える。
こんなところ、見せたくなかったのに。
ずっと平気な顔をしてきた。
選ばれなくても、
「次じゃない?」
と言われれば、
「次ある前提なの優しいね」
と笑った。
悔しいなんて言わなかった。
本気で入りたいなんて、ほとんど言わなかった。
だって。
言ってしまったら、
選ばれなかったとき、本当に負けたみたいだから。
紡は何度も目元を拭った。
それでも涙は止まらなかった。
「……やっと」
声が漏れた。
誰も茶化さなかった。
「やっと……明るい報告できる」
それだけだった。
でも。
その一言で、
今まで笑って隠してきた時間が、全部こぼれた気がした。
◇
帰り道。
紡は一人、駅のホームを歩いていた。
ベンチの下に、片方だけの手袋が落ちているのに気づく。
「あ」
立ち止まる。
紡は昔から、落とし物が気になる。
誰のだろう。
いつ落としたんだろう。
持ち主はもう気づいているのかな。
いつものように、勝手に物語を考える。
でも今日は。
その手袋を見ながら、少しだけ笑った。
スマートフォンを開く。
そこには、
選抜 一乃瀬紡
の文字。
何度見てもある。
「……ほんとなんだ」
小さく呟いた。
これで。
少しは胸を張って、アイドルですって言えるのかな。
紡はスマートフォンをしまった。
そして、落ちていた手袋を駅員へ届ける。
このときはまだ、何かを拾ったつもりでいた。
自分がすでに、
別の何かを落とし始めていることには――
まだ、気づいていなかった。
ーー続く




