第三話 あと少し、もう少しで
皆さんは、こういう経験――ネタバレになるので伏せますが、もうものすごく甘酸っぱいということだけは保証します――はありますか? 気まずかったり、あるいはドキドキしたり、いろいろな思いが入り混じると思います。でもそれは、突き詰めていけばどうも変なものかもしれませんね。とてもクリアーに見える思いも、案外突き詰めていくとどうも想像と違ったりします。凪の中にあるそういったものについて想像してもらえると、少し面白いかもしれません。
「明日の放課後、イチョウの木のとこのベンチで待っててくれない?」
夜8時、夕食を食べた後の満腹という名の幸福感に浸りつつ、俺はゲーム実況動画の上にポップアップしてきたその通知をタップした。
「了解だ!」
と打ち込みつつ、ふとそのメッセージに既視感を覚えた。
しばらく考えて、思い出した。あれは、小5の頃のことだった。
*****
「放課後、ウメの木のとこで待っててくれない?」
3時間目が終わってすぐ、黒川さんが聞いてきた。
「おっけー! あの遅咲きのウメだよね、校庭の隅の」
そうそう、と言いながら、彼女は飛び出していった。次の授業は理科室だった。教室を出る前に振り返って、
「忘れないでね!」
と笑う顔に俺も、
「おっけー!」
と笑い返した。これは告白の流れじゃ……? という考えが頭をよぎって、すぐ消えて、また戻ってきた。
放課後、若干の期待とともに校庭のすみ、ウメの木のところに向かった。黒川さんは、真っ赤なランドセル――いつものやつだが、なぜか今日はいつも以上に赤く見えた――を背負って待っていた。
「あ、来た来た」
黒川はそう言って、俺の目を見た。
「これ、落としてたよ」
そういって彼女が差し出したのは、俺の消しゴムだった。ありがとう、と受け取ったが、少し期待外れというか、なぁんだ、といった感じだった。同時に、期待しすぎた自分が恥ずかしかった。
「あと、私……」
消しゴムから視線を戻すと、黒川さんはうつむいていた。過去に見たことがないほど顔が赤かった。
「……ごめん、何でもない。じゃあね!」
彼女は唐突に顔を上げ、それだけ言って駆け出して行った。狐につままれたような思いでそのまま俺は立ち尽くしていた。いくら遅咲きとはいえ、4月になってはもう梅はほぼ全部散っていた。しばらくして、俺も歩き出した。まだ明るい空に浮かぶあの雲のように、曖昧なものだと自分を納得させた。
*****
帰りのホームルームを終え、俺は鞄を背負っていつものベンチに向かった。黒川は、黒い鞄を背負って待っていた。
「あ、来た来た」
どしたー? と聞くと、彼女は消しゴムを差し出した。
「これ、落としてたよ」
ありがとう、と受け取る。既視感、というか一種の確信。
「あのさ、」
ん? と顔を上げると、彼女は顔を赤くしていた。数年前よりもさらに。
「ねえ、覚えてるでしょ? 小学生の頃さ、あたし消しゴム拾ったじゃん?」
うん、あったな、と答える。膨らんでくるはずの期待と反比例して、なぜか冷静になる。
――あの時ね、渡し損ねたからさ。
彼女はそう言って、封筒を差し出した。
「……今さらだけど、受け取ってくれる?」
差し出されたそれを、俺は受け取った。喜びのような何かが脳の許容量を超えて無視され、ありえないかもしれないだろう、という声が大きくなった。そう、これが告白じゃなかったときの保険。イチョウの木の下、赤い空。目の前で顔を真っ赤にして、白い封筒を差し出す結衣。
「わりぃな……」
え、と結衣は言った。ミスれば取り返しのつかない岐路にいるような気がして、俺は急いだ。
「……直で、用を言ってくれないか?」
え、ともう一度結衣は言った。しばらくして、意を決したように彼女は大きく息を吸い込み、口を開いた。
……私、凪のことが……
しかし、そのあとの言葉は俺には聞こえなかった。すぐ後ろを市電が行き過ぎた。その音にかき消されて、彼女の――言い方は悪いが――とても小さな声は途中から全く聞こえなかった。
しばらくの沈黙。うつむいてはいるが、明らかに返事を待っている様子の結衣。
「ごめん、『凪のことが』のあと聞こえなかった」
一瞬のものすごく気まずい沈黙の後、え、うそ、えぇー! と彼女は狼狽した。
「え、聞こえなかったって、ひどいよ、えぇー!」
仕方ないだろう、と思いつつ、でも本当に言いたかったことは多分、わかっていた。
「まあ、いいや。また今度改めて言うよ!」
じゃあね! と慌ただしく帰っていく彼女の背を見ながら、俺は白い封筒を受け取らないでよかった、とひとり安堵した。




