第9話「侵食される箱庭」
白石邸の空気は、目に見えない腐敗の臭いを放ち始めていた。
月曜日の朝七時半。
ダイニングテーブルには、湯気を立てる焼きたての卵焼きと、丁寧に引かれた出汁の味噌汁、艶やかな炊きたてのご飯が並んでいた。
キッチンに立つ涼子のエプロン姿は、一見すると献身的な母親そのものだった。だが、その首元にはスカーフが几帳面に巻かれ、昨夜僕が主寝室で激しく吸い付いた濃い鬱血痕を必死に覆い隠していた。
「蓮、お代わりはいかが? あなたの好きな焼き魚も、もうすぐ焼き上がるわ」
涼子がご飯茶碗を受け取ろうと手を伸ばす。
僕がわざと指先を涼子の柔らかい掌に滑らせると、彼女の肩がビクリと跳ね、耳たぶが一瞬で赤く染まった。瞳が潤み、微かに開いた唇から熱い息が漏れる。
昨夜、夫のベッドで息子の種を膣奥に注ぎ込まれた女の、抗いようのない情欲の余韻。僕が視線を落とし、テーブルの下でスリッパを脱いだ足先で彼女のふくらはぎを撫で上げると、涼子は息を呑んで太ももをギュッと引き締めた。
「……あ、ありがとう、蓮。たくさん食べてね」
上ずった声で言いながら、涼子は視線を泳がせてキッチンへと戻っていく。
かつての「過保護な母」の仮面は、いまや息子への恐怖と発情に塗り潰されていた。
「……何なのよ、朝から」
不快感を隠そうともせず、向かいの席で舌打ちを漏らしたのは詩乃だった。
寝癖のついた黒髪に、露出の多いキャミソール姿。いつもなら僕のことなど空気のように無視してスマートフォンをいじっているはずの彼女が、今朝は怪訝そうに眉をひそめ、僕と涼子を交互に睨みつけていた。
「お母さん、さっきからおかしいよ。蓮のことばっかり構ってさ。私のスムージーはまだなの?」
「あ……ごめんなさい、詩乃。今すぐ作るわね」
普段なら「自分で作りなさい」と小言を挟むはずの涼子が、怯えたようにペコペコと頭を下げ、慌ててミキサーを回し始める。
その態度は、娘に対する配慮ではない。僕の視界から逃れたい一心と、家庭内で取り返しのつかない罪を犯してしまった罪悪感からくる狼狽だった。
「あとさ、今日隼人が泊まりに来るから、夕飯四人分作っといて。あいつ、肉がいいって」
詩乃は当然の権利のように命じた。
これまで通り、この家は自分の思い通りに動く舞台であり、家族はその下僕であると信じて疑わない傲慢な声音。
だが、ミキサーを止めた涼子は、躊躇いがちに振り返り、僕の顔を伺うように視線を送ってきた。
「で、でも詩乃……平日の夜に男の子を泊めるのは……蓮の大学の試験も近いし、少し控えてもらった方が……」
「は? 何言ってんの?」
詩乃の顔が一瞬で険しくなった。スプーンをテーブルに叩きつけるように置き、涼子を睨みつける。
「蓮の試験? そんなのあいつが自分の部屋で勉強すりゃいいだけでしょ。なんであいつの都合で隼人を断らなきゃいけないわけ? お母さん、最近なんか変だよ。蓮に甘すぎるっていうか……気持ち悪いんだけど」
「き、気持ち悪いだなんて……そんなこと……っ」
涼子の顔から血の気が引いた。「気持ち悪い」という娘の放った言葉が、昨夜の近親相姦の記憶と直結し、彼女の胸を鋭利に突き刺したのだ。
震える手でカウンターを掴む涼子を見下ろしながら、僕はゆっくりと立ち上がった。
「母さん、ごちそうさま。すごく美味しかったよ」
僕は詩乃の横を通り過ぎる際、彼女の視界を遮るように立ち止まった。
詩乃が見上げてくる。かつて僕を虫けらのように踏み躙った、あの冷酷な瞳。
だが今の僕の瞳の奥にあるのは、怯えでも崇拝でもない。彼女の母親を肉体で完全に調教し尽くした男の、昏く底知れぬ嘲笑だった。
「……何見てんのよ、蓮。目障りなんだけど」
詩乃が苛立ちを露わにして吐き捨てる。
しかし、その声には以前のような絶対的な余裕はなかった。家の中に漂う異様な湿り気、母親の奇妙な怯え、そして従順だった弟から放たれる説明のつかない威圧感。彼女の鋭い嗅覚が、日常の歯車が狂い始めていることを本能的に察知していた。
「なんでもないよ、姉さん」
僕はあえて「姉さん」と呼び、冷たい笑みを口元に浮かべた。
彼女が信じるこの清潔で傲慢な世界は、すでに土台から腐り落ちている。
遠藤を泊めるがいい。今夜、その男の前で、お前が最も見たくない地獄の幕を開けてやる。
「母さん、いってきます」
「え、ええ……いってらっしゃい、蓮……」
僕が玄関へ向かう背中に、涼子のすがるような熱い視線と、詩乃の苛立ちに満ちた刺すような視線が、同時に突き刺さっていた。
舞台の仕掛けは、完全に整った。




