第6話「息子の顔をした毒薬」
「蓮……? 何を、言っているの……?」
涼子の声は、微かに裏返っていた。
掴まれた手首を引いて逃れようとするが、その力は驚くほど頼りなく、拒絶というよりは戸惑いに近かった。
僕――白石蓮の若くしなやかな指先は、細い手首の骨に吸い付くように力を込め、逃げ道を塞いでいる。
「父さんがいなくなってから、母さんはいつも詩乃と俺のことばかり気にしてる。……でも、母さん自身は誰に甘えてるの?」
「そ、それは……母親なんだから当たり前でしょう? あなたたちを育てるのが、私の役目なんだから……っ」
「本当にそれだけ?」
僕は掴んだ手を引き寄せ、ベッドの上に腰掛ける涼子との距離を一気にゼロにした。
二人の影が夕暮れの壁に重なる。
涼子の瞳が大きく見開かれた。整った鼻梁、乾きかけた艶やかな唇、そして荒くなる呼気。
僕のもう片方の手が、涼子の細い顎へと伸びた。
指先でそっとすくい上げ、上目遣いに僕を見上げさせる。
「蓮、やめなさい……! こんなの、おかしいわ……私はあなたの母親なのよ!?」
「母親なら、息子の前でこんなに甘い香水をつけるの?」
低く囁きながら、僕は涼子の耳元へ顔を寄せた。
首筋に息を吹きかけると、涼子の身体がビクリと跳ね、細い肩が小さく震えた。
耳朶のすぐ裏の、薄く柔らかい皮膚に唇をかすめる。
「ひ……っ!」
「胸の開いた服を着て、俺の部屋に来て、熱があるか確かめるみたいに身体を触って……。母さん、ずっと誰かに触ってほしかったんじゃないの? シンガポールから月に一度しか電話もしてこない夫じゃなくて……目の前にいる、男に」
「ち、違う……そんな、破廉恥なこと……っ、思ってない……!」
否定の言葉とは裏腹に、涼子の喉仏がごくりと動いた。
至近距離で匂い立つのは、怯えの汗と、それを覆い隠すように湧き上がる濃密な雌の匂いだった。
何年も抱かれず、女としての存在価値を誰からも認められないまま、豪華なだけの箱庭で干からびかけていた肉体。
その渇ききった砂漠に、息子の顔をした僕の毒が、一滴ずつ染み込んでいく。
僕は涼子の顎から手を離し、ゆっくりと彼女の肩、そしてふくよかな二の腕を撫で下ろした。
薄手のブラウス越しに伝わる体温は、明らかに異常な熱を帯びていた。
「母さんは綺麗だよ。大学のどの女の子よりも……詩乃なんかより、ずっと女らしい」
「あ……っ……」
詩乃の名を出した瞬間、涼子の瞳に奇妙な動揺が走った。
娘への対抗心、あるいは若さに対する無自覚な嫉妬。
詩乃が男を連れ込んで我が物顔で部屋を使っていることへの、母親としての無力感と羨望。その心の最も脆い亀裂を、僕の言葉が的確に抉り取ったのだ。
僕の手は、涼子の腰へと滑り落ちた。
タイトスカートの生地の上から、成熟した肉付きの良いヒップの膨らみを、指先を沈めるようにして強く撫で上げる。
「んっ……やめ……蓮、手を離して……お願いだから……っ!」
涼子は両手で僕の胸板を押した。
だが、その力はあまりにも弱々しく、指先はパジャマの布地を握り締めてすがるような形になっていた。
拒絶と快楽の狭間で引き裂かれる、四十六歳の熟れた女の理性の軋み。
「今日は、これくらいにしておくよ」
僕は唐突に手を引いた。
一気に突き放された涼子は、バランスを崩してベッドの上に手をつき、肩で乱れた息を吐いた。
その胸元は激しく波打ち、薄いブラウスの隙間から、レースのキャミソールに包まれた白い谷間が汗ばんで光っていた。
「……蓮……あなた、何を考えて……」
「お腹すいたな。母さんの作った夕飯、食べたい」
僕はふっと無邪気な少年の笑みを浮かべてみせた。
さっきまでの獲物を射抜くような冷酷な男の顔を、一瞬で「手のかかる息子」の仮面へとすげ替える。
その急激な温度差に、涼子は完全に毒気を抜かれ、呆然と唇を震わせるしかなかった。
「……え、ええ……。すぐ、作るわね……」
逃げるように立ち上がった涼子の足取りは、ひどく覚束なかった。
部屋を出ていくその背中、歩くたびに揺れるタイトスカートの裾。
その太ももの内側が、禁忌の刺激と恥辱によって、すでにじっとりと濡れ始めていることを、僕は確信していた。
ドアが閉まり、再び訪れた静寂の中で、僕は暗闇を見つめて冷たく口角を上げた。
手応えは十分だった。
あの女の理性は、もうすぐ音を立てて崩れ落ちる。
詩乃の立っている足場に、いま確実に、取り返しのつかない亀裂が刻み込まれたのだ。




