第5話「死んだ偶像と黒い種火」
夕暮れの冷たい影が、自室のフローリングを細長く切り取っていた。
階下から玄関ドアの開閉音と、遠藤の野卑な笑い声が聞こえ、やがて遠ざかっていった。しばらくしてシャワーの流れる音が微かに響き、何事もなかったかのように静寂が戻る。
詩乃にとっては、日常の排泄行為の一つに過ぎないのだろう。
僕はベッドの上で膝を抱え、薄暗がりの中で微動だにせず座り込んでいた。
廊下にぶちまけた白濁はトイレットペーパーで拭き取ったが、指先にこびりついた乾いた体液の匂いと、網膜を灼き尽くしたあの淫猥な光景は、どれだけ目を閉じても消え去ってはくれなかった。
白百合など、最初から咲いていなかった。
あそこにあったのは、ただの泥水と、欲望に飢えた下品な肉塊だ。
僕が半年間、神のように崇め奉り、声をかけただけで虫けらのように踏み躙られたあの傲慢な女の正体が、あれだ。
(壊してやる……)
奥歯がギリリと軋む。
大学で晒された侮辱も、雨の日の絶望も、弟という檻に閉じ込められて味わわされた屈辱も、すべてを百倍にして叩き返してやりたい。
だが、ただ詩乃を責め立てたり、遠藤との情事を暴いたりしたところで何になる?
あの女は「あんたが盗み見て気持ち悪い」と僕を嘲笑い、涼しい顔で家族や大学の友人に僕の異常性を言いふらすだけだろう。
生半可な復讐では足りない。
詩乃が立っている足場そのものを腐らせ、彼女が信じる恵まれた世界を、逃げ場のない汚泥の底へ引きずり降ろさなければ気が済まない。
トントン、と遠慮がちなノックの音が響いた。
「蓮? 入るわよ」
返事をする間もなく、ドアが静かに開いた。
入ってきたのは、母の涼子だった。
買い物から戻ったばかりなのだろう。外出着のシックな淡いベージュのブラウスに、膝丈のスリットが入ったタイトスカート。手入れされた長い黒髪から、ふわりと甘く熟れた香水の匂いが立ち込めた。
「まあ……部屋を真っ暗にして、どうしたの?」
涼子は小走りでベッドサイドへと歩み寄り、躊躇うことなく僕のすぐ隣に腰を下ろした。
マットレスが沈み込み、柔らかな太ももの温もりが、僕のパジャマ越しに密着する。
「お昼に詩乃から聞いたわ。あなた、体調が悪くてずっと部屋に閉じこもってるって。……おでこ、見せて」
涼子は細く滑らかな掌を僕の額に当て、そのまま顔を覗き込んできた。
鼻先が触れ合いそうな至近距離。
薄化粧の下に透ける白い肌、憂いを帯びた大きな瞳、そして艶やかな紅を引いた唇。
四十六歳という年齢が信じられないほど、この女の肉体は瑞々しく、そしてどこか異常なほど「女」の匂いを放っていた。
「熱はないみたいね……。でも、顔が真っ青よ。蓮、何か悩みでもあるの? 大学のこと? それとも……」
涼子の手が、額から首筋、そして僕の胸元へと滑り落ちていく。
息子の身体を心配する母親の手つきではない。
指先を這わせる仕草、触れる長さ、吐息の湿り気。そのすべてに、夫から何年も女として扱われてこなかった飢餓感と、美青年に成長した実の息子への歪んだ執着が、無自覚に滲み出ていた。
「お父さんがシンガポールに行ってから、もう三年……。あなたがこうして側にいてくれないと、お母さん、この広い家でどうにかなっちゃいそうよ」
涼子の声は微かに震え、その瞳には縋り付くような哀愁が揺れていた。
息子に寄りかかる母親。だがその実態は、女として干からびかけ、孤独という猛毒に侵された哀れな雌だった。
その瞬間――僕の頭の中で、冷酷な閃きが黒い稲妻のように走った。
(そうか……ここだ)
詩乃の傲慢な特権意識。裕福で何不自由ない家庭、清廉潔白な令嬢としての立場、弟を虫けらのように見下せる安全圏。
そのすべての土台を支えているのは、この母親だ。
この美しく上品な母親が、実の息子の肉体に狂わされ、家庭の心臓部で下品に啼き乱れる性奴隷へと成り下がったらどうなる?
逃げ場のない密室で、最も神聖であるはずの母親の胎内を、実の弟が泥のように犯し尽くす姿を見せつけられたら――詩乃の世界は、どれほどの地獄へと崩落するだろうか。
暗黒の愉悦が、僕の背骨を心地よく痺れさせた。
「……母さん」
僕は視線を上げ、白石蓮の涼しげな瞳で、至近距離にある涼子の顔をじっと見つめ返した。
いつもの無口で従順な弟の目ではない。獲物を値踏みし、捕食しようとする男の光を、微かに瞳の奥に宿らせて。
「え……?」
涼子が息を呑み、わずかに肩を跳ねさせた。
僕は逃げようとする涼子の細い手首を、迷いなく力強く掴み取った。
「蓮……? 痛いわ、どうしたの……?」
「母さん、ずっと寂しかったんだね」
低く、甘く濁ったバリトンの声。
涼子の瞳が激しく揺らぎ、その白い首筋が、微かに朱を帯びて染まり始めた。




