第3話「土足の侵略者」
午後二時を回った頃、白石邸の重厚な玄関ドアから、けたたましいインターホンの音が鳴り響いた。
母の涼子は「蓮の夕飯の買い出しに行ってくるわね」と、嬉しそうに車で出かけていた。広大なリビングに取り残されていた僕の耳に、階段を駆け下りてくる荒々しいスリッパの音が届く。
現れた詩乃は、先ほどまでの部屋着とは打って変わり、肩を露出させたオフショルダーのタイトなサマーニットに、極端に丈の短い黒のミニスカートを穿いていた。
大学の講義室で見せる清楚な装いとはまるで違う、男の性欲を露骨に煽るための衣装。
「待ってて、今開けるから」
詩乃が鍵を開けると、むせ返るような安っぽい柑橘系コロンの匂いとともに、大柄な男が土足同然の勢いで上がり込んできた。
遠藤隼人。
経済学部の四年生で、アメフト部の主力。日に焼けた浅黒い肌に、短く刈り上げた髪、太い首根っこ。大学内でも取り巻きを連れて派手に遊び歩いていると噂の男だった。
「うわ、マジでデカい家だな。親父さん、まだ海外?」
「うん、シンガポール。お母さんも夕方まで帰ってこないから、完全に二人きりだよ」
詩乃の声は、甘ったるく媚びを含んでいたが、そこには恋人同士の純粋な愛情など微塵も感じられなかった。互いの価値を利用し合う、擦れ切った男女の共謀めいた響き。
遠藤は靴を脱ぎ散らかすと、リビングの入り口に立っていた僕の存在に気づき、眉をひそめた。
「あん? 誰だこいつ」
「あ、弟。気にしなくていいよ、ただの居候みたいなもんだから」
詩乃は僕の顔を直視することすら拒むように、冷ややかに言い捨てた。
そして財布からクシャクシャになった千円札を一枚引き抜くと、僕の足元へ向けて放り投げた。
ヒラヒラと落ちた紙幣が、フローリングの上に無残に着地する。
「蓮、邪魔だから駅前のスタバかネカフェでも行って時間潰してきて。夕方六時までは絶対に帰ってこないでよね」
命令だった。
かつて大学の雨の日に僕をゴミのように見捨てたあの冷酷な眼差しが、今度は実の弟である僕へと向けられている。
遠藤は僕を一瞥し、鼻で嗤った。
「なんだよ、イケメン風の癖にトロそうな弟だな。おい、姉ちゃんの言う通り外行ってろよ。これから大人の時間なんだからさ」
遠藤はそう言い放つと、僕の目の前で、詩乃のミニスカートの上からその丸みを帯びた臀部を鷲掴みにした。
ギュッと肉を握り潰すような乱暴な手つき。
だが、大学で男子生徒からの視線すら冷たく拒絶していたあの高嶺の花は、嫌がるどころか、自ら身体を遠藤の太い腕へと擦り寄せていた。
「ん……ちょっと、隼人、ここ玄関だよ……」
「いいだろ、減るもんじゃねえし。ほら、早く部屋行こうぜ。今日ゴム持ってきてねえから、途中で出すからな」
「もう、いつも勝手なんだから……」
口先では抗議しながらも、詩乃の手はすでに遠藤のジーンズの股間へと伸び、膨らみ始めた突起を慣れた手つきで撫で回していた。
情緒も、ロマンスも、情緒的な会話の余白すらない。
ただ飢えた獣のように互いの肉体を貪り、性欲を排泄するためだけの、乾ききった即物的な儀式。
二人は僕のことなど視界から完全に消し去り、絡み合うようにして階段を上がっていった。
バタン、と二階の奥にある詩乃の部屋のドアが乱暴に閉められる。
玄関ホールに取り残された僕の視界には、床に落ちた千円札だけが惨めに映っていた。
全身の血が逆流するような感覚。
耳の奥でドクドクと激しい脈動が鳴り響き、視界が赤黒く染まっていく。
(あいつが……あの男に、抱かれる……?)
僕が息を潜めて見つめることしか許されなかった聖女。
名前を呼ぶことすら許されず、触れることなど神への冒涜だと信じ込んでいた絶対の偶像が、いま、あんな粗暴な男の前に自ら腰を振り、下品に喘ごうとしている。
吐き気と、脳髄を焼き尽くすような嫉妬。
そして――それらを遥かに凌駕する、底知れぬ暗黒の好奇心が、僕の腹の底でドロリと鎌首をもたげた。
僕は床の千円札を拾わなかった。
玄関のドアを小さく開けて、わざと大きな音を立てて閉める。
外へ出たと思わせるための偽装。
靴を脱ぎ、靴下の足裏で音を完全に殺しながら、僕はゆっくりと、一段ずつ階段を上り始めた。
二階の廊下の突き当たり。
建て付けの悪い木製ドアの向こうから、すでに生々しい衣擦れの音と、荒々しい吐息が漏れ聞こえていた。




