第2話「既視感の毒針」
吹き抜けの螺旋階段を降りると、香ばしいバターの匂いと焼きたてのパンの甘い香りが漂ってきた。
広大なリビングダイニングは、建築雑誌から切り取ったようにモダンで洗練されていた。大理石のアイランドキッチンには、エプロンを身につけた長身の女性が立っていた。
「あら、蓮。やっと起きてきたのね」
振り返った女性を見て、僕は思わず足をとめた。
白石涼子――詩乃と蓮の母親。
四十六歳と聞いていたが、信じられないほど若々しく艶やかだった。手入れの行き届いた艶やかなセミロングの黒髪、薄化粧でも隠せない整った目鼻立ち。シンプルなコットンのニットからは、豊満な胸のふくらみと引き締まった腰のラインがはっきりと主張している。
「顔色が少し悪くない? 風邪でも引いたのかしら」
涼子は小走りに駆け寄ってくると、僕の返答を待たずに、細く柔らかい掌を僕の額にぴたりと押し当ててきた。
甘いフローラル系の香水の匂いと、大人の女特有の濃密な体温。
僕が息を呑んで固まっていると、涼子の手は首筋、そしてパジャマの襟元へと滑り、胸元のボタンを丁寧に指先で留め直した。
「パジャマの胸元、はだけていたわよ。……もう、二十歳前なんだから、少しは身だしなみに気を配りなさい。お父さんがシンガポールに行ってから、あなた本当に私の言うことを聞かなくなって……」
過保護、という言葉では片付けられない粘着質な手つき。
息子に向ける母親の目というよりは、どこか孤独に飢えた女が、唯一の手元にある宝物に執着しているような生々しい熱配りだった。
「お母さん、うっとうしい。朝から蓮にかまけてないで、早くコーヒーちょうだい」
ダイニングテーブルの椅子に深く腰掛けた詩乃が、一度もこちらを見ずに吐き捨てた。
片手にはスマートフォン。器用に親指を滑らせながら、足を組んで貧乏ゆすりをしている。
大学で見る、誰に対しても柔らかな笑みを絶やさない気品ある令嬢の姿は、ここには微塵もなかった。
「もう、詩乃ったら。蓮、あなたも座りなさい。フレンチトースト、あなたの好きな蜂蜜をたっぷりかけてあるから」
涼子がキッチンへ戻ると、僕は恐る恐る詩乃の向かいの席へと腰を下ろした。
テーブルを挟んで、わずか一メートル。
講義室の最後列から、何十メートルも離れて渇望していた彼女が、手を伸ばせば触れられる距離にいる。
薄いスウェットから覗く白い太もも。組み替えられた足の隙間に見える柔らかな素肌。目の前の現実に、僕の下腹部の奥がじんわりと熱を帯びていくのを感じた。
「あの……詩乃」
呼び捨てにする背徳感に心臓を跳ねさせながら、僕はできる限り自然を装って話しかけた。
弟という特権を使って、少しでも彼女と言葉を交わしたい。彼女の日常に溶け込みたい。
「今日の大学……何時から行くの? もしよかったら、一緒に――」
ピタリと、詩乃の指が止まった。
画面からゆっくりと上げられた瞳。
そこに浮かんでいたのは、家族に対する照れや親しみなどではなかった。
「……は?」
低く、濁った乾いた声。
詩乃は顎をわずかに引き、眉間を寄せて僕を睨みつけた。
虫けらを見るような、路傍の泥水を見下ろすような、一片の温度も宿らない冷酷な眼光。
「何言ってんの? 誰があんたなんかと一緒に大学行くわけ? キャンパスで見かけても声かけないでって、何回言えば分かるの?」
「え……」
「弟だからって調子に乗らないでよ。あんたが私の弟だってこと、友達にも言ってないんだから。みっともない」
心臓を、鋭利な氷の針で深く突き刺されたような感覚。
息が止まった。
この眼差し。この、相手を人間として認識していない無機質な侮蔑。
(……同じだ)
脳裏に、あの半年前の雨の日が鮮烈に蘇った。
ずぶ濡れになりながら傘を差し出した僕に、彼女が向けたあの目。
『何? 話しかけないで。気味が悪いから』
相沢拓海として浴びせられたあの絶対零度の視線と、いま目の前で弟の肉体に入った僕を見下ろす視線が、寸分の狂いもなく重なり合った。
容姿が変わろうと、美青年の弟になろうと、関係なかった。
彼女にとって、自分以外の人間はすべて「無価値なゴミ」か「自分のプライドを満たすための道具」でしかないのだ。
憧れていた白百合。不可侵の聖女。
僕が神格化し、崇め奉っていた偶像の真の姿は、底知れない悪意と傲慢さで塗り固められた、冷血な怪物だった。
「ほら、突っ立ってないでオレンジジュース取ってきて。あと、夕方に駅前のカフェでこれ受け取ってきてよね」
詩乃はスマホの画面を僕の目の前に突きつけた。そこには、限定スイーツのテイクアウト予約画面が表示されていた。
顎で使われるだけの召使い。
彼女の視界に映る僕は、異性どころか、人間ですらない。
「詩乃、蓮を顎で使うのはやめなさい。蓮は今日、私とお買い物に行くんだから」
奥からコーヒーを持ってきた涼子が割って入るが、詩乃は「ふん」と鼻を鳴らし、立ち上がった。
「じゃあ勝手にすれば。私、今日隼人と部屋で過ごすから。二人とも、邪魔しないでよね」
隼人――。
聞き覚えのある男の名を口にしながら、詩乃は一度も僕の顔を見ることなく、足音を荒げて二階へと戻っていった。
一人残された食卓で、冷めかけたフレンチトーストを見つめながら、僕の指先は小刻みに痙攣していた。
胸の奥で、淡い恋情の残骸が、ドス黒いヘドロのような憎悪へと急速に腐敗していくのを感じていた。




