第1話「硝子の鳥籠」
彼女は、汚れた世界に咲く白百合だった。少なくとも、僕にとっては。
講義室の最前列に座る白石詩乃の後ろ姿を、僕はいつも一番後ろの、薄暗い席から見つめていた。
窓から差し込む午後の光を浴びて透き通るような黒髪。無駄のない引き締まった首筋。どんな男の軽薄な誘いも、涼しげな微笑み一つで優雅にいなす凛とした佇まい。
学部のマドンナ。誰もが羨望の眼差しを向け、だが誰も触れることの許されない高嶺の花。
相沢拓海という、誇れるものなど何一つない陰気な男にとって、彼女は不可侵の偶像であり、生きるための唯一の光だった。
――そして、一度だけ犯した愚行の記憶が、今も胸の奥で黒い錆のように疼いていた。
半年前の雨の日。勇気を振り絞り、傘を差し出そうとした僕に向けられた、あの視線。
『……何? 話しかけないで。気味が悪いから』
ゴミ箱の底に沈む生ゴミでも見るような、絶対零度の眼差し。あの一瞬で、僕は自分が彼女と同じ空気を吸うことすら許されない虫けらなのだと骨の髄まで思い知らされたはずだった。
それなのに。
「……ん……っ」
意識が浮上した瞬間、鼻腔をくすぐったのは、自分の安アパートの湿気たカビの臭いではなかった。
微かに漂う、柑橘系の上品なアロマオイルの香り。
目を開けると、視界に飛び込んできたのは、見慣れた染みだらけの合板の天井ではなく、間接照明が仕込まれた高い白壁だった。
身体を起こす。
肌に触れるシーツは、まるで滑らかな絹のように柔らかく、冷んやりと心地よい。キングサイズの低反発ベッド。足元には毛足の長いチャコールグレーのラグが敷かれ、壁一面の本棚には洋書やデザイン関連の専門書が整然と並んでいる。
(ここは……どこだ……?)
喉がカラカラに渇いていた。
ベッドから足を下ろすと、床の温もりが足裏に伝わる。床暖房だ。
部屋の一角にある引き戸を開けると、大理石調の洗面スペースが広がっていた。
蛇口をひねり、冷水で顔を洗おうとして――僕は鏡に映る自分と目が合い、息が完全に止まった。
「……え?」
鏡の向こうに立っていたのは、ボサボサの髪に無精髭、青白い肌をした惨めな「相沢拓海」ではなかった。
涼しげな二重の切れ長の瞳。高く筋の通った鼻梁。引き締まった顎のライン。まだ十代特有の瑞々しさを残しながらも、ハッとするほど整った美青年の顔立ち。
着ているのは、仕立ての良いネイビーのシルクパジャマ。肩幅は広く、胸板は薄く引き締まり、手足は長く伸びている。
震える指先で、鏡の中の頬に触れる。
鏡の中の美青年も、寸分の狂いもなく同じ動きで頬に指を当てた。
「嘘だろ……これ、僕なのか……?」
掠れた声が口から漏れた。だが、その声すらも、自分の耳慣れた濁った声ではなく、耳に心地よく響く澄んだバリトンだった。
パニックに陥り、胸が激しく上下する。夢なのか? 事故に遭って意識を失ったのか?
混乱が頂点に達しようとした、その時だった。
ガチャリ、とノックもなしに部屋のドアが乱暴に開かれた。
「ちょっと、蓮! いつまで寝てんのよ」
心臓が跳ね上がった。
振り返った僕の視界に飛び込んできたのは――白石詩乃だった。
大学の講義室でしか見たことのなかった、あの神聖な少女。
だが、今の彼女は完璧に繕われたキャンパスの姿とはまるで違っていた。
肩まで伸びた黒髪は無造作にクリップでまとめられ、素肌が透けそうな薄いグレーのスウェットにショートパンツ。胸元は大きくはだけ、鎖骨のくぼみと、ブラジャーをつけていないであろう柔らかな双丘のふくらみが、歩くたびに微かに揺れている。
「早く降りてきて朝ごはん運んで。お母さん、朝からまた熱心にフレンチトーストなんか焼いちゃって、付き合わされるこっちの身にもなってほしいわ」
詩乃は僕の顔をろくに見もせず、不機嫌そうに早口で言い捨てると、パタパタと素足の音を立てて廊下へ去っていこうとした。
「……詩乃……さん?」
無意識に、喉からその名が零れ落ちた。
詩乃の足がピタリと止まり、ゆっくりと振り返る。
その眉が、不快そうにピクリと吊り上がった。
「あんた、寝ぼけてんの? 急に何よ『さん』付けなんて。気持ち悪い」
冷ややかな舌打ち。
だが、その暴言すらも、今の僕の耳には届いていなかった。
詩乃は僕を「蓮」と呼んだ。
白石蓮。
詩乃の二歳下の弟。大学の噂で聞いたことがあった。容姿端麗だが無口で、名門私立大に通う詩乃の自慢の弟だと。
(僕が……蓮……? 詩乃の、弟……?)
全身の血が、沸騰するように熱くなった。
入れ替わったのだ。どういう理屈かは分からない。神の悪戯か、それとも僕の狂おしい執着が引き起こした奇跡か。
あの不可侵の聖女と、同じ屋根の下にいる。
彼女の寝息が聞こえる距離で、彼女の無防備な素肌を見つめ、家族として名前を呼ばれている。
講義室の隅で息を潜めていた虫けらの僕が、ついに彼女の聖域の、最も内側へと入り込んだのだ。
「ふふ……っ」
鏡を見つめる僕の口元から、歓喜に震える笑みが漏れ出た。
どんな男も立ち入ることのできない彼女のプライベートを、これから毎日、独占できる。
これが、逃げ場のない悪夢の檻への入り口であることなど、この時の僕は露ほども知らなかった。




