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『振り返るな、それは見られるのを待っている』 〜イギョウ様と、名前を持たぬものの話〜  作者: 普通


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第4話 それは、名前を持っていた

第4話 それは、名前を持っていた

「みている」という声を聞いてから、三日間、俺は誰にも話さなかった。

さよにも、父親にも。

話せなかった、という方が正確だ。

声を聞いたことを話せば、また父親が来る。

また「考えるな」と言われる。

それは分かっていた。

でも、俺は考えることを止められなかった。

止められないまま、また心配をかけるのが嫌だった。

———

三日目の夜、夢を見た。

———

また祠だった。

雪の中に立っていた。

今回は後ろに気配がなかった。

静かな夢だった。

———

俺は祠の前で、ただ立っていた。

———

するとその祠の木の柱に、何か彫ってあることに気づいた。

夢の中でしゃがんで、近くで見た。

文字だった。

古い字体で、読みにくかった。

でも一つだけ、はっきり読めた。

———

名前だった。

———

人の名前のような、二文字の言葉。

なんと読むのか、夢の中の俺には分かった。

でも目が覚めた瞬間に、読み方だけが消えた。

文字の形は、かろうじて覚えていた。

———

朝起きて、メモ帳にその字を書いた。

さよに見せた。

「これ、何か分かる?」

さよは字を見た。

少し間があった。

「……どこで見たの」

「夢の中で。祠の柱に彫ってあった」

さよの顔が、変わった。

「お父さんに聞く」

———

さよが電話している間、俺はメモの字を見ていた。

古い字体だったが、辛うじて読もうとすれば読めた。

「鈴」と「耳」を組み合わせたような、でもどちらでもない字だった。

———

さよが電話を終えた。

「お父さんが、今すぐ写真を送れって」

俺はメモを撮影して、送った。

———

五分後、父親から電話がかかってきた。

さよが出て、すぐに俺に渡した。

———

「この字を、どこで見た」

父親の声が、いつもより低かった。

「夢の中です。祠の柱に彫ってありました」

「夢に出てきたのは初めてか」

「はい」

「向こうから聞こえてきたわけじゃないか。お前が自分で見たのか」

「俺が、夢の中でしゃがんで読みました」

———

父親は少し間を置いた。

「読み方は分かるか」

「夢の中では分かりました。起きたら忘れました」

「忘れたのは、よかった」

「なぜですか」

「この字は、名前だ」

———

俺は、三日前に考えたことを思い出した。

老人が向こうのことを気にかけているように見えた、あの夜。

もしかして老人は——と考えかけて、止めた、あの考え。

———

「向こうの、名前ですか」

「そうだ」

「向こうには、名前があったんですか」

「あった。ただし、誰も口にしない。口にすれば引き寄せると言われているから」

「俺が夢の中で見たのは」

「向こうが見せた。意図的に」

———

俺は黙った。

「なぜ名前を見せるんですか」

「名前を知らせたいんだろう」

「知らせて、どうするんですか」

「名前を呼ばせたい」

———

父親の声が、さらに低くなった。

「名前を呼ばれたことが、向こうには一度もない」

「一度も?」

「イギョウ様と呼ばれ続けた。それは本当の名前じゃない。向こうも分かっている」

「本当の名前で呼ばれたら、向こうはどうなるんですか」

———

父親は答えなかった。

長い沈黙があった。

電話口で、父親が息を吐く音がした。

———

「……消える、というのは、本当に消えるということじゃないかもしれない」

父親は言った。

「以前と違うことを言いますね」

「考えていた。お前に会ってから、ずっと」

「どういうことですか」

———

「向こうは長い間、本当の名前で呼ばれたことがない。名前のないものは、留まり続ける。この世の外に行けない」

父親は続けた。

「正しい名前で呼ばれれば、向こうは初めて自分が何者か分かる。自分が何者か分かれば、行き先が分かる」

———

俺は、ゆっくり息を吐いた。

「行き先というのは」

「この世の外だ」

「消えるんじゃなくて、行くべき場所に行く、ということですか」

「そういうことだ」

———

「読み方を、教えてもらえますか」

———

父親はすぐに答えなかった。

三十秒ほど間があった。

———

「教えない」

「なぜですか」

「お前が呼ぶと、どうなるか分からない」

「分からないというのは」

「呼んだ人間が、どうなるかの記録がない。試した人間がいないから」

「試してみます」

「駄目だ」

———

父親の声は、静かだったが、はっきりしていた。

「お前はさよの夫で、息子の父親だ。試す立場にない」

「でも」

「駄目だ」

———

電話が切れた。

———

さよが俺を見ていた。

「全部聞こえてた」

「……そうですか」

「試すつもりだったの」

俺は正直に答えた。

「そのつもりでした」

さよは少し俯いた。

「お父さんの言う通りだと思う」

「でも」

「あなたに何かあったら、私と息子はどうなるの」

———

俺は黙った。

さよは続けた。

「向こうのことを考えてるのは分かる。可哀想だと思ってるのも分かる」

「でも、それはあなたが決めることじゃない」

———

「誰が決めることですか」

「誰も、決められない。だから何百年もそのままなんだと思う」

さよは窓の外を見た。

「ただ……」

さよは言いかけて、止めた。

「なんですか」

「私も、少し思うことがある」

「向こうのことで?」

さよは頷いた。

「あの町で生まれて、育って……向こうのことは怖いものだとずっと思ってた」

「今は?」

「今も怖い。でも」

さよは俺を見た。

「名前があったって、初めて知った」

———

夕方、息子を公園に連れていった。

砂場で遊ばせながら、俺はベンチに座っていた。

老人が来るかもしれないと、どこかで思っていた。

来なかった。

———

でも、帰り際。

公園の出口で、息子が立ち止まった。

来た道と反対の方向を、じっと見た。

俺は息子の視線の先を、見なかった。

「行くぞ」と言って、息子の手を引いた。

息子は少し抵抗した。

その方向を、見たがっているみたいに。

———

「こっちだ」

もう一度言ったら、息子はしぶしぶ俺についてきた。

———

家に帰って、息子を風呂に入れて、飯を食わせて、寝かしつけた。

息子は珍しく、なかなか眠らなかった。

目を開けて、天井を見て、また目を閉じて。

それを繰り返した。

———

「眠れないのか」

小声で言ったら、息子が俺の方を向いた。

目が合った。

本物の目だった。

向こうはいなかった。

でも息子は、何か言いたそうな顔をした。

———

「なんだ」

俺は言った。

息子の口が動いた。

まだちゃんとした言葉は出ない。

でも今夜は、音が出た。

———

「……すず」

———

俺は、固まった。

———

息子は目を閉じて、そのまま眠った。

———

「すず」。

———

鈴。

あのメモの字は、「鈴」に似ていた。

夢の中で読めた、あの名前。

起きたら忘れた、あの読み方。

———

息子が、言った。

「すず」と。

———

俺は息子の寝顔を見た。

穏やかな顔だった。

普通の、一歳の子供の顔だった。

———

息子は何を聞いていたのか。

何を伝えようとしたのか。

———

さよに話すべきか、迷った。

話したら、また父親が来る。

読み方を教えてもらえないまま、また「考えるな」と言われる。

———

でも、隠すことでもない気がした。

———

居間に戻って、さよに話した。

「息子が、さっき寝る前に『すず』と言った」

さよは、俺を見た。

「すず、って」

「鈴、だと思う。メモの字、鈴に似てたから」

さよはしばらく黙っていた。

「向こうが、息子に言わせたの?」

「分からない。ただ言っただけかもしれない。一歳だから」

「……一歳が急に言う言葉じゃない」

———

さよは立ち上がって、電話を取った。

「お父さんに言う」

俺は止めなかった。

———

さよが電話している間、俺はメモを見た。

「すず」。

もしそれが名前の読み方なら。

向こうの、本当の名前は。

———

さよが戻ってきた。

「お父さん、今夜中に来るって」

「新幹線、もうないんじゃないですか」

「車で来るって」

———

父親が到着したのは、深夜の二時過ぎだった。

疲れた顔だったが、目は鋭かった。

居間に座って、お茶も飲まずに言った。

「息子は今、眠っているか」

「眠っています」

「様子は」

「普通です」

———

父親は頷いた。

「『すず』という音を、息子が言ったんだな」

「はい」

「向こうが言わせたのかどうかは、分からない。ただ、タイミングが悪い」

「タイミングが悪いというのは」

「夢に名前の字が出てきた同じ日に、息子がその読みに近い音を発した」

「偶然じゃないと」

「偶然とは思えない」

———

父親はしばらく黙った。

それから、俺を真っ直ぐ見た。

「一つだけ聞く。お前は、向こうの名前を呼ぶつもりがあるか」

———

俺は正直に答えた。

「あります」

「さよの制止も、俺の制止も、関係なく?」

「……関係ないとは言えません。でも、考えています」

「なぜだ」

「向こうが何百年も名前を呼ばれずにいるなら、一度くらい呼んでやってもいいんじゃないかと思うからです」

「呼んだ後、お前がどうなるか分からなくても?」

「分からなくても」

———

父親は目を閉じた。

長い間、動かなかった。

さよが俺の腕を掴んでいた。

気づかなかったが、ずっと掴んでいたらしかった。

———

父親が目を開いた。

「お前に、話しておくことがある」

「なんですか」

「向こうの本当の名前を、知っている人間がいる」

「あなたですか」

「俺は知らない。ただ、一人だけ知っている人間がいる」

———

「誰ですか」

———

父親は答えた。

———

俺は、その名前を聞いて、椅子から立ち上がりそうになった。

———

「……それは」

「そうだ」

父親は静かに言った。

「あの老人だ」

———

「老人が、向こうの本当の名前を知っている」

「知っているだけじゃない」

父親は続けた。

「あの老人が、向こうに名前をつけた人間だ」

———

俺は、公園でのあの夜を思い出した。

老人が「お前が振り返らないためだ」と言った夜。

向こうのことを、どこか惜しむように話していた老人。

———

名前をつけた。

———

「老人は、何者なんですか」

「それは俺にも分からない。ただ」

父親は俺を見た。

「老人が向こうの名前を知っていて、何十年も呼ばずにいる理由は一つだ」

———

「呼んだら、向こうが消えるから」

「そうだ」

「老人は、向こうに消えてほしくない」

———

父親は頷いた。

「向こうを、長い間見てきた人間だ。消えることへの情が、あるんだろう」

———

「老人に、呼んでもらうことはできませんか」

「できない。本人が拒否している」

「老人を説得することは」

「試みた人間が、過去に何人かいる。誰も成功していない」

———

部屋が静かになった。

深夜の静けさの中で、三人が黙っていた。

———

息子の部屋から、かすかな寝息が聞こえた。

———

「老人に、会いに行きます」

俺は言った。

「無駄だ」

「無駄でも、行きます」

「老人がどこにいるか、お前には分からない」

「東京に来ていました。また来るかもしれない」

「来ない」

「なぜ分かるんですか」

———

父親は少し間を置いた。

「向こうの名前が動き始めた。老人はそれを感じている」

「だから来ない?」

「だから、動けない」

———

俺は父親を見た。

「老人は今、どこにいるんですか」

「恐らく」

父親は静かに言った。

「あの岩の前だ」

———

俺は、さよの顔を見た。

さよは俺の腕を、まだ掴んでいた。

少し強くなった気がした。

———

「行くつもりか」

父親が言った。

「さよと息子を、守れるか」

「一人で行く」

「一人で行ったとして、老人が話すと思うか」

俺は答えられなかった。

———

「ただ」

父親は続けた。

「お前が行くなら、一つだけ持っていくものがある」

「なんですか」

父親は立ち上がって、荷物の中から小さな布袋を取り出した。

「これを、岩の前で開けろ」

「中に何が入っているんですか」

「向こうへの、答えだ」

「どういうことですか」

「向こうはずっと問いかけてきた。お前を見たがって、名前を知らせようとして、息子を通して音を伝えて」

父親は布袋を俺に渡した。

「それ全部が、問いかけだ。お前が自分の意志で来るかどうか、という問いだ」

———

「答えは、その袋の中に入っているんですか」

「入っていない」

父親は言った。

「お前自身が、答えだ」

「袋を開けたら、何が起きるんですか」

「向こうが、動く」

———

「動いた向こうを、老人が止めるかもしれない。止めないかもしれない」

「どちらになるかは」

「老人次第だ」

———

さよが口を開いた。

「私も行く」

「駄目だ」

父親はさよを見た。

「お前はあの町の人間だ。向こうとの繋がりが、こいつより深い。一緒にいたら、足を引っ張る」

「でも」

「息子を頼む」

———

さよは黙った。

俺を見た。

俺もさよを見た。

———

「行ってくる」

俺は言った。

「一人で行ってくる」

———

さよは、俺の腕をやっと離した。

離す直前、少しだけ強く握った。

———

父親が言った。

「一つだけ約束しろ」

「なんですか」

「老人に会えても、会えなくても」

「向こうの名前を、自分で呼ぶな」

「老人に呼んでもらうために行くんですよね」

「そうだ。ただ」

父親は俺を見た。

「衝動が来る。その場に行ったら、呼びたくなる。呼んでやりたくなる」

「その時は」

「こらえろ。向こうの名前を呼ぶ権利は、お前にはない」

———

俺は頷いた。

———

翌朝、俺は車に乗った。

布袋を助手席に置いた。

カーナビに、さよの実家の近くの住所を入れた。

———

出発する前に、息子の部屋を覗いた。

息子はまだ眠っていた。

穏やかな顔だった。

———

「行ってくる」

小声で言った。

息子は眠ったまま、少しだけ笑った気がした。

———

エンジンをかけた。

車が動き出した。

———

山までの道が、続いていた。

———

老人が岩の前にいるとしたら。

岩の下に向こうがいるとしたら。

俺が布袋を開けたら、向こうが動くとしたら。

———

そこから先は、誰にも分からない。

父親にも、さよにも。

———

ただ一つだけ、俺には分かっていた。

———

向こうは何百年も待っていた。

誰かが来るのを。

振り返れる人間が、自分の意志で来るのを。

———

俺は、今から行く。

———

自分の意志で。

———

それだけで、十分な気がした。

ありがとうございました。

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