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『振り返るな、それは見られるのを待っている』 〜イギョウ様と、名前を持たぬものの話〜  作者: 普通


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第3話 それは、見てほしがっていた

第3話 それは、見てほしがっていた

息子が窓の外に手を振った翌日、俺は父親に直接電話した。

さよを通さずに、初めて自分から。

———

「夢の話を聞いた後も、何かありましたか」と父親は聞いた。

「息子が窓の外に手を振りました。外には誰もいませんでした」

「昼間ですか」

「昼間です」

———

父親は少し間を置いた。

「昼間なら、息子が見えているものと、向こうは別かもしれない」

「別、というのは」

「子供は大人に見えないものを見る。向こうとは限らない」

「じゃあ、大丈夫ですか」

「分からない」

———

父親は正直な人だと思った。

大丈夫と言ってくれた方が楽だったが、分からないと言う方が信用できた。

———

「一つだけ聞いていいですか」

「なんだ」

「向こうが俺に自分を見せようとしているとしたら、俺はどうすればいいんですか」

「見なければいい」

「それだけですか」

「それだけだ」

———

「でも、向こうが……怖いだけじゃないとしたら」

俺は昨日さよから聞いた話を思い出しながら言った。

父親は少しの間、黙っていた。

———

「それを考えるな」

声が、少し変わった。

低くなった。

「向こうが何を思っていようと、関係ない。お前には関係のない話だ」

「なぜですか」

「向こうに同情したら、向こうに近づく理由ができる。近づいたら、見る理由ができる。見たら——分かるだろう」

———

俺は黙った。

「さよに言っておけ。余計なことを話すなと」

父親はそれだけ言って、電話を切った。

———

さよにその話をしたら、さよは少し困った顔をした。

「お父さんに怒られた」

「怒ってはいなかったですよ。ただ、余計なことを話すなって」

「同じことだよ」

さよは苦笑した。

「でも、お父さんが言うのも分かる。私もそう思う」

「向こうの事情なんて、関係ない?」

「関係ない、というより……」

さよは少し考えた。

「近づく理由を作っちゃいけない、ってこと」

———

俺は頷いた。

頷きながら、でも頭の片隅で思っていた。

———

向こうはなぜ、俺に自分を見せようとしたのか。

———

長い間、岩の下にいる。

誰にも本当の姿を見せられないまま。

———

俺が振り返らなかった理由を、向こうは考えている。

自分の意志で見なかったと、向こうは思っている。

———

見ることができる人間が、見なかった。

向こうにとって、それは何を意味するのか。

———

俺は、その考えをどうしても手放せなかった。

———

二月が終わって、三月になった。

息子は相変わらず元気だった。

夜中に異変はなかった。

夢に祠は出てこなかった。

———

普通の日常が続いた。

———

でも三月の半ば、職場で妙なことがあった。

———

同僚の女性——仮に「木村さん」と呼ぶ——が、俺に声をかけてきた。

木村さんは普通の人だ。

特に親しいわけでも、疎いわけでもない、普通の同僚。

「昨日、夢に出てきましたよ」と木村さんは笑いながら言った。

「え」

「変な夢で。なんか山の中にいて、何かから逃げてて。そしたら○○さんがいて、振り返るなって言うんです」

木村さんは笑っていた。

「不思議な夢でしょ。あんまり話したことないのに」

———

俺は笑って流した。

「変な夢ですね」と言った。

———

でも、内心は違った。

———

「振り返るな」。

俺が木村さんの夢の中で、そう言った。

俺の夢に祠が出てきた。

木村さんの夢に俺が出てきた。

———

繋がっているのか。

それとも、ただの偶然か。

———

その日の夜、さよには話さなかった。

余計な心配をさせたくなかった。

———

でも翌日、もう一人から同じような話を聞いた。

———

今度は、古い友人からのメッセージだった。

「昨日変な夢見たわ。お前が出てきて、後ろを見るなって言ってた。何かあった?」

———

俺は、スマホを置いた。

———

二人。

二日続けて。

俺の夢に関係した話。

———

向こうが、俺の夢だけじゃなく、俺の周りの人間の夢にも入り込んでいるのか。

———

俺を通して、広がっているのか。

———

その夜、さよに話した。

全部話した。

木村さんのことも、友人のことも。

———

さよは黙って聞いていた。

———

「お父さんに連絡する」

「夜中に悪いですよ」

「いい。こういうことはすぐに言えって言われてる」

———

さよが電話している間、俺は息子の部屋を覗いた。

息子は眠っていた。

普通の寝顔だった。

———

さよが電話を終えて、俺のところに来た。

「お父さん、すぐ来るって」

「また来てくれるんですか」

「うん」

さよは少し表情を固くした。

「今回は、少し深刻かもしれないって」

———

「周りの人の夢に出るのは、そんなに問題なんですか」

「向こうが、お前を中心に広がろうとしているかもしれないって」

「広がる?」

「お前一人を見るだけじゃなくて、お前に繋がった人間全員を見ようとしている」

———

俺は、その意味をゆっくり考えた。

———

木村さん。

友人。

さよ。

息子。

———

「俺に関わる全員が、向こうに見られるようになる?」

さよは頷いた。

「向こうは一人じゃ、もの足りなくなったのかもしれない」

———

———

父親が来たのは、翌々日だった。

今回は急いでいる様子で、荷物も小さかった。

———

居間に座って、父親は俺に聞いた。

「夢に祠が出てきた後、他に何か変わったことはあったか。些細なことでも」

俺は思い返した。

「息子が窓の外に手を振りました。でも昼間だったので」

「他には」

「職場で後ろが気になることが、少し増えた気がします」

「振り返ったか」

「振り返っていません」

父親は頷いた。

「それだけか」

「……向こうのことを、考えていました」

父親の目が、少し変わった。

「どんなふうに」

「なぜ俺に自分を見せようとしたのか、とか。長い間岩の下にいて、誰にも見てもらえなかったとしたら、とか」

———

父親は長い間、黙っていた。

———

「それだ」

父親は言った。

「それが問題だ」

「考えたことが問題なんですか」

「考えたことで、繋がりが太くなった」

「見てもいないのに?」

「向こうにとって、見ることと考えることは同じだ」

———

俺は、自分の迂闊さが分かった。

見なければいいと思っていた。

視線を向けなければいいと思っていた。

でも、頭の中で考えることも、向こうには伝わっていた。

———

「これからどうすればいいんですか」

「考えるな」

「どうやって」

「難しいのは分かっている」

父親は静かに言った。

「人間は、考えるなと言われると考える。それも向こうは知っている」

「じゃあ、詰んでいますか」

「詰んでいない。ただ、方法が変わる」

———

父親は紙袋から、古い布に包まれた何かを出した。

木の板のようだった。

「これを、家の入口に置け」

「お札のようなものですか」

「似ているが違う。向こうの視線を、散らすものだ」

「散らす?」

「向こうはお前一点に集中している。それを分散させる。向こうの注意が薄れる」

———

「根本的な解決にはなりませんか」

———

父親は首を振った。

「根本的な解決は、一つしかない」

「何ですか」

「向こうが、お前への興味を失うことだ」

「どうすれば」

「向こうが諦める理由を作るしかない」

———

「諦める理由というのは」

父親はしばらく考えてから言った。

「向こうはお前に、自分を見てほしい。見てほしがっている。でも、お前が死ぬまで見なければ、向こうはいつか諦める」

「死ぬまで、ですか」

「そういう話だ」

———

俺は、少しの間黙っていた。

———

「それしか、ないんですか」

「もう一つある」

父親は言った。

「向こうが満足することだ」

「満足?」

「見てほしがっている。見てもらえたら、満足するかもしれない」

「見たら、連れていかれるんじゃないんですか」

「昔はそうだった。連れていかれた子供たちは、見てしまったからだ」

———

父親は俺を見た。

「ただ、お前は違う」

「何が違うんですか」

「お前は、見ることができるのに、見なかった。向こうはそれを特別だと思っている」

「だから夢に来た」

「そうだ。もしかしたら、お前が自分の意志で見れば、向こうは……」

父親は言葉を切った。

———

「向こうは、どうなるんですか」

———

父親は答えなかった。

長い間、黙っていた。

———

さよが口を開いた。

「お父さん、続きを言って」

「言えない」

「なぜ」

「言ったら、こいつが考える。考えたら、繋がりがまた太くなる」

———

父親は立ち上がって、木の板を持った。

「玄関に置いてくる」

そのまま廊下に出ていった。

———

俺とさよが残された。

さよは俺を見た。

「続きが聞きたい?」

俺は正直に頷いた。

「向こうが満足したら、どうなるんだろうって」

「私も知らない」

さよは言った。

「でも、お父さんが言えないということは」

「簡単な話じゃない、ということですよね」

「そうだと思う」

———

父親が戻ってきた。

玄関に木の板を置いてきたようだった。

座って、お茶を一口飲んだ。

———

「一つだけ言っておく」

父親は俺を見た。

「向こうに同情するな。事情を考えるな。見てやりたいと思うな」

「分かりました」

「分かっても、考えてしまうのが人間だ。それは仕方ない」

「でも、一線だけ守れ」

———

「一線というのは」

———

父親は静かに言った。

———

「自分から、振り返るな」

———

——それから二週間、木村さんも友人も、夢の話をしてこなかった。

木の板が効いているのか、それとも別の理由があるのか、分からなかった。

息子も普通だった。

———

でも、俺の後ろへの意識は消えなかった。

職場で、道で、家で。

後ろに何かいる気がする感覚が、ずっと続いていた。

振り返らなかった。

でも、感じていた。

———

そして四月の初め。

俺は一人で近所を歩いていた。

夕方で、少し暗くなりかけた時間だった。

———

公園の前を通った時、ベンチに老人が座っていた。

———

最初は通り過ぎようとした。

でも、足が止まった。

———

あの老人だった。

さよの実家の近くで、「振り返ったらいかん」と言った老人だ。

———

東京に、いるはずがない。

でも、いた。

———

老人は俺に気づいていた。

目が合った。

———

老人が手招きした。

———

俺は、近づいた。

———

「久しぶりだな」と老人は言った。

「なぜここに」

「お前のことが、気になってな」

老人はベンチを手で叩いた。座れということらしかった。

俺は隣に座った。

———

「向こうのことを、考えているだろう」

老人は前を見たまま言った。

「……考えています」

「そうだろうな」

「あなたは、向こうのことを知っているんですか」

「多少はな」

「向こうが満足したら、どうなるんですか」

老人は少し間を置いた。

「義父には聞いたか」

「言えないと言われました」

「そうか」

老人は頷いた。

「言えない理由は分かるか」

「考えたら繋がりが太くなるから、と言われました」

「それもある。でも本当の理由は別だ」

———

老人は俺を見た。

———

「言ってしまうと、お前が向こうを哀れに思うからだ」

「哀れに」

「向こうが満足した後に何が起きるか知ったら、お前は向こうを可哀想だと思う」

「それの何が問題なんですか」

「哀れだと思ったら、助けてやりたいと思う。助けてやりたいと思ったら——」

———

老人は前を向いた。

———

「自分から、振り返る」

———

俺は黙った。

———

「向こうが満足したら、どうなるんですか」

俺はもう一度聞いた。

老人は長い間、答えなかった。

公園に風が吹いた。木の葉が揺れた。

———

「消える」

老人はぼそりと言った。

「消える、というのは」

「完全に。跡形もなく。長い時間かけて作り上げてきたもの全部、消える」

———

俺は、その言葉の意味を考えた。

———

「それは……向こうにとって」

「そうだ」

老人は言った。

「向こうにとって、満足することは終わることだ」

「見てほしがっているのに、見てもらったら消えてしまう」

「向こうは、それを知っているのか」

———

老人は首を振った。

———

「知らない。だから見てほしがっている」

「知ったら」

「知ったら、見てほしくなくなるかもしれない」

「それが解決策になりませんか」

「ならない」

老人は静かに言った。

「向こうには、言葉が届かない。言葉を持っていない」

———

俺は公園の地面を見た。

春の草が、少し伸び始めていた。

———

「向こうはずっと、あの岩の下にいるんですか」

「そうだ」

「誰にも見てもらえないまま」

「そうだ」

「それは……」

———

俺は言葉を止めた。

哀れだ、と思った。

思ってしまった。

———

老人が立ち上がった。

「帰れ。これ以上考えるな」

「待ってください。あなたは何者なんですか」

老人は答えなかった。

「なぜあの時、俺を止めたんですか」

老人は歩き出した。

「なぜ今、ここにいるんですか」

———

老人が振り返った。

俺の方を向いた。

———

「お前が、振り返らないためだ」

———

それだけ言って、老人は公園を出ていった。

曲がり角を曲がって、消えた。

———

俺は追わなかった。

———

ベンチに座ったまま、空を見た。

すっかり暗くなっていた。

———

向こうは、見てもらったら消える。

そのことを知らずに、見てほしがっている。

———

俺が振り返らないのは、正しいことだ。

連れていかれないために。周りを巻き込まないために。

でも同時に、俺が振り返らないことで——

向こうは永遠に、あの岩の下にいる。

———

どちらが正しいのか。

———

俺には、分からなかった。

———

分からないまま、家に帰った。

息子が出迎えた。

よちよちと歩いて、俺の足にしがみついた。

抱き上げたら、息子は俺の顔を両手で挟んだ。

———

そのまま、じっと俺の目を見た。

———

息子の目だった。

本物の、息子の目だった。

向こうは、いなかった。

———

でも息子は、俺の顔をしっかり見たまま、何かを言おうとするように口を動かした。

言葉はまだ出ない。

でも、口が動いた。

———

何を言おうとしたのか、分からなかった。

———

分からないまま、息子を抱いていた。

———

その夜、眠る前に思った。

———

老人は、なぜ俺が振り返らないように、ずっと現れるのか。

向こうのことを気にかけているようでもあった。

向こうが消えることを、惜しんでいるようでもあった。

———

もしかして老人は——

———

俺は、その考えを途中で止めた。

———

考えるな。

一線を守れ。

自分から、振り返るな。

———

目を閉じた。

———

眠れると思った。

———

でも眠る直前、頭の中で声がした。

俺の声ではなかった。

老人の声でもなかった。

父親の声でもなかった。

———

聞いたことのない声だった。

低くて、古くて、遠い声だった。

———

たった一言だけ。

———

「……みている」

———

俺は、目を開けた。

部屋は静かだった。

息子は眠っていた。

さよも、眠っていた。

———

「みている」。

———

向こうが言ったのか。

それとも俺が作り出した声なのか。

———

分からなかった。

———

ただ一つだけ確かなのは。

———

俺も、向こうのことを——

考え続けている。

———

それが、今一番怖いことだった。

ありがとうございました。

感想をいただけるとありがたいです。

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