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『振り返るな、それは見られるのを待っている』 〜イギョウ様と、名前を持たぬものの話〜  作者: 普通


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第2話 それは、息子の目で笑った

第2話 それは、息子の目で笑った

さよの父親が退院したのは、二月の初めだった。

脳梗塞の後遺症は、思ったより軽かった。

左手に少し痺れが残る程度で、歩くことも喋ることも普通にできた。

退院の翌週、父親は本当に東京に来た。

———

新幹線で来るというので、俺が駅まで迎えに行った。

改札を出てきた父親は、思ったより元気そうだった。

でも目の下に隈があって、頬がこけていた。

病気のせいだけじゃない気がした。

———

車に乗り込んで、最初に父親が言ったのはこれだった。

「孫の様子はどうだ」

「変わらないです。夜中に手を伸ばすことが、まだあります」

父親は頷いた。

「目は」

「今のところ、おかしくはないです。昼間は」

「夜は」

俺は少し間を置いた。

「確認できていません。目を合わせないようにしているので」

父親はまた頷いた。

「それでいい」

———

家に着いて、息子と対面した。

息子は父親を見て、人見知りもせずににこにこしていた。

父親は息子の顔を、じっと見た。

長い間、見ていた。

息子も父親を見ていた。

———

俺は、その二人を見ながら、少し不安になった。

父親は今、息子と目を合わせている。

それは大丈夫なのか。

———

「あの……」

「いい」

父親は俺を制した。

「昼間は問題ない。向こうは夜に動く」

———

父親は息子の頬に、皺だらけの手を当てた。

息子は嬉しそうに笑った。

父親は、笑わなかった。

———

その夜、息子を寝かしつけてから、父親と話した。

さよも同席した。

父親はしばらく黙ってから、話し始めた。

———

「まず確認する。息子が一人でいた十分間、部屋の様子はどうだった」

「さよの実家の居間です。息子を寝かせて、俺たちは台所にいました」

「その間、息子は泣かなかったか」

「泣きませんでした」

「音は」

「何も聞こえませんでした」

———

父親は少し考えた。

「十中八九、見た」

「断言できますか」

「できない。でも、その後の様子が一致している」

———

父親は続けた。

「向こうが最初にやることは、繋ぎ目を作ることだ。子供の目を借りて、こちらを見る。子供が無意識に誰かを見た瞬間に、向こうも一緒に見る」

「息子が俺を見た時に」

「そうだ。お前が目を逸らしたのは正解だった。繋ぎ目が完成する前に、断ち切った」

———

「ただ」

父親は俺を見た。

「繋ぎ目が完成していなくても、向こうはまだ息子の目の近くにいる。完成するまで、諦めない」

———

「いつまで諦めないんですか」

———

父親は答えなかった。

さよが口を開いた。

「お父さん、方法は」

「ある」

父親は短く言った。

「ただし、簡単じゃない」

———

父親が話した方法は、こうだった。

向こうが動くのは夜だ。

夜中に息子の目を借りて、こちらを見ようとする。

その瞬間に、息子と目を合わせる。

向こうが息子の目の中にいる瞬間に、こちらから見る。

そうすると、向こうはこちらに来ようとする。

来たところを、断ち切る。

———

「断ち切る方法は」

「それがある。ただし、俺にしかできない」

「なぜですか」

「この町で生まれた人間しか、知らない方法だからだ」

———

俺は、少し引っかかった。

「さよも、この町で生まれていますよね」

父親は頷いた。

「でもさよには教えていない」

「なぜ」

「この町から出た人間に教えると、その方法ごと向こうに持っていかれる場合がある」

———

さよは黙っていた。

傷ついているようには見えなかった。

知っていたのかもしれない。

———

「準備がいる」

父親は言った。

「二、三日かかる。その間、息子から目を離すな。夜中に何があっても、息子と目を合わせるな」

「合わせたら?」

「繋ぎ目が完成する」

「完成したら」

———

父親はしばらく黙った。

———

「向こうが、息子の目で、常にこちらを見るようになる」

「常に、って」

「昼も夜も。息子がどこを見ていても、向こうも一緒に見ている状態になる」

「それは……息子にとって」

「良くない」

———

それだけ言って、父親は部屋に引き取った。

———

二日間、何も起きなかった。

父親は昼間は普通に過ごして、夜になると息子の部屋に近い場所に座っていた。

何をしているのか分からなかった。

聞いたら「確認している」とだけ言った。

———

三日目の夜。

父親が俺を呼んだ。

「今夜やる」

「準備できたんですか」

父親は頷いた。

「お前にも、一つやってもらうことがある」

「なんですか」

「息子と、目を合わせること」

———

俺は固まった。

「それは、繋ぎ目が完成するんじゃ」

「完成する前に俺が断ち切る。お前が目を合わせた瞬間に、向こうが動く。動いたところを断ち切る」

「タイミングがずれたら」

「ずれないようにする」

———

父親は俺の目を見た。

「お前を信じるから、俺を信じろ」

———

その夜の十二時過ぎ、息子の部屋に三人で入った。

父親と俺と、さよだ。

息子は眠っていた。

電気は消した。

暗い部屋の中で、父親は窓際に立った。

さよはドアの近くにいた。

俺は息子の枕元に座った。

———

父親が、小さく言った。

「息子が目を開けたら、目を合わせろ。逸らすな。俺が声をかけるまで、ずっと見ていろ」

俺は頷いた。

「向こうが来た時、息子の目が変わる。その瞬間が勝負だ」

———

待った。

暗い部屋で、息子の寝息を聞きながら、待った。

十分。

二十分。

三十分。

———

何も起きなかった。

———

父親は動かなかった。

さよも動かなかった。

俺も、動かなかった。

———

四十分が経った頃。

息子の寝息が、止まった。

———

俺は、息子を見た。

目が、開いていた。

———

暗い部屋の中で、息子の目が俺を探すように動いた。

そして、俺の顔を捉えた。

———

俺は、目を逸らさなかった。

———

息子の目が、俺を見ていた。

普通の目だった。

いつもの、息子の目だった。

———

十秒。

二十秒。

———

変わらなかった。

———

俺は少し、気が緩んだ。

今夜は来ないのかもしれない、と思った。

———

その瞬間だった。

———

息子が、笑った。

———

にこっと。

子供らしい、無邪気な笑顔で。

———

俺は、その笑顔を見て——

———

おかしいと思った。

———

息子はよく笑う子だ。

でも、真夜中に、暗い部屋で、突然笑うことはない。

そして何より。

その笑い方が、息子のものじゃなかった。

形は同じだ。

でも、中身が違った。

———

「逸らすな」

父親の声が、部屋の端から聞こえた。

低く、短く。

———

俺は目を逸らさなかった。

息子の目を、見続けた。

———

息子の笑顔が、少しずつ変わった。

口角が上がったまま、目だけが動いた。

息子の目が、俺の顔をゆっくりとなぞるように動いた。

左から右へ。

上から下へ。

———

見られていた。

息子の目を通して、別の何かに、見られていた。

———

背筋が冷たくなった。

声を出しそうになった。

でも、出さなかった。

———

父親が動いた気配がした。

部屋の端から、こちらに向かって。

———

その瞬間、息子の目が変わった。

笑顔が消えた。

目が、大きく見開かれた。

———

「今だ」

父親が言った。

———

何かが起きた。

音はなかった。

光もなかった。

でも、部屋の空気が、一瞬だけ変わった。

———

息子が、泣いた。

———

大きな声で、普通に、子供らしく泣いた。

———

父親が息を吐いた。

さよが息子に駆け寄って、抱き上げた。

息子は泣きながら、さよにしがみついた。

———

電気をつけた。

明るい部屋の中で、さよが息子をあやした。

息子は少し泣いて、すぐに落ち着いた。

———

父親は壁に手をついていた。

疲れたような、それでいてどこか軽くなったような顔をしていた。

———

「終わりましたか」

俺は聞いた。

父親は頷いた。

「繋ぎ目は断ち切った」

「息子は、もう大丈夫ですか」

「大丈夫だ」

———

俺は息を吐いた。

さよが息子を抱いたまま、父親を見た。

「お父さん」

「なんだ」

「ありがとう」

———

父親は短く頷いた。

それから、俺を見た。

「お前もよくやった。目を逸らさなかった」

「逸らしそうになりました」

「逸らさなかったことが全部だ」

———

父親はその夜、東京に泊まった。

翌朝、新幹線で帰った。

駅のホームで別れる時、父親は一つだけ言った。

「しばらくは、息子の目を夜中に確認しろ。一ヶ月くらいは」

「何かあれば?」

「連絡しろ」

———

「根本的には、終わっていないんですか」

———

父親は少し間を置いた。

「向こうはまだ、あの岩の下にいる」

「息子への繋ぎ目は断ち切った。ただ、向こうが次の手を考えないとは言えない」

———

「次の手というのは」

———

父親はホームの向こう、新幹線のドアを見ながら言った。

「お前が、まだ向こうを知っている」

「俺が?」

「あの祠の前で、お前は気配を感じた。感じたということは、向こうもそれを知っている」

「振り返りませんでした」

「振り返らなかったことも、知っている」

———

父親は乗り込む前に、もう一度俺を見た。

「お前が振り返らなかった理由を、向こうは考えている」

「理由は……止められたからです」

「向こうはそれを知らない。お前が自分の意志で、見なかったと思っている」

———

「それは」

「向こうにとって、お前は特別な人間だ」

「見ることができるのに、見なかった人間は珍しい」

———

ドアが閉まった。

父親の姿が、窓の向こうに消えた。

———

俺はホームに残って、新幹線が遠ざかるのを見ていた。

———

「見ることができるのに、見なかった」。

———

俺には、見えていたのか。

あの祠の後ろに。

見えていたから、感じた。

感じていたから、老人に止められた。

———

あの時、振り返っていたら。

———

俺は、何を見ていたんだろう。

———

家に帰って、息子を抱っこした。

息子はいつも通りに笑った。

本物の、息子の笑顔だった。

———

その笑顔を見た時、初めてちゃんと息を吐けた気がした。

———

それから一ヶ月、息子の目は正常だった。

夜中に手を伸ばすこともなくなった。

どこかを見続けることも、なくなった。

———

終わった、と思い始めた頃。

———

俺の夢に、あの祠が出てきた。

———

夢の中で、俺は祠の前に立っていた。

雪が降っていた。

静かだった。

———

後ろに、気配があった。

———

振り返るな、と思った。

———

でも夢の中の俺は、ゆっくりと振り返った。

———

目が覚めた。

———

朝だった。

息子は隣で眠っていた。

窓から光が入っていた。

普通の朝だった。

———

でも、俺の手が——

後ろを指さしていた。

———

さよに話した。

さよは少し黙ってから、父親に電話した。

———

電話を置いて、さよが俺を見た。

———

「お父さんが、聞いてくることがあるって」

「なんですか」

「夢の中で、振り返った時」

「うん」

「何が見えたか、覚えてるか、って」

———

俺は、考えた。

———

覚えていた。

———

でも、言葉にするのをためらった。

———

さよが待っていた。

———

「……耳が、あった」

俺は言った。

「大きな、耳が。こちらを向いていた」

———

さよの顔が、変わった。

———

「それだけ?」

「それだけだと思う。目が覚めたから」

———

さよは再び父親に電話した。

短いやり取りだった。

———

電話を切って、さよはしばらく黙っていた。

———

「何て言ってた」

———

さよは俺を見た。

———

「夢の中で見たものは、向こうが見せたものだって」

「見せた?」

「お前が振り返らなかった時に、本当は何がいたか。向こうが夢の中で、教えた」

———

「なんでそんなことを」

———

さよは窓の外を見た。

冬の空が、白く曇っていた。

———

「お父さんが言うには」

さよはゆっくり言った。

「向こうは、自分を知ってほしかったんじゃないか、って」

———

「知ってほしい?」

「長い間、あの岩の下にいる。誰にも本当の姿を見せられないまま、ずっと」

———

俺は、その言葉をしばらく噛み締めた。

———

恐ろしいものだと思っていた。

子供を連れていく、祟るものだと。

———

でも、向こうにとっては。

———

「怖いものじゃないんですか」

「怖いと思う」

さよは言った。

「でも、怖いだけじゃないかもしれない、って」

———

俺には、判断できなかった。

———

ただ一つだけ分かったのは。

———

向こうは俺のことを、まだ考えている。

振り返らなかった人間として。

夢の中に来てでも、自分を見せようとするくらいに。

———

これが、新しい始まりなのか。

それとも、終わりに向かっているのか。

———

まだ、分からない。

———

息子は今日も元気だ。

よく笑って、よく動いて、よく振り返る。

その度に俺は少しだけ緊張するが、最近は少し、薄れてきた。

———

ただ。

———

今朝、息子が窓の方を見て、何かに向かって手を振った。

———

外には、誰もいなかった。

———

俺は、息子に聞いた。

「誰かいた?」

息子はまだ言葉が出ない。

でも、にこっと笑って、もう一度窓の方を向いた。

———

俺は、窓を見なかった。

———

見なかった。

———

でも、見たかった気持ちが、少しだけあった。

———

それが怖い。

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