第5話 それは、ずっと待っていた
車で走ること、一時間半。
東北の山が近づいてくると、空気が変わる気がした。
気のせいかもしれない。
でも毎回、この辺りに来ると感じる。
空が低くなる感じ。
山の稜線が、こちらに迫ってくる感じ。
———
さよの実家には寄らなかった。
父親から連絡が入っていた。
『実家には寄るな。まっすぐ山へ行け。』
———
祠のある道は、覚えていた。
あの最初の正月に、一人で散歩した道。
老人に止められた、あの道。
———
車を路肩に止めて、歩いた。
雪はなかった。四月だから当然だが、でもあの時は雪があったから、同じ道でも違う場所みたいに見えた。
———
五分ほど歩いたところで、祠が見えた。
小さな祠。古い木造の。
来るたびに小さく見える気がするのは、慣れたからか、それとも本当に小さいからか。
———
祠の前で、立ち止まった。
後ろに、気配があった。
———
振り返らなかった。
———
「また来たな」
老人の声だった。
後ろからだった。
「また来ました」
「一人か」
「一人です」
「馬鹿なやつだ」
老人は言った。でも、怒っている感じはしなかった。
———
「振り返ってもいいか」
「好きにしろ」
俺は振り返った。
老人は、公園で会った時と同じ格好だった。
厚いコート。腰の曲がった体。
でも目だけが、妙に若かった。
———
「岩の前に行く」
俺は言った。
「知っている」
「止めませんか」
「止めても来るだろう」
「来ます」
老人は少し目を細めた。
「何を持ってきた」
「これです」
布袋を見せた。
老人は布袋を見て、少し表情が変わった。
「義父が用意したものか」
「そうです」
「あいつも、変なことをする」
———
老人は祠の横を通り過ぎて、山の方に歩き始めた。
「ついてこい」
「案内してくれるんですか」
「お前一人で行かせたら、何をするか分からない」
———
老人の後をついた。
道なき道を、老人は迷いなく進んだ。
腰が曲がっているのに、足は速かった。
———
十分ほど歩いたところで、岩が見えた。
———
大きかった。
写真や話では聞いていたが、実物は想像より大きかった。
直径四、五メートルはある。
しめ縄が巻かれていた。
紙垂がぶら下がっていたが、古くなって色が抜けていた。
———
老人は岩の前で止まった。
俺も止まった。
———
静かだった。
風もなかった。
鳥の声もなかった。
———
「ここで何十年も来ているんですか」
俺は聞いた。
老人は答えなかった。
「イギョウ様に、名前をつけたのはあなただと聞きました」
老人は少し体が固くなった気がした。
でも否定しなかった。
「なぜ名前を呼ばないんですか」
「呼べるわけがない」
「なぜですか」
———
老人は岩を見たまま言った。
「名前をつけた人間が呼んだら、向こうは喜ぶ」
「喜んでから、消えるんでしょう」
「そうだ」
「それの何が問題なんですか」
「お前には分からん」
老人の声が、少し変わった。
低くて、古くて、疲れた声だった。
「何十年も一緒にいたものが、自分の一言で消える」
「それは」
「呼べるわけがない」
———
俺は黙った。
岩を見た。
大きな岩だった。
しめ縄の下に、苔が生えていた。
———
「名前を、教えてもらえますか」
「駄目だ」
「なぜですか」
「お前が呼ぶからだ」
「呼びません。あなたに呼んでほしいんです」
老人は首を振った。
「俺には呼べない。何度考えても、呼べない」
「じゃあ、誰も呼べないままですか」
「そういうことだ」
———
「イギョウ様は、それでいいんですか」
老人は黙った。
「ずっと待っている。名前を呼ばれるのを待っている。あなたはそれを知っていて、呼ばない」
「分かっている」
「何十年も、ずっと分かっていて、呼ばない」
「分かっている」
———
「それは、あなたのためですか。イギョウ様のためですか」
———
老人が、初めて俺の方を向いた。
目が合った。
老人の目は、若かった。
でも、濡れていた。
———
何も言わなかった。
でも、答えは分かった。
———
俺は布袋を取り出した。
「開けてもいいですか」
老人は止めなかった。
———
布袋の口を開いた。
中に、紙が一枚入っていた。
取り出して開いた。
———
父親の字で、こう書いてあった。
『これを読め。声に出して。』
その下に、一行。
———
短い文章だった。
日本語だったが、古い言い回しで、意味をすぐに理解するのは難しかった。
でも声に出して読めば、言葉にはなった。
———
「これを読むと、何が起きるんですか」
老人に聞いた。
老人は紙を一瞥して、少し目を閉じた。
「向こうが、動く」
「動いたら」
「向こうが、岩の外に意識を向ける。この場所に、集中する」
「その状態で、名前を呼べば」
「向こうは聞こえる」
———
老人は岩を見た。
「俺には呼べない」
「分かっています」
「呼べと言われても、呼べない」
「分かっています」
俺は紙を持ったまま、老人を見た。
「でも、聞こえる状態にするだけならできます」
「それで十分です」
———
老人は黙った。
俺も黙った。
———
岩が、静かにそこにあった。
———
「紙を読む前に、一つだけ聞かせてください」
俺は言った。
「何だ」
「名前は、何ですか」
———
老人は長い間、答えなかった。
俺も急かさなかった。
———
山の静けさの中で、ただ待った。
———
「……鈴耳」
老人は小さく言った。
「すずみ、と読む」
———
俺は、息子の声を思い出した。
「すず」。
あの夜、眠る前に息子が言った音。
———
「鈴耳」。
———
「読みます」
俺は紙を持った。
老人は止めなかった。
俺は声に出して、紙の文章を読んだ。
古い言い回しの、短い文章を。
———
その瞬間、岩が変わった。
音はなかった。
見た目も変わらなかった。
でも、「変わった」と分かった。
岩の周りの空気が、密になった。
あの祠の前で感じた感覚に似ていた。
でも、もっと強かった。
———
老人が息を飲む音がした。
———
俺は、老人を見た。
老人は岩を見ていた。
目が、揺れていた。
———
「今です」
俺は言った。
老人は動かなかった。
「今しかないです」
老人は岩を見たまま、動かなかった。
———
「あなたが名前をつけた。あなたが呼ぶべきだ」
「分かっている」
「何十年も待たせた」
「分かっている」
「分かっているなら」
———
「分かっていても、呼べないものがあるんだ」
———
老人の声が、震えていた。
俺は黙った。
老人は岩を見たまま、続けた。
「名前をつけた時、俺はまだ若かった。向こうがなんなのか、怖いものだと思っていた。でも近くで見ていたら、怖いだけじゃなかった」
「知っています」
「怖いものが、怖いだけじゃなくなった時、人はどうすればいいんだ」
———
俺には、答えられなかった。
「何十年も来た。離れられなかった。それだけだ」
「それだけじゃないでしょう」
老人は黙った。
「名前をつけた人間が、何十年も来続けた。それは、それだけじゃない」
———
空気が、さらに密になった。
岩が、揺れた。
物理的に揺れたわけじゃない。
でも、「揺れた」と分かった。
向こうが、動いている。
今、この瞬間に。
———
老人の目から、涙が出た。
老人は気づいていないようだった。
岩を見たまま、涙が流れていた。
———
「……鈴耳」
———
老人が、呟いた。
小さく、かすれた声で。
———
「鈴耳」
もう一度。
今度は、少し大きく。
———
岩が、また変わった。
あの密な空気が、一瞬で薄くなった。
密から、希薄へ。
収縮から、解放へ。
———
音があった。
鈴の音だった。
遠くから来るわけじゃなかった。
岩の中から、あるいは岩の下から、あるいはこの場所全体から。
どこからとも言えない鈴の音が、一度だけ鳴った。
———
それから、静かになった。
———
完全な静けさだった。
さっきまでの静けさとは、質が違った。
何かがいなくなった後の、静けさだった。
———
老人は岩の前に立ったまま、動かなかった。
涙が、止まらなかった。
声は出さなかった。
ただ、涙が流れていた。
———
俺は何も言わなかった。
言える言葉がなかった。
———
どのくらいそうしていたか、分からない。
老人がゆっくりと、岩に手を当てた。
しめ縄の上から、そっと。
———
「行ったか」
老人は岩に向かって言った。
俺には答えられなかった。
老人も、俺に聞いたわけじゃなかった。
———
しばらくして、老人が振り返った。
目が赤かった。でも、どこか軽くなっていた。
「帰れ」
「あなたは」
「もう少しここにいる」
「一人で、大丈夫ですか」
「お前に心配されるほど、落ちぶれていない」
老人は少しだけ、笑った。
初めて見る、老人の笑顔だった。
———
俺は頭を下げた。
それから、来た道を戻った。
———
歩きながら、気づいた。
後ろに、気配がなかった。
あの祠の前を通った時も、なかった。
———
ずっとあった、あの感覚が。
消えていた。
———
車に乗った。
エンジンをかけた。
さよに電話した。
「終わった」
それだけ言った。
さよは少しの間、黙っていた。
「帰ってきて」
「帰ります」
———
電話を切って、車を出した。
———
帰り道、何も起きなかった。
後ろが気になることもなかった。
夢を見そうな気もしなかった。
———
ただ、一つだけ。
山を抜けた辺りで、車の窓に何かが当たった気がした。
音はなかった。
虫でも鳥でもなかった。
———
でも、当たった。
———
そして、すり抜けた。
———
さよよりも息子よりも先に、父親が玄関で待っていた。
俺の顔を見て、一つだけ聞いた。
「老人が呼んだか」
「呼びました」
父親は目を閉じた。
「お前は呼んでいないな」
「呼んでいません」
父親は頷いた。
「入れ」
———
居間に入ったら、息子が走ってきた。
よちよちと、でも一生懸命に。
俺の足にしがみついて、上を見た。
俺も息子を見た。
目が合った。
本物の、息子の目だった。
向こうは、いなかった。
———
抱き上げたら、息子がまた口を動かした。
「すず」とは言わなかった。
「とう」と言った。
父親、という意味だと思った。
———
初めて言った言葉だった。
———
さよが台所から顔を出した。
目が赤かった。
電話口で泣いていたらしかった。
「おかえり」
「ただいま」
———
その夜、父親から話を聞いた。
イギョウ様がどこへ行ったのか、父親には分からないと言った。
ただ、この地域でこれ以上子供が消えることは、たぶんないだろうとも言った。
「たぶん、というのは」
「確信はない。向こうがどうなったか、誰にも分からない」
「老人は分かりますか」
「老人だけが、知っているかもしれない」
———
「老人は、これからどうするんでしょう」
父親は少し考えた。
「あそこに来続けるんじゃないか」
「イギョウ様がいなくても?」
「いなくなった場所に来る人間は、いる」
———
俺は、それ以上聞かなかった。
———
翌朝、父親は帰った。
駅まで送った帰り道、俺は窓の外を見ていた。
春の景色だった。
緑が出始めていた。
———
家に帰ったら、息子がまた「とう」と言った。
昨日が初めてだったのに、もう覚えていた。
さよが笑った。
俺も笑った。
———
声を出して、笑った。
誰かに聞かれることを、気にせずに。
———
この話を書いているのは、それから少し経った頃だ。
夜中に息子が手を伸ばすことは、なくなった。
夢に祠は出てこない。
後ろへの意識も、薄れた。
老人からの連絡は、ない。
———
終わったのかどうか、まだ分からない。
父親が「たぶん」と言った通り、確信はない。
でも、あの岩の前の静けさは本物だった。
あの鈴の音は、本物だった。
———
一つだけ、今も気になることがある。
———
あの帰り道に、窓に当たったもの。
———
何だったのか。
———
怖いものだとは思っていない。
ただ、気になる。
———
さよに話したら、さよはしばらく考えてから言った。
「挨拶じゃないかな」
「挨拶?」
「行ってきます、みたいな」
———
俺は、その解釈が気に入った。
正しいかどうかは分からない。
でも、気に入った。
———
息子は今日も元気だ。
「とう」と「かあ」だけ言える。
それで十分だと思っている。
———
さよの実家には、また正月に行くかもしれない。
今度は、鏡を持っていこうと思っている。
母親が驚くかもしれない。
でも、もう必要ないと思うから。
———
老人が、今もあの岩の前に立っているかどうか、俺には分からない。
———
ただ、あの人が最後に見せた笑顔を、俺はまだ覚えている。
泣いた後の、軽くなった顔の笑顔。
———
何十年もかけて、やっとできた顔だったと思う。
———
———
これで、この話は終わりにする。
———
最初に書いた通り、東北のある地域に、正月明けに子供が行方不明になる町があった。
あった、と過去形で書けることを、少し誇りに思う。
———
イギョウ様が何だったのかは、俺には分からない。
怖いものだったかどうかも、今は判断できない。
———
ただ一つだけ言える。
———
名前のないものは、留まり続ける。
———
名前を呼ばれた時、初めて行き先が分かる。
———
それは、人間も、そうかもしれない。
———
息子が眠っている。
さよが隣にいる。
後ろに、気配はない。
———
静かな夜だ。
———
それだけで、十分だ。
ありがとうございました。
感想をいただけるとありがたいです。




