第8章 逃亡者のアリバイ
コンテナの陰に、黒崎が座り込んでいる。手についた血は運河の水で洗い落とした。だが、袖口には赤黒い染みが残った。遠くでヘリコプターの音がした。
このあたりの防犯カメラの位置はある程度知っている。どこが死角で、どこが映るか。……俺はこの街の見えない道を知っているつもりだった。
黒崎は立ち上がり、フードを深くかぶる。
逃げているあいだ、黒崎は何度も、明るい店へ入って椅子に座りたいと思った。自分の顔がニュースへ出ているかどうかより、トイレを借りられるか、乾いた服を買えるかが切実だった。逃亡を考える仕事をしてきたが、逃亡者の靴下について考えたことはなかった。
地面に座ると、コンクリートの冷たさが服を通って入ってきた。運河の匂いがした。兄が取り調べを受けていた時、どんな椅子に座っていたのかを、黒崎は知らなかった。父が何を食べていたかを知らない娘と同じように、弟も兄の不幸の輪郭だけを知っていた。
携帯を切れば位置を知られにくくなると考えた。しかし切っているあいだ、誰も自分へ助けを申し出られない。便利な道具は同じ側から助けと監視を運んでくる。
黒崎は電源を入れかけ、やめた。由里子の録音を持っている会社へ戻ればよいのか。自分が解散させた会社だった。助けを頼む時だけ仲間と呼ぶことはあまりにも都合がよかった。
夜明け前、作業着の男がコンテナの脇を通った。男は黒崎を見たが、何も言わなかった。黒崎はその沈黙に救われ、同時に怖くなった。無関心と見逃してくれることは外からは同じに見える。
自分が門の前を去った時も、そう見えたのだろう。
「品川区会社社長殺害事件特別捜査本部」の看板。捜査員たちが並んでいた。清原はその前に立った。中津が隣にいた。
「被疑者・黒崎隆史は元科捜研の映像解析官。防犯カメラの配置、死角、映像の改ざんに精通しています。通常の画像追跡はほぼ通用しないと考えてください」と中津が言った。
「顔を隠されたら、手も足も出ないってことですか」
「いえ。歩き方で追います」
スクリーンには人の骨格を示す線画が現れた。歩行の特徴を示したものだった。
「歩容解析。歩き方の癖から捜査対象の候補を絞る技術です。顔を隠しても、帽子をかぶっても、歩き方だけで確定はできません。今回は収集した複数の映像の比較に試験的に使っています」と中津が言った。
中津は資料をめくる。
「ちなみに、このシステムの基礎になった論文を書いたのは……」
スクリーンに論文の表紙が映った。「歩容特徴量による個人識別手法の研究 黒崎隆史」。捜査員たちがざわめく。
「……自分の作った網に、自分がかかるわけだ」
「それから、管理官。今朝、本部宛てに匿名で、これが」と中津が言った。
中津は分厚い書類を差し出す。
「アリバイ株式会社の協力者リストです。ネットカフェの店長、タクシー運転手、ホテルのバーテンダー、偽証人。全部で47名。黒崎が逃げ込みそうな先が、全部載っています」
清原はリストをめくる手を止める。
「誰が送ってきた」
「わかりません。ですが、これで黒崎の逃げ場はなくなります」と中津が言った。
清原は黙ってリストを見つめている。
中津は黒崎の論文を読み、資料の最後に「補助的な評価」と書き加えた。上司の前で技術を説明する時、できることを大きく言いたくなる。何もわからないとは言えない。だが、その気持ちが黒崎の書いた17年前のメモとどれほど違うのか、まだ中津にはわからなかった。
清原は匿名の協力者リストを机に置いた。便利すぎる資料だった。誰かが警察に答えを教えてくれる時、その人間が何を調べさせたくないのかを考える。若い頃の清原はそう教わった。
今の清原は便利な資料を使わなければならない立場だった。現場からは指示を求められ、上からは説明を求められる。わからないという答えは上にも下にも渡せない。だから、わかっていることを真ん中へ置き、わからないことを周囲へ追いやる。
黒崎が現場へ入った映像はあった。血のついた手も映っていた。逃走も確認されていた。しかし刃物を使った場面はない。映像が途切れた時間がある。凶器の所在も、まだ確かめなければならない。清原はそれらを読み上げた。
捜査員の顔に、結局どちらなのか、という表情が浮かんだ。清原は答えなかった。
その沈黙の中で、須貝の声を思い出した。決めなきゃ進まねえぞ。17年前、そう言われた。進んだ先から帰る道を、誰も確認しなかった。
そのネットカフェは雑居ビルの6階にあった。黒崎が、受付のカウンター越しに店長の田代と向き合う。
「田代さん。奥の個室を、3日だけ」と黒崎は言った。
「……黒崎さん」
田代の目が、ちらりと店の奥を見る。黒崎はその視線を追う。個室ブースの陰に、私服の刑事が2人いた。
「すみません。うちも、商売なんで」
黒崎は身を翻す。背後で刑事たちが立ち上がる。
黒崎は階段を駆け下りた。上から足音が追ってくる。
路地へ飛び出すと、見慣れたタクシーが止まっていた。運転手の根岸が窓を開けている。
「黒崎さん、乗って!」と根岸が言った。
黒崎は飛び乗る。タクシーが発進する。
「……助かった」
「いいってことよ。何年の付き合いだと思ってんの」
黒崎はふとバックミラーを見る。根岸の目が、こちらを見ずに前だけを見ている。無線機のランプが、点いたままになっている。
「根岸さん。どこに向かってる」と黒崎は言った。
「……ごめんよ。娘の旦那が、警察官なんだ」
前方の交差点に、パトカーが2台、道をふさぐように停まっている。黒崎は信号待ちで速度が落ちた瞬間、ドアを開けて飛び降りる。
根岸は車を止めた後、ハンドルを握ったまましばらく動かなかった。後部座席のドアはきちんと閉まっていなかった。降りて閉めると、黒崎が座ったところに湿った跡が残っていた。
娘の夫が警察官だという話は本当だった。しかし、それだけが理由ではない。自分のした仕事が知られれば、免許も会社も家族も無事では済まない。黒崎を助けることは自分を助けることと両立しなくなっていた。
以前、根岸は人を乗せなかった時間について、乗せていたと証言した。客の顔をはっきり覚えていると言った。仕事の細かいところを説明すれば、話は本物らしくなる。料金、道順、信号の混雑。実際に走った道の話へ、乗っていなかった客を1人足す。それだけだった。
その客が何をしていたか、根岸は聞かなかった。聞かないことで、自分の仕事を単なる帳尻合わせにできた。
今、黒崎を警察へ渡そうとしたことを、裏切りだと言われれば否定できない。けれど、警察から逃がすことを恩返しと呼ぶのも、おかしかった。
根岸は捜査員へ、黒崎がどこで降りたかを伝えた。それから、前にした証言についても話したい、と付け加えた。電話の向こうの声が変わった。
黒崎はもう、それを知らない場所にいた。
黒崎は地下通路の人混みを縫って歩いた。うつむき、歩幅を変え、わざと左足を引きずるようにして歩く。
歩き方だけで確定はできません。俺がそう書いた。……だから、変える。
モニターには新宿駅の地下通路の映像が映っていた。人の群れの中で、ひとつの影に赤い枠が点滅する。
「候補として上位です。ただし、数値は本人である確率ではありません。服装と移動経路も照合します」と中津が言った。
「……追え」
会社のビルの前には警察車両が止まっていた。家宅捜索の段ボール箱が運び出されていく。少し離れた路上から、真帆と琴美がそれを見ている。
「全部持ってかれちゃう……」と真帆が言った。
「真帆さん。ハードディスクは?」
「サーバールームのは押収された。でも」
真帆はトートバッグを軽く叩く。
「本当に大事なやつは家にある。……記録する女を、なめないでよね」と真帆が言った。
琴美はかすかに微笑む。そして、自分のバッグから、色褪せた紙袋を取り出す。「サンエイマート」のロゴ。
「これも。由里子さんが持ってきた紙袋。お金を金庫に移したあと、紙袋は受付でお預かり品にしてたんです。依頼人の私物だから。……捨てられなくて、家に持って帰ってて」
「17年前のコンビニの紙袋、ずっと持ってたんだね、由里子さん」
真帆が家へ戻ると、台所の椅子に洗濯物が積まれていた。事件が始まる前に取り込んだものだった。袖のある服が何枚も同じ形に重なっている。ここに座って畳むだけの時間へ戻りたいと思った。
外付けの保存装置は食器棚の下に置いてあった。火事になれば全部失う保管方法だった。会社で信頼性を説く人間が、自宅ではそんな置き方をしている。真帆は機器を包み、持ち出すものの一覧を書いた。自分が都合のよいデータだけを選んだと言われないために、何をどこへ移したかも残した。
琴美は紙袋を持って待っていた。紙袋を家へ持ち帰った理由は由里子が捨てないでほしいと言ったからだった。会社が閉まれば、誰が返すのか。返す相手はもういない。それでも、持ち主の最後の依頼だけが、物の上に残っていた。
「これ、証拠だったら、持ち出したのまずいですよね」
琴美が言った。
真帆はまずいかもしれない、と答えた。大丈夫と簡単に言うことを、この数日でやめていた。
「だから、いつ持ち出したか、何をしたか、書こう。触ったところも」
2人は食卓で紙を書いた。正しいことを始めるのはきれいな状態からとは限らない。間違えた扱いもそのまま引き渡す。その作業は偽の記録を整える時より長くかかった。
飯田の部屋は片づける前の物で散らかっていた。飯田のスマートフォンが鳴る。画面に「清原」。
「黒崎から連絡はあったか」という清原の声が聞こえた。
「ありません」
「連絡があったら、すぐに知らせろ。今回の報酬はいつもの倍だ」
「……娘の手術代、ちょうど足りなかったんすよ」と飯田が言った。
「なら、迷うことはないな」
電話が切れる。飯田はポケットから500円玉を取り出す。手のひらの上で、しばらく見つめる。弾こうとして、やめる。コインを、テーブルの上にそっと置く。
「今回はコインはいらねえ」
飯田は上着をつかんで部屋を出ていく。500円玉はテーブルの上に残った。
飯田は娘の写真を見た。最近の写真には彼自身がほとんど写っていない。撮ったのが元妻だからというだけではなかった。そこへ行っていない。
金を送ることで、父親の役を果たしているつもりだった。役を果たすために裏切りをしていると説明した。裏切りが忙しくなると、父親としての時間はさらに減った。
娘に電話をすると、今日は病院の食事が嫌だったという話になった。手術の話でも、苦しさの話でもなかった。にんじんが大きかった。小さくすれば食べるのに、と言った。
「今度、小さく切ってくれって言えばいい」
「言ったよ」
「そうか」
「だから、明日は小さいかもしれない」
飯田はその言葉を聞いて、笑いそうになり、泣きそうになった。娘は自分の明日へ、きちんと希望を出していた。
電話を代わった元妻へ、しばらく面倒をかけるかもしれないと伝えた。元妻はまたなの、と言った。飯田はまただ、と答えた。事情を全部は説明できなかったが、金のことは嘘をつかずに話した。
「ちゃんと人に相談して。1人でどうにかしようとしないで」
昔から言われていたことだった。今回は初めて実行する必要があった。
夕暮れの墓地。カラスの鳴き声。「黒崎家之墓」。その前に、フードをかぶった黒崎が膝をついている。
「兄貴。……17年かけて、結局、俺は門の前に立ってるだけだ」と黒崎は言った。
背後で砂利を踏む音がした。黒崎は振り返る。遥が立っている。
「やっぱり、ここだった」
「……通報したのか」
「まだです」と遥が言った。
遥はゆっくりと近づいてくる。
「元警察官が考える、逃亡者が最後に行く場所。家族のお墓。……教科書どおりですね。黒崎さんらしくない」
「らしくないことばかりしてる」
「岡野大輔さんを、殺したんですか」と遥が言った。
「殺していない。呼び出されて行ったら、もう死んでいた」
「証拠は」
「ない。……ないんだ、高瀬。俺は今、人生で初めて、自分が無実だと証明する方法を何ひとつ持っていない」と黒崎は言った。
黒崎は自嘲するように笑う。
「17年前の兄貴と、同じ場所に立ってる」
遥は黒崎の前にしゃがみ込む。目線の高さを合わせる。
「私、昨日、ひと晩中考えました。黒崎さんのこと、許せるのか。父の人生を壊した鑑定書を書いた人のこと」
「許さなくていい」と黒崎は言った。
「許してません。でも」
遥は黒崎の手を取る。袖口には血の染みがあった。
「父は死ぬまで言い続けました。『あの人は無実だ』って。誰も聞いてくれなかった。……今度は私の番です」
「高瀬……」と黒崎は言った。
「あなたはやっていないと言う。その言葉を、最初から聞きます。確かめるために」
遠くでパトカーのサイレンが鳴った。
「行きましょう。隠れ場所があります」
遥が兄の墓を探したのは黒崎を信じると決めたからではなかった。本人から聞かなければ、何も決められないと思ったからだった。
昨夜の怒りは消えていなかった。父をめぐる事実を知ったことで、黒崎の顔を見るのは今も苦しい。しかしその苦しさと、彼が大輔を殺したかどうかは別に置かなければならない。嫌いになった人の有罪を望めば、父の話を採らなかった人たちと同じことになる。
「あなたを許していません。でも、やっていないという話を聞きます」
遥は言い直した。
黒崎は頷いた。無実だと断言してもらうより、その答えのほうが怖かった。聞いた結果、信じられないと言われる可能性が残るからだった。
彼は現場へ入った時刻を話した。どの時刻を自分で確認し、どの時刻を後から推測したかを分けた。大輔の首へ触れたこと、鞄を机に置いたこと、救急へ発信しなかったこと。逃げた部分は順番が少し曖昧になった。
遥は途中で補わなかった。黒崎は自分が話しやすいように相手が頷いてくれないことに苛立った。それでも続けた。兄の話も、こうやって聞いてほしかったはずだった。
「今すぐ出頭する方法を考えましょう。宮坂さん以外の弁護士に相談します」
「それまでに、清原へ記録が届くか」
「届く方法を作ります。隠れるための映像は作りません」
黒崎は墓石に手を置いた。冷たかった。兄に許されたような気にはならなかった。
閉店した喫茶店の中へ足を踏み入れた。椅子とテーブルは埃をかぶっていた。裏口から、遥と黒崎が入ってくる。暗がりに、飯田が待っている。
「よう、指名手配犯」と飯田が言った。
「……飯田」
「ここの喫茶店のマスター、俺の昔の知り合いでな。鍵、預かってたんだ。警察は5階を全部ひっくり返したばっかりだ。ここもすぐ調べられるかもしれない。長くはいられねえ」
「清原から、連絡があっただろう」と黒崎は言った。
「あった。倍額出すってさ」
「受けなかったのか」
「コイン、家に置いてきちまったからな」と飯田が言った。
飯田は照れくさそうに鼻をこする。裏口がノックされる。ノックは3回、間を置いて2回続いた。飯田がドアを開ける。真帆と琴美が、大きなバッグを抱えて入ってくる。
「社長! 生きてた!」
「叔父さん……」と琴美が言った。
黒崎は仲間たちの顔を見回す。言葉が出てこない。
「会社は畳んだんでしょ。じゃあこれは元社員の自主的な同窓会ってことで」と真帆が言った。
喫茶店へ入ったのはその夜だけの相談場所としてだった。長く潜伏できる場所ではない。5階を調べた捜査員が、階下を見直す可能性も当然ある。遥はそのことを全員へ伝えた。
琴美は沢井の事務所で名刺を受け取った別の弁護士へ連絡していた。顧問と依頼人の利害が衝突している疑いがあること、黒崎が出頭を考えていること、自分たちにも処罰の可能性があることを説明した。返事はまず記録を消さないように、だった。
新しい弁護士は彼らに都合のよいことばかりは言わなかった。黒崎が今夜さらに誰かへ会いに行くことには反対した。連絡を絶たず、翌朝の面談へ来るよう求めた。
その助言があるのに、黒崎は後に呼び出しへ向かう。それは勇気ではなく、まだ残っている弱さだった。自分の事件の核心だけは自分の手で先に確かめたい。そう思う時、他人の助言はいつも遅く感じられた。
5人は店の埃を拭いた。空の食器棚にはカップの跡だけが丸く残っていた。何年も営業していない店で、湯を沸かす音がした。真帆が電気ポットを持ち込んでいた。
「これ、会社のじゃないよ。私の」
誰も聞いていないのに言った。家宅捜索で物を持っていかれるのを見た後では何が誰のものかを言っておきたくなった。
カウンターにノートパソコンが並ぶ。そこで資料を広げることになった。テーブルにサンエイマートの紙袋を置いた。
「この紙袋、底が二重になってた」と真帆が言った。
真帆は紙袋の底の厚紙をそっとはがす。その下から、小さなマイクロSDカードが出てきた。セロハンテープで留められている。
「由里子さんが……」
「最初から、ずっと、私たちのすぐそばにあったんだ」
「中身は音声ファイルが1つ。録音日時は10月19日、午前7時12分。由里子さんがここに来た日の朝」と真帆が言った。
全員が息をのむ。
「殺される前の晩にも、同じ言葉を録音していたのかもしれない。……これが、その元か」と黒崎は言った。
「ただ、ファイルが途中から壊れてる。半分くらいしか再生できない。原本を保全して、複製から読める部分を探してる。時間がかかる」と真帆が言った。
「再生できるところまで、流してくれ」と黒崎は言った。
真帆は再生ボタンを押す。
「……黒崎さん。もしこれを聞いているなら、私はもう、あなたに直接お詫びすることはできません」という由里子の声が聞こえた。
喫茶店の静寂に、由里子の声が響く。
「17年前、私は法廷で嘘をつきました。あの雨の夜、アパートの階段を降りてきた男の顔を、私は確かに見ました。でも、それは颯一さんではありませんでした」という由里子の声が聞こえた。
黒崎の手が、カウンターの縁を握りしめる。
「それは私の恋人でした。……岡野大輔でした」という由里子の声が聞こえた。
「……っ」と琴美が言った。
「大輔は朋美さんとも付き合っていました。朋美さんに子どもができて、別れ話がこじれて……。大輔は私の部屋に逃げ込んできて、泣きながら、殺すつもりはなかったと言いました。そして警察が来た時、刑事さんに写真を見せられたんです。朋美さんの元恋人だという男の写真を」という由里子の声が聞こえた。
由里子の声が震える。
「私はその写真を指さしました。大輔を守るために。……颯一さんの人生と引き換えに」という由里子の声が聞こえた。
遥が、目を閉じる。
「この17年、1日も忘れたことはありません。2年半前、本当のことを話そうと相談しました。でも、相談した相手は私たちを守るのではなく、黙らせようとしました。今度はその人からこう言われました。『明日の午後9時、お前は死ぬ。逃げれば、夫が17年前の事件の犯人として捕まる。黙って死ねば、夫は守ってやる』と」
「脅されてたんだ……」
「黒崎さん。私が殺されたあと、あの人はきっと、あなたを犯人にします。次はあなたが誰かを殺す番です――そういう筋書きを、あの人は」という由里子の声が聞こえた。
突然、音声が途切れる。ざらついたノイズが続いた。
「……ここから先が壊れてる」
「おい、1番大事なところで!」
「真帆。確認にどれくらいかかる」と黒崎は言った。
「わかんない。半日か、1日か……」と真帆が言った。
黒崎は目を閉じる。
「あの電話の『次はあなたが誰かを殺す番です』。脅迫じゃなかった。警告だったんだ」と黒崎は言った。
「誰かが、警告の言葉を切り取って、脅迫に作り替えた」と遥が言った。
「俺たちと同じやり方でな」と黒崎は言った。
紙袋の底から記録媒体が出てきた時、琴美は喜ぶより先に、自分が捨てていたかもしれないことを考えた。真帆も、接着剤を剥がす前に写真を撮らなかった箇所があると気づいた。発見はきれいな手順では起きなかった。
真帆はその不備も記録した。記録媒体の状態を写し、以後は原本へ書き込まない方法で複製した。音声の一部は再生できず、保存状態の問題なのか、機器が書き込みを終えられなかったのかはまだわからなかった。
「聞こえないところを、作って戻すことはしない」
真帆は言った。
「残っているデータが読めるか、別の人にも見てもらう」
録音の作成日時は機器の時計が誤っていれば違う可能性がある。10月19日という表示だけで、収録日を断定できない。由里子の文章や連絡の記録と照合していく必要があった。
黒崎は黙って頷いた。以前なら、そんな但し書きは依頼人を不安にさせると言っただろう。今は不安の残る説明でなければ信じられなくなっていた。
再生できた声の中で、由里子は大輔を守ろうとしていた。同時に、大輔を犯人だと告げていた。矛盾しているようで、人間としてはわかった。彼女は17年間の生活を捨てずに、17年前の嘘だけを取り消したかった。その2つを同時には守れないと知って、途方に暮れたままここへ来たのだろう。
琴美は録音を止めてほしいとは言わなかった。父の名が出るたび、手を膝の上で組み直した。
記録の保管場所は棚の奥にあった。清原が1人、段ボール箱の前に立っている。「平成21年 世田谷区アパート女性殺害事件」。清原は今度はためらわずに、箱の封を切る。中から、1通の茶封筒を取り出す。表書きに「供述調書 高瀬昭雄」。封筒の中の調書の1枚目に、小さなメモ用紙がクリップで留めてある。緑色のインクで短い言葉が記されていた。清原はそのメモをしばらく見つめ、手帳に挟む。
ポケットのスマートフォンが震える。見知らぬ番号からメッセージが届いた。「黒崎です。17年前の真実を話したい。今夜0時、旧サンエイマート跡地で。1人で来てください」清原は画面を見つめる。そして、封筒を懐にしまい、保管庫を出ていく。
黒崎のそばで、スマートフォンが光った。電源を切っていたはずの予備の端末が、震える。見知らぬ番号からメッセージが届いた。「清原だ。17年前の記録を確認した。お前に渡したいものがある。今夜0時、旧サンエイマート跡地。1人で来い」
「罠です」と遥が言った。
「わかってる」
「なら、行かないで」
「清原が本当に箱を開けたなら、そこには高瀬さんの調書がある。お前のお父さんの言葉が、17年ぶりに出てくるんだ」と黒崎は言った。
遥は唇をかむ。
「行かせてくれ。今度こそ、門の前で立ち止まりたくない」
清原は呼び出しへ向かう前、回収した資料の所在を中津へ送った。封筒の写真も送った。自分が何かに巻き込まれた時だけ開けろ、というような芝居がかったことは書かなかった。今から確認に行く、連絡が途絶えたら来てくれ、と書いた。
17年前にも、こうすればよかったのだと思った。特別な告発ではなく、普通の業務連絡として、見たものを次の人へ渡す。次の人にも過ちがあれば、さらに別の人が確かめられるようにする。
彼は上司としての指示を1行消した。これは捜査の正式な指揮ではなく、個人として過去の記録を確かめる行動だと加えた。自分の立場で部下を従わせることと、情報を残すことを分けなければならなかった。
中津からすぐに電話が来た。1人で行くなと言った。清原は近くで待つよう頼んだ。その頼みも正しくはなかった。少なくとも、今夜の自分を誰も知らない状態にはしなかった。
旧店舗の跡はフェンスに囲まれた空き地になっていた。雑草が伸び放題になっていた。そこが、かつてコンビニのあった場所だった。錆びた看板の支柱だけが、街灯の下に残っている。黒崎が、フェンスの切れ目から入ってくる。
「清原」と黒崎は言った。
返事はない。空き地の奥、支柱の根元に、誰かがうずくまっている。黒崎は駆け寄る。清原だ。脇腹に、ナイフが深々と刺さっている。スーツが血で黒く染まっている。
「清原!」
「……黒崎……か」
清原の手が、黒崎の袖をつかむ。
「お前じゃ……ないんだな……」と清原が言った。
「しゃべるな」
黒崎は清原の傷口を押さえる。出血が止まらない。とっさに、刺さったナイフの柄を握る。
抜いたら出血が増える。抜くな。押さえろ。
その瞬間だった。四方から、強烈なライトが黒崎を照らし出す。赤色灯が周囲を染めた。パトカーが何台も集まっていた。フェンスの向こうから、拳銃を構えた捜査員たちがなだれ込んでくる。
「動くな! 黒崎、そのまま手を見せろ!」
黒崎は目を細める。自分の手はナイフの柄に触れていた。足元では清原が血を流していた。まるで誰かが撮影のために用意した構図のようだった。
「……すまなかった……」と清原が言った。
清原の手が、黒崎の袖から、力なく滑り落ちる。
「管理官!」と中津が言った。
ライトの中で、黒崎が、ゆっくりと顔を上げる。




