第9章 筋書き
照明が一斉に向けられた。捜査員たちが黒崎を取り囲んだ。
「ナイフに触るな! 手を見せろ!」と中津が言った。
「救急車を呼べ!」
黒崎は清原の脇腹を両手で押さえたまま、叫び返す。
「今、手を離したら、こいつは死ぬ! 救急車だ! 早く!」
中津は一瞬ひるむ。清原の顔は土気色になっていた。黒崎の両手の下から、血がにじみ続けている。
「……救急車! 急げ!」と中津が言った。
捜査員たちが駆け寄る。救急隊員が到着するまで、黒崎は1度も手を離さない。清原がストレッチャーに乗せられた瞬間、黒崎の両腕が背中にねじり上げられる。手錠が冷たい音を立てた。
「黒崎隆史。殺人および殺人未遂の容疑で逮捕する」黒崎は、告げられた容疑を聞き取ろうとした。
黒崎は抵抗しない。血まみれの両手を見下ろしている。黒崎はフェンスの外を見た。集まった人々の中に、遥と飯田、真帆、琴美の顔があった。遥が叫ぼうとするのを、飯田が肩をつかんで止める。
手錠をかけられた後、黒崎は清原が生きているか尋ねた。中津は答えなかった。問いを繰り返すと、救急隊へ引き継いだ、とだけ言った。何も約束しないその答えを、黒崎は不思議と信用できた。
自分の手についた血を見た。大輔の時には洗った。今夜は洗うことを許されなかった。助けようとした痕跡が、自分を疑う資料になる。どちらも同じ手だった。
黒崎が柄を握っていたのは誤りだった。傷を塞ごうとして混乱し、刃物に触れた。後から正しい動作へ直すことはできない。だから、何をしたかを順番通りに話す必要があった。今度は逃げなかったというだけで、前に逃げたことが消えるわけでもない。
車の窓の向こうに琴美が見えた。父が連れていかれた時、彼女はその場にはいなかった。今、叔父が連れていかれるところを見ている。黒崎は目を逸らそうとして、やめた。手錠をかけられた顔も、彼女の記憶の中へ渡さなければならなかった。
喫茶店へ戻った真帆は修復という言葉を使うのをやめた。聞こえないところを元通りにする魔法のように受け取られたくなかった。
壊れていたのは音声の全体ではなく、読み出しに使う情報の一部だった。複製上で別の読み出し方を試すと、後半にも再生可能な区間が見つかった。つながらない箇所はつながらないままにした。どこで欠けたかを記し、元の配列から勝手に順序を替えなかった。
途中で画面を見ていた飯田が、あと何分だ、と聞いた。
「わからない。出ないかもしれない」
それが答えだった。
朝方、短い区間が読めた。由里子が誰かの名を言っていた。4人は初めの1度では誰も口にできなかった。
「宮坂亮平」
録音を止めた後、遥が確認するように言った。
続きには当時の公判を担当した検事だという説明があった。相談に行ったこと、その後に荒木が亡くなったこと。彼女の知る事実と、彼女が疑っていることが混じっていた。
真帆はこれは由里子さんがそう語った録音だ、と言った。宮坂が殺したことそのものを映した資料ではない。そう言うと、琴美はうつむいた。
「それでも、次にどこを調べればいいかは変わりますね」
遥の言葉に、全員が頷いた。答えが出たのではなく、確かめる相手が変わった。
接見室へ入ってきた宮坂はまず黒崎の手首を見た。怪我はないか、と尋ねた。黒崎はその親切を、今まで何度も受け取っていた。
「昨夜、別の弁護士に連絡したそうだね」
宮坂は椅子へ座った。
「会社の件と君の件が重なっている。窓口が増えると、説明が食い違う」
「先生は俺の弁護を続けられるんですか」
「なぜそう思う」
黒崎は黙った。由里子の録音の後半を、まだ聞いてはいなかった。だが清原へ渡されなかった調書、バックアップの鍵、都合よく現れた報告書。それらをつなぐ時、宮坂の顔だけを外して考えることはもうできなかった。
「利害が違うかもしれない」
宮坂は頷いた。怒らなかった。
「その判断をするのは自由だ。ただ、君の会社のことを誰より知っているのは私だ。そこは忘れないほうがいい」
喫茶店では由里子の声がスピーカーから流れ続けていた。
「2年半前、私は宮坂先生の事務所を訪ねました。再審の相談をするために。当時の検事だった先生なら、きっと力になってくれると思ったんです。……愚かでした」という由里子の声が聞こえた。
宮坂は机の上へメモ用紙を置いた。筆記具を出す動作はゆっくりしていた。いつもの緑のインクだった。
「ここで何を話したと君が言っても、私が同じ説明をするとは限らない。だから、推測で言い合うことはやめよう」
黒崎は確信に近いものを覚えた。だが確信は証拠ではない。宮坂の曖昧な言い方には自分を怯えさせる力があった。その力を、相手の有罪の証明にしてはならなかった。
「高瀬昭雄の調書を、見たことがありますか」
「事件の資料は大量にあった。17年前のことだ」
「12分のずれは」
宮坂はペンを持ったまま、黒崎を見た。
「記録の中で検討されたことだろう」
「検討した記録はどこにあるんですか」
「君はその結論を支える書類を書いている」
答えには正確な一部分が含まれていた。黒崎が長年、自分へ許してきた話し方と同じだった。
「先生は私の話を全部聞いてくださいました。そして、言いました。『よく話してくれた。あとは任せなさい』と。……その後、荒木さんが亡くなりました」という由里子の声が聞こえた。
琴美が、両手で口を覆う。
宮坂は自白をしなかった。誰を殺したとも、誰を脅したとも言わなかった。黒崎が期待した怒りも見せなかった。
「私はずっと、君がどこで立ち止まるかを心配してきた」
そう言って、メモ用紙を折った。
「兄さんのためだと言って仕事を始めた。依頼人のためだと言って続けた。今度は由里子さんのためだと言うつもりか」
黒崎は返事をしなかった。
「誰かのためだと言う時、君は自分に何を許しているのか、よく考えたほうがいい」
宮坂の指摘には、否定できないところがあった。それが黒崎をいっそう腹立たせた。相手を憎むことと、相手の言った言葉をすべて誤りにすることは違う。
「先生も、考えてください」
黒崎は言った。
「何を」
「俺に書かせたものが、先生をいつまで守るか」
宮坂の指が止まった。ほんの短い間だった。これを録画していても、何の証明にもならない。黒崎はもう、その程度の変化へ勝利を感じなかった。
宮坂は立ち上がった。
「清原君は助かったようだ。彼の話が取れれば、君に有利な事情も出るだろう。私が動けるうちに、連絡してほしい」
「弁護は別の人に頼みます」
黒崎がそう告げると、宮坂は初めて笑わなかった。
「わかった」
扉が閉まった。黒崎は宮坂の口から自白を引き出そうとしていたことに気づいた。本人が語れば世界が片づく。そんな都合のよい終わり方を、また誰かに求めていた。宮坂が応じなかった以上、確かめる仕事はまだ残っていた。
病院のガラス越しに、酸素マスクをつけた清原が見えた。中津は廊下のベンチに座っていた。そこへ、遥がやってくる。
「……高瀬。何しに来た」と中津が言った。
「管理官に、聞きたいことがあって」
「お前、黒崎の会社にいたんだろう。共犯の疑いだってあるんだぞ」
看護師がICUから出てくる。
「清原さん、意識が戻りました。少しだけなら、お話しできます」と看護師が言った。
清原はベッドで目を開けた。声がかすれていた。中津と遥がそばへ寄った。
「……黒崎は」と清原が言った。
「逮捕しました。管理官を刺した容疑で」
「馬鹿野郎……」
清原は苦しげに息をつく。
「黒崎じゃない。俺が着いた時、あそこにはもう誰かがいた。暗くて顔は見えなかった。刺されて倒れたあとに、黒崎が来た。……あいつは俺の傷を押さえてた」と清原が言った。
「しかし」
「中津。俺の上着の、内ポケット。手帳だ」
中津はロッカーから血に汚れた背広を取り出し、手帳を探る。手帳の間から、小さなメモ用紙が1枚、落ちる。遥が拾い上げる。古びたメモ用紙だった。緑色のインクで、短く書かれていた。「高瀬調書、不要。公判に出すな。――宮」遥の手が震える。
「高瀬……調書……」と遥が言った。
「17年前、捜査本部に検察から戻ってきた調書に、それが付いてた。主任検事の宮坂亮平の字だ。……俺はそれに従った。須貝さんと2人で、調書を保管庫の奥にしまった」と清原が言った。
「父の調書を」と遥が言った。
清原は遥の顔を見る。そして、ゆっくりと理解する。
「お前……高瀬昭雄の」と清原が言った。
「娘です」
清原は目を閉じる。目尻から、一筋、涙が流れる。
「……すまなかった」
「謝る相手が、違います」と遥が言った。
「ああ。わかってる」
清原は中津を見る。
「中津。俺の証言を正式に取れ。品川の事件も、黒崎に不利な資料だけで判断するな。身柄の扱いは担当検事に報告して判断を仰げ」
「管理官、正気ですか。相手は宮坂亮平ですよ。元検事で、法曹界の重鎮で」と中津が言った。
「だから17年、誰も手を出せなかった。……もう、終わりにする」と清原が言った。
中津はメモをすぐに袋へ入れた。緑色の文字だけで筆者が決まるわけではない。清原がどう受け取り、どこへ置き、いつ見つけ直したか。それを本人の供述として残した。捜査機関の記録に付随した紙であっても、17年間の所在を辿る必要はあった。
清原は当時の部署で保管対象から外された参考資料の控えを、後年の異動時にまとめ直したと説明した。自分の手帳にだけ残していた部分もあった。正規の保管をしなかった責任は証拠を残していたことでなくなるものではない。
「持っていたなら、なぜ出さなかったんですか」
遥が尋ねた。
「その時は判決まで出たことを、自分が覆せるとは思わなかった」
「その後は」
清原は目を閉じた。
「最初に出さなかったことを、説明できなくなった」
答えは地味だった。巨大な力への恐れもあっただろう。出世への欲もあっただろう。しかし清原が口にしたのは遅れてしまったことを認められない、ということだった。
遥は父の名前を呼んだ。高瀬昭雄、とゆっくり言った。
「父は店を続けながら、何度も説明に行っています。聞かれなかったからって、1度でやめてはいません」
清原は頷いた。謝罪を繰り返さなかった。中津へ、自分の当時の対応も報告してくれ、と言った。
帰り際、遥は病室の時計を見た。壁の時計は動いていた。父がどれほど苦しんでも、動き続けていたものだ。止めることが誠実さとは限らない。間違っているなら確かめ、進める必要がある。
黒崎が外へ出るまでに、清原のひと言だけでは足りなかった。清原の証言は殺人未遂の疑いを大きく変えたが、品川の事件は別だった。捜査員は建物への出入りを確認し直し、欠けた映像の扱いを調べた。黒崎の入室前から救急要請につながる匿名の通報がなされていたことも、時系列の見直しを促した。
新たに選任された弁護士は黒崎の供述を細かく区切って確認した。黒崎が「10時ごろ」と言うと、その時刻を何で見たかと聞いた。黒崎は苛立ちかけ、やめた。それを聞かずに他人の時計を信じたのが、自分だった。
当面の身柄について判断がなされても、疑いが全部晴れたわけではなかった。会社の行為も残っていた。黒崎には何を捜査されているかを別々に説明するよう求められた。
玄関を出た時、出迎えの4人へ何と言うか、用意していなかった。ありがとうでは足りず、すまなかったでは済まない。真帆が先に謝ったために、彼はまた、人を許す側へ戻れそうになった。
戻ってはいけないと思った。
「俺も、鍵を渡したのと同じことをした。先生だけは調べなくていいと思った」
真帆は顔を上げた。
「それぞれ、話そう」
黒崎は言った。
「まとめて俺のせいにはしない」
釈放された黒崎が出てくる。私服の捜査員が、少し離れて尾行についている。玄関前には遥と飯田、真帆、琴美が待っていた。真帆が、真っ先に駆け寄ってくる。黒崎の前で、深く頭を下げる。
「ごめんなさい。私が、鍵を渡したから。私が、先生を信じたから」と真帆が言った。
「顔を上げろ」
「だって」
「俺も信じてた。5年間、ずっと」と黒崎は言った。
飯田は宮坂の示した報告書を机へ置いた。
「記載された会社の住所へ行ってきた。空き部屋だった。登記はあるが、実際の調査をした担当者にはまだつながらない」と飯田が言った。
「報告書の内容を、別に確かめる必要がありますね」
真帆は晴海の映像を開いた。逆光の中に、小さな四角い物が見えた。
「御守りみたいな形。これ以上の細部は元の映像からは読めない」
飯田は宮坂の車を外から撮った写真を出した。ルームミラーに、紺色の四角い御守りが下がっていた。
「似ていますね」と琴美が言った。
「ここから、ほかの記録を調べてもらおう」と黒崎は言った。
真帆は御守りの文字を読み取れたとは言わなかった。元映像にない文字を、画像処理で正しく生み出すことはできない。見えるのは形と明暗の分布だけだった。宮坂の車に似た物があるという事実は照合先を示す手掛かりにはなる。本人が運転していたことも、その場へ来ていたことも、それだけでは決まらない。
飯田は嫌な顔をしたが、反論しなかった。
「じゃあ、車の出入りだな」
駐車場の記録を自分たちで勝手に取り寄せることはできない。情報を弁護士経由で捜査側へ渡した。彼らが集めることのできるものと、捜査機関が手続きによって確認するものを分けた。
同じことを報告書の発行元についてもした。住所が空室だっただけでは架空とは断定しない。登記上の連絡先、記載された電話番号、報告書に出た担当者。確認できたことと確認できなかったことを書いた。急に、仕事が遅くなったように感じられた。
嘘を作る時には足りないところを埋めれば前へ進めた。確かめる仕事では足りないところを足りないまま次へ渡さなければならない。
黒崎はその遅さを引き受けた。遅れているあいだに誰かが死ぬかもしれないという恐れはあった。だからこそ、保護と捜査を自分たちだけでしない必要があった。
店の隅にあった古いテレビをつけた。夜のニュース番組が流れた。画面には宮坂の顔があった。「元東京地検検事・弁護士 宮坂亮平氏」の字幕。
「私はアリバイ株式会社の顧問を務めておりました。しかし、彼らが行っていた証拠の捏造の実態を知り、断腸の思いで、すべての資料を警察に提出いたしました」と宮坂が言った。
「……は?」
「彼らは5年間で、200件を超えるアリバイを捏造しています。防犯カメラの映像、交通機関の記録、証人の買収。中には殺人事件の被疑者の逃亡を助けたものもある。……私が、もっと早く気づいていれば」
宮坂はカメラの前で、沈痛な面持ちで頭を下げる。
「今後、アリバイ株式会社側から何らかの証拠が出てきた場合、それは」とキャスターが言った。
「残念ながら、すべて捏造の可能性を疑わざるを得ないでしょう。それが、彼らのやってきたことですから」と宮坂が言った。
飯田はテレビのスイッチを乱暴に切る。
「先回りしやがった。俺たちが何を出しても、全部ニセモノ扱いだ」と飯田が言った。
「由里子さんの録音も……」と琴美が言った。
「私が作ったって言われたら、反論できない。……だって、作れるもん。私なら」と真帆が言った。
誰も口を開かなかった。
「黒崎さん。どうするんですか」と遥が言った。
黒崎は答えない。カウンターの上の、サンエイマートの紙袋を見つめている。
テレビの中の宮坂は自分が何を提出したかを丁寧に説明していた。提出しなかったものについては誰も尋ねなかった。顧問弁護士が会社の不正を明らかにした、という順序が、短い放送の中でできあがった。
真帆は番組の編集点を見てしまった。どこで表情を挟み、どこで司会者の相槌を入れたか。編集した人が宮坂と通じているとは思わなかった。見ている人にわかりやすい筋道を作ろうとしただけだろう。その善意で、宮坂の話が滑らかになった。
彼女は昔の主婦の連絡先を探した。今すぐ謝罪を送れば、自分が追い詰められたから謝ったと思われるかもしれない。事実、追い詰められて思い出した。しかし、動機が美しくなるまで待っていたら、また何年も過ぎる。
短い文章を書いた。編集した事実、当時の指示、自分が断らなかったこと。許してほしいとは書かなかった。送る前に、相手が連絡を望んでいるかを確かめる方法を弁護士へ相談しようと思った。謝罪も、自分の都合だけで相手の生活へ押し込んではならない。
画面を閉じると、黒崎が名簿を見ていた。自分たちのしたことを全部明らかにする、と言い始めた。
黒崎は裏口から外へ出た。夜風が頬に当たった。ドアの下の隙間に、茶封筒が差し込まれている。宛名には「黒崎隆史様」と書かれていた。最初に届いたものと同じ封筒だった。筆跡も似ていた。黒崎は封を切る。中には依頼人名簿のコピーが入っていた。赤い丸が増えている。岡野大輔の名に、赤い丸がついていた。清原誠二の名にも丸があった。その上から、1本の線で消されている。黒崎は最後の行へ目を移した。「黒崎隆史」その横に、新しく書き込まれた一行。
「明日 午後9時」黒崎は封筒を握りしめる。黒崎は路地の奥を見た。街灯の届かない暗がりから、見られているように感じた。黒崎は顔を上げる。誰もいない。
黒崎は店内へ戻った。仲間たちが顔を上げる。黒崎は名簿をテーブルに置く。全員が、最後の一行を見る。長い沈黙が続いた。
「……全部、公表する」と黒崎は言った。
「え?」
「アリバイ株式会社が、5年間でやってきたこと。214件、全部だ。誰のために、何を、どうやって作ったか。真帆の記録を、原資料を残して」
「おい、待て。そんなことしたら、俺たち全員、刑務所行きだぞ」と飯田が言った。
「依頼人の方たちも……。浜田さんみたいに、本当に無実の人たちのアリバイまで、全部崩れます」と琴美が言った。
「わかってる」と黒崎は言った。
「じゃあ、なぜ」と遥が言った。
「宮坂の言うとおりだ。俺たちが嘘を1つでも隠している限り、俺たちの出す真実は誰にも信じてもらえない」と黒崎は言った。
黒崎は紙袋に手を置く。
「由里子さんの声を、本物にするためには。俺たちが作ったニセモノを、全部ニセモノだと認めるしかない」と黒崎は言った。
誰も、何も言えない。黒崎は仲間たち1人ひとりの顔を見る。
「明日の午後9時までに。……決めてくれ」と黒崎は言った。
「誰に、全部ですか」
琴美の声が、黒崎の言葉を止めた。
「世間に。警察に。調べる人間に」
「その3つは同じではありません」
琴美は依頼人名簿を裏返した。
「夫から逃げるために居場所を隠した人がいます。職場に病気を知られたくない人も。私たちの罪を認めるために、その人たちの名前を配信するんですか」
黒崎は言い返せなかった。すべてを晒すことが、すべてを償うことのように思えていた。
「元の記録は弁護士と捜査機関へ提出します。個別の依頼はそれぞれに連絡する。公にするのは自分たちがした行為です」
遥が言った。
「真実を認めることと、人の秘密を配ることは違います」
飯田が、初めて顔を上げた。
「俺の娘のことも、入れないでくれ」
誰も反対しなかった。
黒崎は名簿から手を離した。最後まで自分が決めるつもりだったことに気づいた。会社を畳む時と同じだった。自分の覚悟のために、他人の明日を使おうとしていた。
「わかった。方法から、決め直そう」
その言葉の後、5人は初めて、結末ではなく翌日の仕事を話し始めた。




