第7章 12分
テーブルの上には外された腕時計があった。
「責任って……どういう意味ですか」と遥が言った。
黒崎は椅子に腰を下ろした。口を開きかけ、閉じる。先に話す言葉を決めてしまえば、いつものように都合の悪い部分を切り落とせる気がした。
「17年前の10月16日。金曜日。雨の夜だった」
黒崎が椅子に座ったのは話すためだったが、座ってしまうと逃げる場所が減った。遥は立ったままだった。2人の目の高さが変わったことに、黒崎は救われる気がした。見下ろされることは自分が責められる側にいることをわかりやすくしてくれる。
だが責められることと、話すことは違った。
「兄を殺した、という言い方は正確じゃない」
黒崎は言い直した。
「調べていないことを、確かめたように書いた。それを正式な鑑定の根拠に使わせた。兄に不利になるとわかっていて、訂正しなかった」
遥は頷かなかった。告白して楽になるのは、黒崎のほうだ。慰めの言葉を探すために、父の17年を使いたくはなかった。
「何を見て、何を見なかったんですか」
その問いへ答えるには17年前の机まで戻らなければならなかった。
黒崎は当時の資料を開きながら話を続けた。
「被害者は三枝朋美、24歳。会社員。アパートの自室で首を絞められて殺された。死亡推定時刻は午後8時45分から8時55分のあいだ」黒崎は写真から目を上げずに話した。
雨がアパートの外階段を濡らしていた。男の影が階段を急いで降りてきた。顔は見えない。向かいのマンションの廊下から、傘を差した若い女性がそれを見ている。当時27歳の戸川由里子だった。
「目撃者は向かいのマンションに住む戸川由里子。午後8時50分、アパートの階段を降りてくる男を見たと証言した。顔ははっきり見た、と」
その夜、颯一はコンビニの袋を提げて歩いていた。傘を差している。
「兄は朋美さんの元恋人だった。別れた後も、何度か会っていた。その夜も、彼女の部屋の近くまで行っていた。……会わずに帰ったと、兄は言った」と黒崎は話した。
サンエイマートは小さなコンビニだった。店長の高瀬昭雄がレジに立っていた。客を迎える時、顔が少し緩んだ。颯一が入ってきた。弁当と、ビニール傘を1本、レジに置く。
「雨、ひどくなりましたね」と高瀬が言った。
「ええ。傘、壊れちゃって」
防犯カメラはレジの上にあった。録画装置の画面に、時刻が表示されている。「21:02」。壁の時計も、9時2分を指している。
「兄は午後8時50分にはこのコンビニにいたと主張した。アパートから、歩いて10分の場所だ。もしそれが本当なら、8時50分に階段を降りてきた男は兄じゃない」
颯一がコンビニで買った弁当は焼き魚だった。傘を買い直したのは朋美の家の近くで風にあおられ、骨が曲がったからだった。彼は店のごみ箱へ壊れた傘を入れようとし、入らないとわかると店長に尋ねた。
「これ、どうしたらいいですか」
店長は明日の朝に回収があるからここへ、と裏口の軒下を示した。颯一は礼を言った。2人が交わした会話はそれがほとんどだった。
高瀬昭雄は逮捕の報道が出るまで、その客の名を知らなかった。人柄がよさそうだったから無実だと思ったのではない。ニュースが示した時刻に違和感を覚えた。店のテレビで天気予報が流れていた。閉店する店ではないが、夕方の便の残りを片づける頃だった。頭の中の店の時計と、番組の時間が合わなかった。
翌朝、時報に合わせて確かめると、録画装置も壁時計も進んでいた。どちらも、夏の停電の後に同じ腕時計で合わせ直していた。その腕時計を昭雄は机の引き出しに入れた。もう使わないようにするだけでなく、警察へ説明するためだった。
しかし警察で尋ねられたのはどうして客を覚えているのか、どれほど正確に覚えているのか、ということだった。時刻を確かめ直した過程を説明すると、事件の後に合わせ直した時計の話ですね、と要約された。
そうではない、と昭雄は言った。そうではないと言うたびに、自分の説明が複雑になる。時計は3つあり、停電は数か月前で、確認は翌朝だった。その全部を話さなければ伝わらないのに、刑事の質問は短かった。
帰る時、昭雄は調書に署名した。読んで確認してくださいと言われた文章は、自分の言葉と少し違った。それでも大筋は書いてあると思った。違うと主張したら、話そのものを聞いてもらえなくなる気がした。紙の余白に何か書き足したかったが、差し出されたペンは黒かった。
店へ戻ると、12歳の遥が宿題をしていた。父は弁当を温め、娘へ渡した。何かあったの、と聞かれ、時計がずれてたんだ、と答えた。娘は壁を見上げ、今は合ってるの、と聞いた。
昭雄は合ってる、と答えた。
店長の話を聞いたのは清原と相棒の須貝達郎だった。高瀬は2人の向かいに座った。
「ですから、あのレコーダーの時計、進んでるんですよ。12分くらい。夏に停電があって、そのとき私の腕時計で合わせ直したんです。その腕時計が、どうも進んでたらしくて。壁の時計も同じ腕時計で合わせたから、両方とも進んでて」と高瀬が言った。
「12分ね」
「次の日、テレビの時報と比べて気がついたんです。間違いありません。あのお客さんがレジに来たのは本当は8時50分ごろです」
清原は須貝と顔を見合わせる。
「その話は科捜研の鑑定を待ってから判断します」と清原が言った。
「あの人、やってないですよ。私が覚えている時刻と、警察の言う時刻が違うんです」と高瀬が言った。
若い隆史がモニターの前に座っている。画面の「21:02」。
「録画装置の時計が正確かどうか。その鑑定が、俺に回ってきた」と黒崎は話した。
若い隆史は画面を拡大した。壁の時計を見た。9時2分。防犯映像の表示と同じだ。ふたつが一致することは、正しい時刻だということではない。その当たり前の文が頭に浮かび、隆史はすぐに別の作業で追い払った。
壁の時計と、一致している。書類にそう書くことだけはできる。正確か、と聞かれた時の答えにはならない。
レジ奥に小さなテレビが映っている。何かの番組が流れていた。画面は粗いが、字幕の輪郭は見える。放送局へ問い合わせれば確かめられるかもしれない。隆史は電話番号を検索するためブラウザを開き、閉じた。検索窓に何も打たないままだった。
廊下でコピー機が紙を詰まらせた。隣室の職員が呼びに来たが、隆史は動かなかった。テレビの映像をもう一度見た。レジの客の肩越しに、日本地図のようなものが青く浮かんでいる。兄がそこにいた時、どんな天気予報が流れていたのか。それは少し手を伸ばせば届く問いに思えた。
荒木からは「確認メモだけでいい」と言われている。確認したことだけを書けば嘘ではない。隆史は自分にそう言い聞かせた。正しく書いた事実が、正しくない結論を支える時の怖さを、彼はまだ自分に説明できなかった。
「テレビを調べれば、本当の時刻がわかったかもしれない。放送記録と照合すれば。……でも、俺はそこで手を止めた」
若い隆史の顔には迷いと恐れが浮かんでいた。
「怖かったんだ」
映像のテレビは小さかった。拡大しても番組が特定できるとは限らない。録画した番組を店内で再生していた可能性もある。それでも、何を確認すべきかを記録することはできた。荒木は不確かさを、何もしなくてよい理由へ変えた。隆史はその説明を受け入れた。
内部の確認メモを使って正式な鑑定書をまとめるのは別の職員だ、とも言った。隆史が署名するのは自分の見た範囲だけでいい。だが提出された書類ではその範囲を限定する文が薄くなり、結論が太くなっていた。
隆史は完成したものを見た。抗議できなかった、とは言えない。机を立つことも、別の上司へ申し出ることもできた。恐れたのは職を失うことだけではなかった。再確認して兄に不利な結果が出た時、自分が兄を見捨てる最後の人になることを恐れた。
調べなければ、自分の中では兄を無実のままにできる。
その卑怯な余地を、隆史は自分のために守った。兄を信じたかったのではなく、自分が兄を疑ったことを知られたくなかったのかもしれない。
以来、彼は鑑定について聞かれると、兄の事件からは途中で外れた、と答えた。完全な嘘ではない。正式な担当からは外されていた。自分の署名した内部メモがどう使われたかを、文の後ろにつけなかっただけだった。
人に説明するたびに、隆史は無実を信じた弟になった。兄の話を最も多く語った者が、兄を最も不正確に伝えていた。
黒崎は顔を伏せた。
「もし、テレビを調べて、本当に9時2分だったら。兄が本当にやっていたら。……そう思った瞬間、手が動かなくなった。朝までに鑑定書を出せと言われていた。荒木主任は壁の時計と一致すれば10分だと言った」と黒崎は言った。
「……それで」
「『録画装置の時刻表示は店内の壁掛け時計の表示と一致しており、正確であると認められる』。俺はそう書いて、判を押した」
遥は手を膝に置いた。指先が白くなるほど強く握っていたが、黒崎はそれを見なかった。目を合わせると、自分への判決を求めてしまいそうだった。
「弁護人の沢井は俺の鑑定書を見て、時計の主張を取り下げた。科捜研の、それも被告人の実の弟が正確だと言っているんだ。争いようがない。高瀬さんの調書は裁判に1度も出なかった」と黒崎は言った。
「父の話は……父が説明したことは、記録にあったんですか」
「あった。あなたのお父さんは、時刻のずれについて正しい疑問を出していた。俺は確かめなかった。そのあとで、父親の話を信用できないものにした」
「父は、嘘をついた人にされたんです」遥は言った。「店を閉めたあとも、近所の人が父の話をするとき、必ず『あの裁判の』ってついた。時計のことを説明しただけなのに」
黒崎は謝ろうとした。遥は手を上げて止めた。謝罪そのものを拒んだのではない。いま聞いているのは父の話であり、黒崎が謝るために作った順番へ戻したくなかった。
「お父さんが何を失ったか、全部は知りません」黒崎はようやく言った。「これからも、あなたが教えてくれるとは限りません。それでも、俺が書いたことは俺が説明します」
面会室はアクリル板で仕切られていた。颯一は痩せていた。隆史は向かいに座った。
「隆史。お前の鑑定、読んだよ」と颯一が言った。
「……兄貴」
「責めてるんじゃない。お前は見たとおりに書いたんだろ」
隆史はうつむいたまま顔を上げられない。
「なあ、隆史。時計は正しい時刻を指してるんじゃない。誰かが合わせた時刻を指してるだけなんだ」颯一は弟の左手首を見た。
「……」
「だから、今度はお前が合わせてくれ。正しい時刻に」
颯一はアクリル板に手を当てる。隆史はその手に、自分の手を重ねられない。
「その3か月後、兄は独房で死んだ。心臓の発作だと聞かされた。……31歳だった」と黒崎は話した。
面会の終わりに、颯一は娘の話をした。今はいくつになった、と聞いた。自分で覚えていないのではなかった。普通の父親のように、誰かと娘の年齢を話したかったのだろう。
隆史は12歳だと答えた。颯一は少し考えて、中学生か、と言った。誕生日と学年の関係を2人で確認した。そこだけ、食卓で話しているようだった。
「会いに行ってくれとは言わない」
颯一は言った。
「ただ、金を送ってもらう時、無理だったら無理って言ってくれ。黙って嫌いになられるのは困る」
隆史は嫌いにならない、と答えた。その約束は守った。嫌うよりずっと簡単な方法で、遠ざかった。
颯一は痩せていたが、弟が帰る時には背を伸ばした。見送りの姿だけはしっかりしていたい、と思ったのかもしれない。隆史はその姿が兄の最後の記憶になるとは考えなかった。次の面会で話すことを、帰りの電車の中で考えていた。
仕事のこと。天気のこと。父母の墓のこと。どれも、今すぐ話さなければならないことではなかった。
兄が亡くなったという連絡が入った時、隆史は食堂で魚の煮つけを食べていた。電話を受けて席を立った。戻ると、箸を置いた時の位置に魚が残っている。食べられなくなると思った。実際にはほとんど全部食べた。食べ終わってから泣いた。
自分の体がその日も生きるために働いていたことを、彼は長く恨んだ。
2012年の夜、隆史は職場に残っていた。モニターにはあのコンビニの映像を開いていた。レジ奥の小さなテレビを、限界まで拡大している。粗い画面の中に、天気予報の日本地図が見えた。隆史は放送記録のコピーと見比べる。
「兄が死んだ翌年、俺はもう1度、あの映像を開いた。テレビに映っていたのは天気予報だった。放送記録を調べると、その天気予報が流れていたのは午後8時49分から51分」と黒崎は話した。
隆史はモニターの「21:02」を見つめる。ポケットから、兄の遺品の古い腕時計を取り出す。竜頭を引き抜く。針が止まる。
「兄は8時50分、コンビニのレジにいた。兄の主張を裏づけるものが、そこにあった」
2012年に確認した放送記録は番組の放送予定表だった。画面に見える地図の形は一致していたが、細かな切り替わりまでは確認できなかった。午後8時49分から8時51分という幅は兄の主張を強く支えた。しかし放送変更の有無、店内で再生された別の映像の可能性、時刻のずれが全編で一定かどうか、さらに検証すべき点が残っていた。隆史はこの時も、知りたい答えへ急ぎすぎた。
黒崎はその資料を荒木に出した。荒木は今さら何をする、と言った。黒崎はそれを、再審が拒まれたという記憶に作り替えた。
職場で上司に申し出ることと、裁判所へ請求することは違う。弟として相談できる弁護士もいたはずだった。専門家へ資料を渡し、自分の誤りを明らかにする方法はあった。黒崎はそこまで進まなかった。
「再審の請求をした、と言ってきたのも違う。正式な請求はしていない」
黒崎は遥へ言った。
「止められたところで、止まった。自分の署名も出さなければならないと、わかっていたからだ」
遥は長く彼を見た。
「お兄さんはもう亡くなっていたからですか」
黒崎は首を振りかけた。だが、否定できなかった。
「生きている人を救う仕事なら、自分のしたことを説明しなくて済むと思った」
退職してから、映像の仕事を個人で続けた。企業の設備確認、古い記録の整理、争いになった取引の映像確認。合法な仕事だけをしていた年も長かった。その後、困り果てた依頼人へ、存在しない証拠を1つ渡した。感謝された。兄にできなかったことができた、と感じた。
その感謝が、翌月の自分を許した。次の依頼は前の依頼ほど慎重に調べなかった。3件目には料金を決めた。
会社を作ったのは転落の途中だった。最初から裏稼業を始めたつもりではない。その言い方が、自分を守る最後の嘘だった。
黒崎の目はテーブルの上の時計に落ちた。
「その時計……」と遥が言った。
「兄の形見だ。兄が死んでから止めた。……動かせば、また時間が進んでしまう気がした」
「なぜ、そのとき、再審請求をしなかったんですか」
「請求しようとした。まず上に、映像と放送記録を持っていった。荒木主任に握りつぶされた。『今さら鑑定を覆せば、科捜研の信用が崩れる。過去の大量の鑑定が全部疑われる』と。……それで、辞めた」と黒崎は言った。
「そして、アリバイを作り始めた」
「人を裁く証拠が、あんなに簡単に作られるなら。人を救う証拠だって、作れるはずだと思った」
遥はゆっくりと立ち上がる。目に涙が光っている。
「父は店をたたんでからも、毎年10月16日になると、お酒を飲んで泣いてました。『俺がもっと強く言っていれば』って。……父のせいじゃなかったんですね」と遥が言った。
「ああ」黒崎は、それ以上は言えなかった。
「黒崎さんのせいだった」
「……ああ」謝罪の言葉をつなげなかった。
「父は黒崎さんの鑑定書に、殺されたんです」
遥は資料室を出た。黒崎はひとり残された。止まった時計の文字盤には夕日が映り、針ではなく窓の光だけがゆっくり動いていった。
遥は父の人生を壊した、と言ってから、胸の奥が少し軽くなるのを感じた。原因を1人の顔へ置くと、怒りは行き先を得る。
だがその軽さは長く続かなかった。父の人生には父の選択もあった。酒を飲んで母へきつく当たった夜を、黒崎の鑑定書のせいだけにしたくはない。父をただ傷つけられた善人として覚えることも、父を失うことだった。
「今はあなたの顔を見て話せません」
遥は言い直した。
「それだけは私が決めます」
黒崎は頷いた。「許してください」と言えば、彼女にまた選択を押しつけることになる。だから謝罪の続きを飲み込んだ。その沈黙さえ、遥が許したわけではなかった。
外へ出ると、空腹だった。信号を待ちながら胃が痛んだ。コンビニの光が見えたが、入れなかった。父の店に似ているわけではない。それでもレジの背後の時計を見たくなかった。
琴美から電話が来た。出ずに、少し時間がほしい、とだけ送った。返事はわかりました、だった。何があったかを訊く文章は続かなかった。
家へ戻って、父の古い腕時計を探した。母から渡されて以来、箱を開けていなかった。中の時計は止まっていた。父が店の時計を合わせた、あの時計かどうかはわからない。似ているからといって決めてはいけない。
遥は箱を閉めずに、机へ置いた。
父の時計を机へ置いたまま、遥は明かりを消した。暗闇では、時刻を確かめることができない。父が何度も針を合わせた手を思い出そうとしたが、浮かんできたのは、店の床にこぼれた牛乳を雑巾で拭く大きな背中だった。時計だけが父だったわけではない。
黒崎はホワイトボードの前に戻った。名簿の赤丸を見つめている。
荒木。須貝。沢井。由里子。そして、俺。
黒崎はホワイトボードに書き出していく。「荒木=鑑定を急がせた」「須貝=高瀬調書を取り、消した」「沢井=時計の主張を取り下げた」「由里子=嘘の目撃証言」「黒崎=誤った鑑定書」
兄を殺人犯にした、5つの歯車。……復讐に見える。誰が見ても、兄のための復讐だ。そして、復讐する動機を持っているのは俺だ。
ペンを止める。荒木の妻の言葉が、蘇る。
「『颯一くんの件で、謝りに行かなきゃならない人がいる』って」と語った静江の声を思い出した。
「『16年間、間違ったままにしてきたことを、正しくしてくる』と」
黒崎はハッとする。
「……違う。復讐じゃない」
黒崎はホワイトボードに書いた。「全員、話そうとしていた」。書いた途端、もっともらしい筋書きに見えた。今度こそ、書いた言葉に都合よく事件を従わせてはならない。
「殺されたのは、昔のことを話そうとした人間ばかりだ。口封じの可能性がある」断言しかけて、黒崎は語尾を直した。
では口を封じたいのは誰か。黒崎は宮坂からもらった証拠品目録のコピーを見る。「捜査担当 清原誠二」
黒崎は三枝朋美の名前をホワイトボードへ書き加えた。名簿には載っていない。依頼人ではなく、17年前に殺された人だった。
今の事件を兄の復讐だけで考えれば、彼女は始まりの理由にしかならない。だが、朋美を殺した者は兄とは別の場所で17年を生きてきた。その者にとって、再審は昔の誤りが訂正されることではない。現在の生活が壊れることだった。
由里子の夫。彼女が守ろうとした人。古い写真の中で彼女と笑う男。
黒崎は大輔の名を書いた。勢いで丸をつけかけ、ペン先を止めた。疑いの始まりを答えの終わりにしてはならない。17年前に同じ慎重さがあれば、と考えたところで、いま目の前の証拠を見ることに戻った。
携帯が鳴る前に、黒崎は大輔へ連絡しようとしていた。会って何を尋ねるかを考えていた。相手から先に電話が来たために、尋ねる順番を相手へ渡してしまった。
黒崎の車が停まる。岡野邸の明かりは消えている。スマートフォンが鳴る。番号は通知されていなかった。
「……はい」と黒崎は言った。
「黒崎さんですか。岡野です」
声が震えている。
「話したいことがあります。妻のこと。17年前のこと。全部」
「今、どこに」と黒崎は言った。
「品川の、会社の社長室です。……今夜10時に来てください。1人で。お願いします。もう、限界なんです」
電話が切れる。黒崎は腕時計を見ようとして、左手首に何もないことに気づく。時計は会社に置いてきた。
岡野の会社はガラス張りのビルに入っていた。最上階だけ、明かりがついている。裏口のドアが、わずかに開いている。
黒崎は静かに歩いてくる。社長室のドアは半開きだった。
「岡野さん」と黒崎は言った。
返事はない。ドアを押し開ける。
部屋の明かりは落とされていた。大きな机の向こうで、大輔が椅子ごと倒れていた。胸元が、黒く濡れている。黒崎は駆け寄る。首筋に指を当てる。脈はない。体はまだ温かい。
「岡野さん……」と黒崎は言った。
黒崎の手に血がついた。デスクの上で、スマートフォンが光る。大輔のものではない。ケースは見覚えのある淡い色だった。由里子のスマートフォンだ。画面に、送信済みのメッセージが表示されている。宛先には黒崎の名があった。「次はあなたが誰かを殺す番です」その下に、たった今送られたばかりの、新しい一行。「――済みました」黒崎のポケットで、自分のスマートフォンが震える。
黒崎は顔を上げる。黒崎は天井の隅を見上げた。防犯カメラの赤いランプがついていた。壁際のモニターには室内の映像が映っていた。血に濡れた手で死体の前に立つ、自分の姿がそこにあった。遠くから、サイレンの音が近づいてくる。
……筋書きだ。最初から、全部。
黒崎は一瞬だけ迷い、そして窓の外の非常階段へと走る。
非常階段へ踏み出してから、黒崎は自分の行動を頭の中で巻き戻した。机の角へ鞄を置いたのは、救命のために両手を空けようとしたからだ。それでも防犯映像には、落ち着いて現場を見回す男に映るだろう。
救急へ電話しようとして携帯を取り出したところで、由里子の端末が光った。文字を追う間、自分の電話は発信されなかった。何が先に必要だったのか。今になって順番が見える。
済みました。その短い文字を読んだ時にはもう、大輔の体から手を離していた。
意味がわかった瞬間、頭の中の順番が変わった。大輔を助けることより、自分がどう見えているかを先に考えた。17年前、兄が説明できなかった理由を理解したつもりになっていたが、これは理解ではなかった。
兄の逮捕を思い出した。映像があり、証言があり、警察が来る。自分に不利なものが先に揃った場所では説明はあとから始まる。あとからの説明がどれほど弱いかを、黒崎は知っていた。
逃げれば疑いが深まる。その知識もあった。それでも足が動いた。知っていることは怖い時に必ず役に立つわけではなかった。
階段の途中で振り返った。上の窓に自分の影が映っていた。消してほしいと初めて思った。誰かが映像から自分を消せるなら、いくらでも払う。その瞬間、依頼人たちの言葉が、自分の口に入ってきた。
黒崎は鉄の非常階段を駆け下りた。眼下に、赤色灯の群れが集まってくる。
遥の部屋のカーテンに朝日が差した。泣きはらした目の遥が、テレビをつける。ニュース番組が始まった。キャスターの声は硬かった。
「昨夜、東京・品川区の会社社長室で、社長の岡野大輔さん、45歳が刃物で刺され、死亡しているのが見つかりました。警視庁は、現場にいたとみられる会社役員の黒崎隆史容疑者、42歳を、殺人の疑いで指名手配しました」キャスターは、確認されている事実と捜査当局の見立てを続けて読み上げた。
黒崎の顔写真が映し出された。遥はリモコンを取り落とす。
「警視庁によりますと、黒崎容疑者の事務所からは殺害された岡野さんの妻を含む複数の人物の名前を記したリストが押収されており、警察は一連の不審死との関連についても調べを進めています」
画面には押収されたリストも映った。赤い丸が見えた。その周りには黒崎が書き込んだメモが残っていた。遥はテレビの前で立ち尽くす。
「……黒崎さん」




