第6章 届かなかった手紙
琴美は父の顔を、逮捕された日の写真で覚え直した。子供の頃の記憶では父の目はもっと細かった。笑っているところしか見ていなかったせいかもしれない。新聞の写真の父は誰かが代わりに用意した顔のようだった。
母が亡くなった時、押し入れの奥から靴の箱が出てきた。中には父の手紙と、古い通帳があった。琴美は初め、母の恋人からの手紙だと思った。父は遠くで働いている、という説明を、幼い頃から疑ってはいた。だが、疑いの先を知らずにいることが母との生活を守っていた。
最初に開けた手紙には跳び箱ができるようになったか、と書かれていた。琴美はその時22歳だった。10歳の自分への問いが、12年遅れて届いた。
返事を書こうとして、宛先がもうないことに気づいた。父は15年前に死んでいた。封筒の宛名の活字だけが、まだ父をどこかへ届けられる人のように見せていた。
母を責めたかった。なぜ会わせてくれなかったのか。なぜ名前を教えなかったのか。しかし母はもう、怒られる場所にいなかった。死者ばかりの家で、琴美は手紙を日付順に並べた。並べれば、失った順番がわかると思った。
日付の間には何もない月があった。会いに来てほしいとは書いていない。父はいつも、学校はどうか、風邪はひいていないか、と尋ねた。いつか会えるつもりだったから書かなかったのか、会えないことを知っていたから書かなかったのか、琴美には決められなかった。
便箋の裏には、鉛筆で小さく「返事を待っています」と書かれたものがあった。ほかの手紙より短く、そこだけ消しゴムをかけた跡がある。待つと言った父も、誰かの返事を待たせていたのだろう。琴美はそれを読んで初めて、手紙の中の父にも迷う時間があったと思った。
父の名前で調べると、事件の記事が出た。母が隠したのは父がいることだけではなかった。人から何と呼ばれるかを隠していた。
翌朝、琴美はいつも通りに出勤した。電車の中で、世界中の人が自分を見ている気がした。もちろん誰も見ていなかった。前日までと変わらない顔で座っている自分自身に、最も驚いた。
取調室で琴美の前に座ったのは清原だった。中津が記録を取っていた。
「沢井法律事務所にはいつから」と清原が言った。
「……4年前です。昨年6月まで、3年間働いていました」
「なぜ、この会社に入る時、それを隠した」
「隠したかったからです」と琴美が言った。
「沢井さんが亡くなった夜のことを話してもらおう」
「夜7時ごろ、先生は事務所で、私に言いました。『今夜、ある人に会ってくる。16年間、間違ったままにしてきたことを、正しくしてくる』と」
「16年間」と清原が言った。
「先生は私を見て、泣きそうな顔で笑いました。『君には本当に申し訳ないことをした』って」
「なぜ、あなたに謝る」
琴美は顔を上げる。
「私が、黒崎颯一の娘だからです」と琴美が言った。
中津のペンが止まる。清原は表情を動かさない。だが、机の上の指先が、かすかに強張る。
「父が逮捕された時、私は10歳でした。父と母は籍を入れていなかったから、私の名字は母のほうで。父の事件のことはずっと知らされずに育ちました」
「いつ知った」
「5年前、母が亡くなって、遺品を整理していた時です。押し入れの奥に、手紙の束がありました。拘置所と刑務所から、父が私に宛てて書いた手紙。母は1通も私に渡さなかった」と琴美が言った。
琴美はバッグから、色褪せた封筒を1通取り出す。
「父は最後まで無実を訴えていました。だから私は父の弁護人だった沢井先生の事務所に、事務員として入ったんです。父の記録を見るために」
「それで、沢井さんが邪魔になった」
「違います!」と琴美が言った。
「17年前の事件の関係者が、次々に死んでいる。弁護人の沢井、刑事の須貝、科捜研の荒木、目撃者の岡野由里子。全員、お前の父親を有罪にした人間だ。そして、お前はその父親の娘で、事件の関係者の事務所と、黒崎の会社の両方にいた」
「私は誰も殺していません」
「岡野由里子が殺された夜、お前はどこにいた」と清原が言った。
琴美は一瞬、言葉に詰まる。
「……会社に、いました。みんなと一緒に。モニターの前で、9時を迎えました」
「証人は」
「片岡真帆、飯田弘明、高瀬遥」と琴美が言った。
清原は苦々しげに鼻を鳴らす。
「アリバイを作る会社の社員が、互いのアリバイを証言するわけか」
「本当のことです」
「この世で1番信用できない種類の、本当のことだな」と清原が言った。
清原は父を憎んだことはあるか、と尋ねた。琴美は答える前に、質問の後ろにあるものを考えた。父を憎んだと答えれば、叔父への敵意もあり得ることになる。憎んでいないと答えれば、復讐の動機になる。どちらの答えも、清原の手の中へ入る。
「あります」
琴美は言った。
「小さい頃は会いに来ないから。後で知ってからはどうしてもっと助けてって言ってくれなかったんだろうって。でも、それと人を殺すことは違います」
清原はペンを止めた。
「父を好きだったら、私が犯人になるんですか」
「そういうことを言っているんじゃない」
「では私が好きだったことも、嫌いだったことも、同じように書いてください」
中津が紙へ視線を落とした。清原は何も言わなかった。
琴美は沢井の事務所に入った理由をもう1度説明した。父の事件を調べたかった。経歴を偽ったわけではない。けれど、自分が誰の娘かは告げなかった。就職からしばらくして、沢井が気づいた。書類を扱う時に父の名のところで手が止まるのを見ていたのだろう。
「先生は私を辞めさせませんでした」
「口止め料でも払われたか」
「給料はほかの人と同じです」
琴美は沢井の最期を語った。告白するようにではなく、聞いた言葉と見た行動を分けて話した。法律事務所で覚えたことだった。皮肉にも、その話し方を教えたのは沢井だった。
退室を認められた時、椅子の脚が床へ引っかかった。少し大きな音がした。琴美はすみませんと言ってから、自分がなぜ謝ったのかわからなくなった。
琴美が出てくる。逮捕はされなかった。玄関前の植え込みの横に、黒崎が立っている。琴美は足を止める。
2人は川沿いを並んで歩いた。街の明かりが川面に揺れている。
「宇野千里さん、という名前に覚えはあるか」と黒崎は言った。
「……母の、昔の名字です。私が小さい頃、母は1度結婚して、宇野になって、また別れて伊東に戻りました」
「兄が刑務所に入ってから、俺は毎月、宇野千里という人に、金を送っていた。兄に頼まれたんだ。『俺の代わりに』と。……兄に子供がいることは知っていた。でも、会いに行く勇気はなかった。名前も、宇野琴美だと思っていた」
「知ってます。母の通帳に、母が亡くなるまで、毎月、黒崎隆史さんの名前で振り込みがありました」と琴美が言った。
黒崎は立ち止まる。
「私、大学に行けたんです。そのお金で」
「……」
「父の手紙に書いてありました。『隆史は俺の自慢の弟だ。いつかきっと、あいつが本当のことを証明してくれる』って」と琴美が言った。
黒崎の顔が、苦しげに歪む。
「だから、会いに来ました。名前を隠して。黒崎さんが、どんな人なのか知りたくて。そしたら……アリバイを作ってました」
「幻滅したか」
「いいえ。泣きそうになりました。この人も、ずっと戦ってるんだって」と琴美が言った。
琴美は封筒を黒崎に差し出す。
「父の、最後の手紙です。亡くなる1週間前の日付です。これだけは叔父さんに読んでほしくて」
「叔父さん」という言葉に、黒崎の肩が小さく揺れる。封筒を受け取る。開けない。開けられない。
「……池袋の件だ」
「え?」と琴美が言った。
「北条という依頼人。池袋の情報を伝えたのはお前だけだ。そして池袋で、俺を撮った画像が送られてきた」
琴美は目を見開く。
「私、誰にも話していません。言われたとおり、システムに登録しただけで」
「システムに」と黒崎は言った。
「はい。いつもどおりに」
黒崎ははっとする。
「……他の3人はシステムに登録していない」
川の水は夜になっても止まって見える瞬間がある。街灯の光が水面へ長く落ち、波が光の中で動く。琴美は歩く速さを少し落とした。叔父と呼んだ相手が、隣にいる。その事実を、急いで通り過ぎたくなかった。
「母には会ったことがあるんですか」
「1度だけ。兄がまだ、捕まる前に」
「どんな人でしたか」
黒崎は困った。母を知っている娘へ、何を話せばよいのかわからなかった。
「兄に、野菜を食べさせようとしていた」
琴美が笑った。
「私にも、ずっと言ってました」
「俺の皿にも入れた。ついでだって」
それは小さな記憶だった。裁判では使えない。再審の申立てに添える必要もない。だが琴美はもう少し話してほしいと思った。父母が事件の関係者になる前の、何も立証しない記憶がほしかった。
黒崎は兄の靴の話をした。颯一は踵を踏んで履く癖があり、安い靴をすぐにだめにした。琴美は自分もそうだと言った。似ているから親子なのではない。それでも、似ていると言えるものを見つけると、親子だった時間が少し戻った。
やがて話が途切れた。琴美は手紙を渡した。黒崎はすぐには封を切らなかった。
「怖いですか」
「ああ」
「私も、全部読むのに3か月かかりました」
叔父は頷いた。27歳の姪が、42歳の男へ、読めなくても仕方がないと言っていた。黒崎はその寛大さを受け取ることにも、罪悪感を覚えた。
「父は叔父さんを許せって書いたわけじゃありません」
琴美は先回りしたように言った。
「私にも、許せって言わないでください」
黒崎は手紙を内ポケットへ入れた。
「言わない」
「なら、少しずつでいいです」
それが家族として交わした、最初の約束になった。
黒崎が勢いよく入ってくる。真帆がまだ残っている。
「真帆。北条の件、システムに入っていたのは池袋の情報だけだな」と黒崎は言った。
「え? ……うん、琴美ちゃんが入れたやつだけ」
「犯人は人から聞いたんじゃない。システムから読んだ。だが、外部からの侵入はない」
「だから、中の誰かが」と真帆が言った。
「もう1つある。毎晩のバックアップだ」
真帆の顔から、すっと表情が消える。
「宮坂先生のクラウドに送っている、暗号化済みのバックアップ。鍵はお前しか持っていない。……そうだな」
真帆はうつむく。
「真帆」と黒崎は言った。
「……2年半前」
真帆は声を絞り出す。
「宮坂先生に言われたの。『万が一、君たちが全員逮捕されたら、弁護士の私がバックアップを開けないと、君たちを守る証拠を出せない』って。『黒崎君は人を信用しない男だから、彼には言わなくていい』って。……先生、ほんとに心配してくれてるんだと思って」
「鍵を、渡したのか」と黒崎は言った。
「渡した」
黒崎は壁に手をつく。
「ごめん。ごめんなさい。でも、先生だよ? あの宮坂先生だよ?」
真帆が鍵を渡したのは会社が2度目の家宅捜索の噂に怯えていた時期だった。捜索が現実に行われたわけではない。そういう話がある、と宮坂が持ってきた。
宮坂は真帆を責めなかった。責めないまま、もし君に何かあれば、ほかの4人の記録も開けなくなる、と言った。真帆は自分が会社を危険にさらしているように感じた。鍵を持っていることが権限ではなく、負担に見えた。
預ければ楽になる。その気持ちを、仲間を守るため、と呼び直した。
黒崎へ報告しなかった理由は宮坂に止められたからだけではない。黒崎に、技術担当として信用されていた。その信用が誤りだったと知られたくなかった。秘密は悪意だけから生まれるのではない。善意で始めたことの説明が難しくなり、そのまま残ることもある。
「いつ渡したか、記録は」
黒崎が聞いた。
「手元にある。送信の控えも」
記録する女は自分の過失も記録していた。保存したことと、報告したことは違う。
真帆は画面を開いた。宮坂からの返信にはこれで皆を守れます、とあった。その下に、真帆の「ありがとうございます」が残っていた。
誰から誰へ礼を言う場面だったのか、今は逆になって見えた。
宮坂の事務所には重厚な調度品が並んでいた。窓の外には皇居の緑が見えた。黒崎と真帆は宮坂に向かい合って座った。
「……そうか。私のところから、漏れていたのか」と宮坂が言った。
宮坂は深いため息をつく。机の引き出しから、ファイルを取り出す。
「3か月前、うちの事務所のサーバーに不正アクセスがあった。セキュリティ会社の報告書だ。顧客データの一部が抜かれた可能性がある、と。……まさか、君たちのバックアップまで」
「なぜ、言ってくれなかったんですか」
「被害の範囲が確定するまではと思った。私の判断ミスだ。本当に申し訳ない」宮坂は、書類を指で揃えてから頭を下げた。
額が机へ近づくのを見て、真帆は思わず息をついた。謝る人を疑い続けることには、疑う人のほうにも力が要る。
「じゃあ、先生のせいじゃ……」
「いや、私の責任だ。鍵を預かった以上はね」と宮坂が言った。
宮坂は顔を上げ、黒崎を見る。
宮坂の事務所の壁には、若い頃に受けた表彰状が飾ってあった。黒崎が以前、意味を尋ねたことがある。難事件を早く処理した功績だ、と宮坂は答えた。詳しい話をせず、当時の同僚はよく働いた、と笑った。その時の黒崎には、部下を褒める立派な上司に見えた。
いま宮坂は、古い経歴の延長に自分がいることを疑っていないようだった。人の人生を一度で決める仕事だった、と言えば、そんなことはない、と必ず訂正するだろう。にもかかわらず、いつも結論から話す人だった。
「黒崎君。この際だから、言っておきたいことがある。私はずっと清原誠二という男を疑っている」宮坂は用意していた書類を、そこで初めて机の中央へ押し出した。
「清原を」と黒崎は言った。
「17年前、私は君の兄さんの事件の公判を担当した検事の1人だった。当時から、清原の捜査には不自然な点があった。……これを見てくれ」と宮坂が言った。
宮坂は古いコピーを差し出す。証拠品目録の一部を複写したものだった。番号が1つ飛んでいる。
「捜査資料の目録だ。番号が1つだけ欠けている。欠番の資料は『供述調書・高瀬昭雄』。コンビニの店長だそうだ。この調書は公判には1度も出てこなかった」と宮坂が言った。
「コンビニの……」
「当時、私は上に掛け合ったが、相手にされなかった。清原が、何かを握りつぶしたんだ。私はそれを、17年間、悔やんできた」
黒崎はコピーを見つめる。
「清原は今、管理官だ。昔の事件を掘り返されて、1番困るのは誰だと思う」と宮坂が言った。
報告書は印刷が鮮明だった。表紙には長い会社名があり、担当者名と押印があった。黒崎は署名のある紙が相手の話を補強する感覚を知っていた。自分の仕事も同じものを売っていた。
「この会社へ、こちらから確認しても構いませんか」
黒崎が尋ねると、宮坂は間を置かなかった。
「もちろん。ただ、私の事務所のほかの顧客情報には触れないでほしい」
妥当な留保だった。妥当であるために、それ以上を聞く側が無遠慮に見える。
真帆は報告書の日時を見た。侵入の時期は3か月前だった。荒木が死んだのは2年前。沢井が死んだのは昨年。それを言いかけたが、宮坂が先に、過去の記録まで遡って持ち出された可能性がある、と説明した。
赤い名簿が漏れた理由としては成り立つ。しかし、過去の依頼時に犯人が待ち伏せできた理由にはならない。
黒崎はその違いを、ここでは口にしなかった。相手を安心させるため、と自分には説明した。本当は宮坂が別の答えを用意するのが怖かった。信じたい相手の話に、信じられなくなる隙間を見つけると、人はその隙間を隠すことがある。
宮坂が差し出した古い目録のコピーには緑の細い線が引かれていた。万年筆の色だった。黒崎は先生は昔から同じ色を使っているのか、と何でもない話のように尋ねた。
「若い頃からね。黒と赤は仕事の人間が大勢使う。自分の字を見失わないためだ」
宮坂は笑った。
「責任の所在がわかるようにしておくのは大切だから」その言葉のあいだ、宮坂は自分の書類には触れず、黒崎の持つコピーを見ていた。
その言葉を聞いて、黒崎は初めて、報告書の発行元を自分で調べなければならないと思った。
黒崎と真帆はエレベーターを待った。
「……先生、いい人だよ。やっぱり」と真帆が言った。
「ああ」
黒崎は手の中のコピーを見つめている。エレベーターの扉が閉まる。その隙間から、廊下の奥でこちらを見送る宮坂の顔が、一瞬だけ見える。
全員が集まっている。琴美も戻っている。だが、空気は以前とまるで違う。誰も、隣の人間と目を合わせない。
「で、結局どうなってんだよ。俺はスパイで、真帆ちゃんは鍵を渡してて、琴美ちゃんは社長の姪っ子で」と飯田が言った。
「やめてよ」
「やめねえよ。この会社、全員が全員に嘘ついてたってことだろ」
「飯田さんに言われたくありません」と遥が言った。
「ああ、そうだな。俺が1番最低だ。で? 次は誰の秘密が出てくるんだ? 高瀬、お前は何を隠してる」と飯田が言った。
遥は言葉に詰まる。
「やめてください、2人とも」と琴美が言った。
「社長はどうなんだよ。社長が1番、何か隠してるんじゃねえのか。12分って何だ。あの時計、なんで止まったままなんだ」と飯田が言った。
黒崎は黙っている。
「なんとか言えよ!」と飯田が言った。
「会社は今日で畳む」と黒崎は言った。
全員が黙る。
「お前たちを巻き込んだのは俺だ。最後の名前は俺だ。あとは俺1人でやる」と黒崎は言った。
「何それ。勝手すぎない?」と真帆が言った。
「給料は3か月分出す。データは全部消す。ここに来たことは忘れろ」と黒崎は言った。
「逃げるんですか」と遥が言った。
「守るんだ」と黒崎は言った。
「同じことです!」と遥が言った。
遥は立ち上がる。
「黒崎さんはいつもそう。1人で決めて、1人で背負って、1人で門の前に立って。それで、何が守れたんですか」と遥が言った。
黒崎は答えない。真帆が泣き出す。飯田が乱暴に上着をつかんで出ていく。琴美は黙ってうつむいている。
解散を告げる声は平静だった。黒崎は平静であることを、相手を傷つけないことだと思っていた。
琴美は今月の給与計算の紙を机へ置いた。飯田には娘がいる。真帆には賃貸契約がある。遥には明日の予定がある。会社を畳むという1文の中には彼らが用意していない来月まで入っていた。
「3か月分というのは私たちに黙ってもらう分ですか」
琴美が聞いた。
「生活のためだ」
「生活のためなら、相談して決めてください」
黒崎は答えられなかった。社員を守ると言いながら、社員の意思を聞いていなかった。聞けば自分の決断が遅れる。自分の苦痛を早く終わらせるための解散を、彼らへの配慮として差し出していた。
真帆は泣きながら、データは消さない、と言った。
「社長の持ち物だけじゃない。映ってる人のものでもある」
それを言える会社ではなかった。だからこそ、言わなければならなかった。
飯田は上着を取ったが、机の引き出しは閉めなかった。戻るつもりなのか、片づける気力がなかったのか、本人にも決まっていなかった。
誰もいなくなってから、黒崎は給与の紙を読んだ。振込先には5人分の生活の入口が並んでいた。自分の仕事を、5人の信念が集まった場所だと思うほうが楽だった。生活のためにここにいる人間を、信念のために危険へ連れていったことが見えなくなるからだ。
やがて、ほかの社員は帰った。遥が1人、資料室に入る。段ボールの上には黒崎が置いていった目録の複写があった。遥は何気なくそれを手に取る。遥は目録の欠番の欄を見た。「供述調書・高瀬昭雄 サンエイマート世田谷代田店 店長」遥の手が、震え出す。戸口に、忘れ物を取りに戻ってきた黒崎が立っている。
「……高瀬?」と黒崎は言った。
遥はゆっくりと振り返る。顔が真っ白だ。
「黒崎さん。これ」
遥はコピーの一行を指さす。
「高瀬昭雄。……父です」
黒崎の手から、車のキーが落ちる。
夕日が、2人の間の床に長い影を落としている。
「父はコンビニをやっていました。サンエイマート。私が12歳の時に、店をたたんで、それからずっと、お酒ばかり飲んで」と遥が言った。
「……」
「死ぬ前に、1度だけ言いました。『あの人は無実だった。俺は本当のことを言ったのに、誰も聞いてくれなかった』って」
遥は黒崎を見る。
「あの人って、お兄さんのことだったんですね」と遥が言った。
黒崎は答えられない。
「父は何を言ったんですか。警察に、何を話したんですか」
黒崎は目を閉じる。
「黒崎さん。知ってるんでしょう。12分って、何なんですか」
長い沈黙が続いた。黒崎は止まった腕時計を外し、テーブルの上に置く。
「……兄を殺したのは目撃者でも、刑事でも、裁判官でもない」と黒崎は言った。
「え?」
「俺にも、責任がある」
遥が、息をのむ。
高瀬昭雄という名前を見た時、遥は父の肩を思い出した。店のシャッターを下ろすと、父は両腕を上げて伸びをした。働いている父の姿はその最後の動作で覚えている。昼間は学校にいたから、棚へ何を並べ、誰に何を売っていたのかを、ほとんど知らなかった。
父の職業を、コンビニの店長、と書いたことがあった。参観日の日、父は少し恥ずかしそうに、その紙を見た。店長といっても1人で何でもやるんだぞ、と言った。遥は知ってる、と答えた。本当は知らなかった。
店を畳んだ後、父の職業欄を空けた。担任に何か書くよう言われ、母に尋ねた。母は今は探してるところ、と言った。その言葉を書ける欄はなかった。
今、証拠の目録には父の名前の隣に、店長、と残っていた。裁判で聞かれなかった言葉が、父から仕事まで奪ったのか。それだけが原因だったと言い切れないことは遥にもわかっていた。経営の苦しさも、父の酒も、夫婦の諍いもあった。
けれど、父が毎年同じ日に黙り込んだ理由はここにあった。
黒崎の「俺にも責任がある」という言葉は最初、事実の告白には聞こえなかった。主人公になろうとしているようにさえ聞こえた。父の17年を、自分の後悔の中へ収めないでほしい。遥はその怒りを飲み込み、続きを聞いた。




